第4話
「頭痛い……。昨日飲みすぎた」
終電で帰ったのか、タクシーで帰ったのかは曖昧だ。
そのまま着替えることもせずに眠ってしまったらしい。
台所の蛇口を捻って1杯の水を汲む。
1口飲む度にごくんと喉が鳴った。呼応するようにシンクを水が穿つ音がする。古い安アパート、簡素な六畳間は寂しい音がした。
打ち消すようにテレビのスイッチを入れる。
「もう昼か……」
コップを片手に意味もなくバラエティー番組を見る。
連休明けだと言うのに、性懲りもなく観光地を特集している。
目に映った家族連れの遊園地も、恋人と出かける広い公園だって。気付いてしまった。──俺の前では全て無価値なんだ。
冬が終わって、春になった。君が好きだった桜の花は散ってしまって、そろそろ夏が来るだろう。
窓の外の桜の木は葉桜になった。君と見れなかった青葉が茂っているんだよ。何度目だろう。この先何度俺は1人で見ることになるんだろう。
酔いは覚めているはずなのに視界が霞む。
幸せな顔をしている画面越しの人が理由もなく憎かった。
「黙ってくれ。わかってるんだよ」
──俺にはシアワセになる価値なんてないのかもしれない。
薄い壁に吸い込まれそうな嗚咽を飲み込む。
──君がいなければ意味なんてないんだ。
神様に幾ら頼んだところで俺の言う「もう一度」なんて来ないんだ。夢は叶うなんて嘘だから。
忘れることが普通なら「思い出」なんて要らなかった。高望みをさせてくれるなよ。あの日の言葉に期待を持たせてくれるな。
──会いたい。会いたいよ。
泣き腫らした顔を洗って、シワシワのシャツを着替える。財布の中身を確認してスニーカーをつっかけた。
錆びたトタンの階段をかけ下りる。
瞼の裏に遠く離れた君を描く。
──縋ったっていいじゃんね?
土曜日の午後2時過ぎの住宅街を走る。近所の野良がこちらを見ていた。
ガラガラの電車に乗った。車窓からは青々とした木々が見えた。
2時間程乗って見慣れた駅で下車。懐かしさに胸がキュッと詰まる。
目指す場所は柔らかな木漏れ日の差す箱庭。
俯きながらコンクリの道を歩く。視界に誰も、何も映らないように。──顔を上げて歩いた町は思い出の中だから。隣に君は居ないのだから。
自販機で2本のりんごジュースを買ってブランコに座る。1本は開けて人の乗らない椅子に置いた。
はたから見たら滑稽な光景だろう。目を腫らした成人男性とブランコ。おまけに2本のりんごジュース。
りんごジュース──まゆが好きだったんだ。生きていれば「ビールがいい」とかカッコイイことを言い出していたかもしれない。でも、俺の知ってるまゆは9歳のままだから。
キャップを開けて1口飲んだ。
「甘い」
久しぶりに飲んだ黄色い半透明の液体は、甘酸っぱい香りがした。口内で味を反芻する。
「やっぱり甘いよ」
すごく美味しいなんてもう思えない。酒の味と煙草の香りを知ってしまったから。
──17年。近いようでその距離は恐ろしく遠かった。
大人になるってこういうことなのか?
ぽっかりと空いた胸に問いかける。
誰も答えてはくれない。あの日から俺は独りぼっちだから。
夕焼けの公園で感傷に浸る。
ふと時計を見ると丁度5時を指したところだった。
「ゆうやけこやけでひがくれて……」
「やーまのおてらのかねがなる」
独りだと思っていたんだ。続いて誰かが歌うなんて……。
この声は──
「春川さん?」
逆光で朧気な人影に問う。
「いつになっても5時の音楽は“ゆうやけこやけ”なんだね、先生」
たおやかな黒髪が斜陽に照らされて、木漏れ日と同じ色に染まった。
「ねぇ、先生。ちょっとだけ付き合ってよ」
彼女は真っ直ぐに俺の元に歩いてきた。
空いたペットボトルを手に取り、隣のブランコに座る。
「先生はよくここに来るの?」
「……月に1度は必ず、かな」
彼女はりんごジュースに視線を落とし、寂しそうに笑った。俺にはその顔がひどく大人びていると思った。
「春川さんは家がこの辺とかなのか?」
頭を横に力なく振る。シャンプーの甘い香りがした。
「違う、違うけど違くないの」
それはどういう──言いかけたところだった。
「冬野真雪」
「え?」
意味が分からなかった。
何で春川さんがまゆの名前を知っているのか? 何で俺がここに来た理由を知っているのか? この場所、この公園で言う意味はなぜか?
