第6話「二人の最後」
僕は立ちどまり、レザージャケットからエサ皿を取り出すと、大量のちゅーるをその中にそそいだ。
「半力さん、食え」
僕は半力さんを見たくなかった。ぼんやりとそこに立ったまま、
「半力さん、食え」と、もう一回言った。
足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分もたたぬうちに死ぬはずだ。僕は猫背になって、のろのろとその場を離れた。霧がとても深くて、ほんの近くの山が、ぼんやりと黒く見えるだけだった。
シドの話を少ししようか? ボーカルのジョニー・ロットンが抜けた後、ピストルズは空中分解し、シドはソロ活動をすることになった。もっとも有名な楽曲は、フランク・シナトラの「マイウェイ」のパンクバージョンだ。
彼はその後ロットンと和解し、二人で新たなバンド結成を画策する。ロットンの方も乗り気だったのだが、そこでナンシーが、「バンドのフロントマンは、シドじゃないといけない」と横やりを入れた。「じゃあ、俺は何をやるのさ?」と問いかけるロットンに対し、ナンシーは「ドラムでもやったらいいわ」と暴言を吐き、この究極のパンクバンドの実現は夢のままに終わった。まあ、仮に結成したところで、この頃のシドでは、まともにライブをやれなかっただろう。
一九七八年九月にニューヨークに渡ったシドとナンシーは、マクシズで三回ライブを行った。ライブハウスは連日超満員であったが、シドはドラッグのやり過ぎで立っているのがやっとで、マイクスタンドにしがみついているような状態だった。時折、ステージ上に倒れこみ、歌詞カードを見なければ歌う事も叶わず、結局一曲もまともに演奏できないまま、観客から冷やかな反応を受けた。
これが、常にパンクたらんとする彼の計算だったのか、ナチュラルに病気だったのかは、僕にはわからない。
この辺りから、シドとナンシーは、たびたび死を口にするようになった。ナンシーは何度も自殺未遂を起こし、シドはラストライブの後に、ハードドラッグのオーバードーズにより、意識を失い入院する。そして、同年十月十三日、二人の定宿だったチェルシーホテルのバスルームでナンシーの死体が発見された。
この事件の真相は、今だ明らかにはなっていない。だが、凶器のナイフがシドの所有物であったことから、麻薬で錯乱したシド自身が刺殺したというのが定説になっている。しかし、ナイフは指紋が拭きとられている状態であったり、シドの元に入ったばかりの『マイウェイ』の印税・二万ドルが全て無くなっていたりと、彼の犯行だとすると疑問に思われる点が非常に多い。昏睡状態から意識を取り戻したシドは、血だらけで死んでいるナンシーを見つけ、何の隠ぺい工作もすることなく、ホテルのフロントに素直に連絡している。
事件の後、直ぐにこんな噂がながれた。
ナンシーにドラッグを売っていた男が、死の前日には一杯の酒代をせびるほど困窮していたにもかかわらず、その翌日に新品のブーツとレザーパンツ姿でバーに現れ、血のついたシャツを見せびらかしていたというのだ。彼はナンシーの殺害を仄めかし、殺害現場を収録したVTRも持っているとうそぶいたという。
だが彼は、その真偽を明らかにする間に病死した。他にも、二人が心中自殺を図ったとか、昏睡したシドを死んだと勘違いしたナンシーが後追いで自殺したという説まであるが、いずれにせよ指紋が拭きとられたナイフと、消えた二万ドルの謎は解決しない。シドは容疑者として逮捕されたものの、ヴァージン・レコードが多額の保釈金を払い、釈放された。
シドとナンシーの暮らしたチェルシーホテルの百号室は、事件後に『パンク版・ロミオとジュリエット』の悲劇が起こった聖地となり、信者が頻繁に訪問するようになる。迷惑に思ったホテル側はその部屋をぶち壊し、ランドリー室へと作り替えた。部屋番号は欠番扱いとなり、今でも数字が飛んでいる。
その後シドは、ナンシーの後を追うように、麻薬の
その大量摂取が、自殺のための意図的なものであったか、単なるミスだったのかは分からない。確かなことは、シドの革ジャンのポケットから、直筆の遺書らしきメモが発見されたことだけだ。シドは約束通りにナンシーの後を追い、二十一歳でこの世を去った。だが僕は、半力さんを自ら死に追いやっておきながら、これから先の人生をのうのうと生き抜くだろう。僕はいっそうひどい猫背になって、のろのろと帰途についた。
橋を中ほどまで渡った頃、僕は自分の背を見つめる何者かの存在に気づいた。振り向くと、半力さんがそこに居た。半力さんは面目なさげに首を垂れ、僕の視線をそっとそらした。
直ぐに事態を把握した。毒薬を入れ忘れたのだ。僕はただ、半力さんに喧嘩をけしかけ、たらふくちゅーるを食わせただけである。かといって、僕の罪が消える訳でもない。半力さんも、僕の殺意にちゃんと気づいていたはずだ。分かっていながら、食べたのだ。でなければ、視線を逸らすはずがない。
僕ももう大人である。いたずらな感傷はなかった。僕はレザー・ジャケットの中から薬品の入った小瓶を取り出し、そのまま川に投げ捨てた。自宅へ戻った僕は、直ぐに玄関のプリンツ・オイゲンに語り掛けた。少しだけ嘘をついた。
「ダメだよ、薬が効かなかったのだ。許してやろうよ。あいつには、罪がなかったんだぜ。僕はもともと、弱い者の味方だったはずなんだ」
僕は、途中で考えてきたことをそのまま言ってみた。
「片隅に生きる人たちのために書くんだ。物書きにとっては、これが出発であり、最高の目的だ。こんな単純なことを僕は忘れていた。僕だけじゃない。皆が忘れている。評価にこだわり、PVに一喜一憂するうちに、本来の目的を忘れてしまったんだ」
「本来の目的って?」
「僕たちみたいな人間に勇気を与えること。そして、人生に苦痛を感じながら生きてる人たちに、せめてひと時だけでも笑ってもらうことだ。ご都合主義と叩かれようと、会話文ばかりだと笑われようと、どうでもいい。読み終わった後に、心が楽になる小説が書ければそれでいいんだ」
「いまの小説、みな、面白くないものね」
タペストリーの中のプリンツが、そう答える。
「そうだ。優しくて、悲しくて、可笑しくて、他に何が要るっていうんだろう? 僕はもう、審査員に受けるための作品なんか書くのをやめるよ。読んで面白くない小説はね、それは、下手な小説なんだ。怖い事なんかない。きっぱりと、拒否すればいいんだ」
なくても通じるものは、すべて削ぎ落とすのが芸術家の仕事だ。その究極の形がライトノベルだと、僕は思う。美しさは、人から指定されて感じいるものではなくて、自分ひとりで、ふっと発見するものだ。他人から講釈されるものじゃない。
「やっと気づいたのね。ラノベは純文学の下なんかじゃないわ。むしろ上なのよ、提督」
(続く)
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