第五小節「歓喜の歌」
午後2時。太陽が一番高い所に昇り、1日の中で最も明るいとされる時間。しかし、符楽森が走る森の中は薄暗かった。密集した木々は殆ど日光を地面に通すことは無く、符楽森は恐怖を覚えていた。
「イヴォナさん〜!どこ〜!」
符楽森は、こんな森早く抜け出したいという気持ちで、大声でイヴォナを呼んだ。しかし、小鳥たちの
*
ザクザクと寂しい足音が辺りに鳴り響く。イヴォナの捜索が始まってからそう時間は経っていなかったが、符楽森の心は限界を迎えていた。そもそもイヴォナは悪魔と呼ばれる程当たりの強い人だ。そんな人がわざわざ自分の呼びかけに返答することは無いだろう。それに強そうな彼女のことだ。きっとこちらが探さなくとも自分で帰ってこれる。そんな状況で自分が捜索に出かけても、逆に自分が探される立場になるだけだ。そうすればみんなに迷惑をかけてしまう。そうだ、きっとそうだ。冷静になれば、自分は寮で待っているのが一番良い。
そう思った彼は、捜索を中断し、来た道を戻り始めた。
*
ザクザクと焦るような足音が辺りに鳴り響く。
「ここどこ!?」
符楽森は心の中で叫んだ。
おかしい。ただ来た道を真っ直ぐ走っているはずなのに、一向に寮が見えてこない。行けども行けども森。仕方ない、ここは一先ず地図アプリで場所を確認だ…と、彼はポケットに手を伸ばし、その顔を真っ青に染めた。無い。携帯が無い。符楽森は思考を巡らす。そうだ、荷造りの時にリュックに入れてしまった…。彼に絶体絶命のピンチが訪れた。自分の位置も確認できなければ、誰かに連絡することすらできない。便利な機能をたった一つの小さな機械に詰め込んだせいで、それがないと何もできないという世の中の不条理を彼は恨んだ。と同時に、気が抜けてしまったのか、彼はその場にヘナヘナと座り込んでしまった。
「絶望だ…。」
目に涙を浮かべ、彼は誰にも届かない呟きを
晴れたる青空 ただよう雲よ
小鳥は歌えり 林に森に
こころはほがらか よろこびみちて
見かわす われらの明るき笑顔
花さく丘べに いこえる友よ
吹く風さわやか みなぎるひざし
こころは楽しく しあわせあふれ
ひびくは われらのよろこびの歌
<引用:岩佐東一郎『よろこびの歌』>
ベートーヴェン作曲交響曲第九番。日本でも広く知られるこの曲を、彼はこの状況下で歌う。なぜ急にこの歌を歌いたくなったのか。ただ、壮大な何かに助けを求めるために、彼は歌ったのか。神の加護なんてものがあるなら、なんとしてでも掴みたい、そんな気持ちから歌ったのか。
「僕なんで第九なんか歌ってるんだろ。」
本人も不思議に思っているようだ。しかし、急にハッとした面持ちになると、彼は勢いよく立ち上がった。
「第九が…聞こえる…。」
彼はそう呟くと、一目散に走り出した。
*
彼がヘナヘナと倒れ込む少し前から、どこかで第九がオルガンで演奏されている音がしていた。彼はそれに釣られるように第九を歌っていたのだ。何はともあれ、符楽森は第九の演奏が聞こえる位置へと人と出会うために走っていた。
音はどんどん近づいてくる。近づくたびに、荘厳に、そして
「ここか!」
彼は溢れんばかりの笑顔で叫んだ。彼の目の前には、古くも神秘的な教会のような建物がズンと威厳を持って立っていた。彼は一目散に扉まで走ると、こっそりと扉を開けた…とその瞬間、彼は目の前の光景に目を奪われた。
鬱蒼とした森に中にあるはずの教会のステンドグラスは、赤青黄色様々な色を神々しく輝かせ、その先には黄金に光り輝く壮大なパイプオルガンが構えている。符楽森は心ここにない様子で、そろり、そろりと建物の真ん中を歩く。その目はうっとりとしていた。
しばらくゆっくりと歩いていた符楽森だったが、パイプオルガンを前にしてハッと立ち止まった。なんと、奏者席に人がいない。この神々しい第九の演奏は、無人で行われているのである。その事実に気づいた符楽森は、慌てふためくかと思いきや、意外にも冷静であった。人がいないという事実どうこうよりも、この演奏に浸れることの喜びが圧倒的だったのだろう。彼は演奏をよりじっくり聞くために近くの椅子に腰を掛けた。すると、今までの疲れがどっと出たのか、演奏にうっとりしすぎたのか、彼は座った途端、あまりにも美しい顔で寝始めた。彼の脳内には、第九が
歓喜よ 美しき神々の御光よ
楽園の乙女よ
我等は情熱と陶酔の中
天界の汝の聖殿に立ち入らん
汝の威光の下 再び一つとなる
我等を引き裂いた厳しい時代の波
すべての民は兄弟となる
汝の柔らかな羽根に抱かれて
<引用:フリードリヒ・フォン・シラー『歓喜に寄す』>
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