頭の中に疑問が溢れてぐるぐるする。
何で? 何で? 何で? 何で? 何で? 何で? 何で?
「せん……せ? 顔色悪いですよ」
春川さんは俺の顔を心配そうに覗き込んでいた。
長い睫毛、吸い込まれそうな真っ黒い瞳、今にも溶けてしまいそうな雪のように白い肌───まゆに似てる?
落ち着こうとペットボトルの中身を飲み干す。
息を吸って大きく吐く。2回ほど深呼吸。
「冬野真雪を知っているのか?」
彼女に躊躇いは無かった。
「私のお姉ちゃん」
それから彼女はぽつりぽつりと話始めた。
「私が生まれたのはお姉ちゃんが亡くなった年でした。皮肉なことにね、私がお腹にいるって分かったのがお姉ちゃんの命日だったんだって」
錆びたブランコは漕ぐ度にキーコキーコと音がした。1つ空を切るごとに彼女はワンピースから白い足を覗かせた。
「お姉ちゃんが亡くなって直ぐに私たちは引越したそうです。私の家は桜の花が綺麗な場所なんだ」
お隣が引っ越した日。覚えてる。四十九日が終わって間も無くだったはず。……でも、春川さんの存在は知らなかった。
「春川の名字になったのは去年の暮れのことでした。お母さんの旧姓になったの。……お父さん死んじゃったんだ」
元々のたれ眉をさらに八の字にしていった。
「お姉ちゃんと同じ病気だろうってお医者さんが」
お姉ちゃんと同じ病気?
戻らないことへの期待。終わった事に対する希望。
過去に未来を抱く現実は矛盾しているけれど、想いは溢れて止まらなかった。
「まゆは、まゆはまだ生きられた?」
「分からない。───けど」
──現実を見な、お姉ちゃんは戻らない。
──期待してもいいんじゃないかな?
どちらを言いかけたのだろう。彼女は口を噤んでしまった。
「ごめんね先生。急に話始めて」
困ったような苦しそうな笑顔だった。
「大丈夫……だよ、全然」
気付けば辺りは茜色に染まっていた。
「そろそろ帰ります」
立ち上がってスカートの裾を直す。
「りんごジュース、良かったらもらってくれないかな」
「え? いいんですか?」
まゆじゃないけど、勝手にまゆを重ねていたから。
「俺の想いの供養、みたいな?」
「おいしくいただきます。私コレ好きなの」
ぺこりとお辞儀をして彼女は歩き始めた。
出入口の石段の下で振り向いた。
「今月のお姉ちゃんの月命日、また会えませんか」
「ここで?」
「はい。全部話せるかわからないけど、先生には話したいことがあるから」
ばいばいと手を振って彼女は夕焼けの町に飲まれていった。
最後まで何で春川さんがこの公園にいたかは分からなかった。まぁ、それも次会った時にきけばいい。
「まゆ、また来るから」
久しぶりに実家にでも寄って帰るか。
「ただいまぁー」
突然の帰宅なのに母はいつもと変わらず出迎える。
「葉太おかえり。今日ビール買ってないわぁ」
「連絡よこさなかった俺が悪いよ」
「肉じゃが、食べてくんでしょ?」
「うん」
「じゃあ手洗ってきなさい」
まゆのことを知ってて黙ってくれることが心地よかった。
両親と3人で食卓を囲む世界は穏やかだった。
「葉太、お前いい人居ないのか?」
全然穏やかじゃなかった。思わず人参落としちゃったじゃねぇか!
「この前振られちゃったかな」
「そうか……」
あからさまに残念がらないでくれ。素面でこの空気は俺だって思うところはあるからね?
「母さんとそろそろ孫の顔もみたいなって話してたんだよ」
「俺もそろそろ身を固めないとなぁって思ってるけどさ」
だんだん苦しくなってきた。口に入れているものを飲み込むのが辛い。
「やっぱりまゆちゃんのこと……」
「ちがう! まゆは何も関係ないからっ……!」
──何で俺は怒っているんだろう?
母の言葉に反抗した俺を別のところから見ていた感覚だった。
「全部無かったことにするつもりはないよ。忘れるつもりだってない。前だって見てるから!」
──説得力ってなんだっけ?
こんな俺が教壇に立っているなんて馬鹿げている。滑稽なことだろう。
紆余曲折が人生だから、若いうちの努力は買ってでもしろ? だからなんだって言うんだ。何をするにも空回り、空回り。正しい生き方の正解って何処にあるんだよ。
「……ごめん。取り乱した」
母が申し訳なさそうにうなづいた。
やがていつものひょうきんな態度で「ご飯……お代わりいる?」と尋ねた。
「1杯貰おうかな」
正直お腹いっぱいだった。
母さん、俺ももうコドモじゃないんだ。
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