第12話 後悔と無念と
僕が強攻策に出てから早数日。疲労によるエミリーの不調は少しだけ改善されたように見えた。でも、結局は完全な回復とは至らなかったらしい。僕の策では睡眠不足改善による体力的な回復は見込めても、精神的な回復は見込めなかった。
老婆が感染症を発症してから二十三日。老婆が亡くなるまで、残り七日。今日も今日とて、僕はリリーと共に彼女の職場に向かっていた。
「今日は雨か」
お揃いの傘を差しながら、僕達は道を歩いていた。リリーの返事はない。最近、めっきり無言の時間が増えた。やはり、老婆の死が迫っていることにリリーは精神的に参っているようだ。
「熱くて、湿気も高くて、ジメジメしていて、本当に嫌な日だね。今日は」
彼女の気を紛らわせたくて、僕は世間話に興じた。
「今晩はアイスでも買っておくよ。食べてから寝よう。寝苦しくなりそうだし」
しかし、彼女が返事をしてくれることはなかった。
自分の無力さを実感させらているようで、気分が良くない。ただここで黙る方がよりそれを体現している気がしたので、花屋に着くまで僕はずっとリリーに話しかけ続けた。
花屋に到着すると、卸業者から花を買い取り、小奇麗に陳列をして、店番をする。少しづつだがその作業にも慣れ始めていた。ただ、今日は少しだけ違う。
「リリー、寝てなくていいのかい」
「うん。今日は大丈夫だよ」
無理をしているようには見えず、僕はリリーの申し出を受け入れた。リリーは少しだけ嬉しそうに仕事をこなしていた。
「オリバー、先に休憩してきなよ」
昼時、リリーの言葉に僕は頷いた。今日も今日とて、花屋は閑古鳥が鳴いていた。二人で一緒に休憩はせずに交互に休憩するように推したのはリリーだ。急にお客さんが来ても待たせずに済むから、と。ただ、僕は接客は出来ないので、彼女の休憩中に客が来たら結局彼女を頼らなければならない。
昼ごはんは、リリーが前夜用意してくれたサンドイッチを頂いた。バスケットは二つ分用意してあり、大きめなバスケットが僕用だ。食べ盛りだもんね、と言われてこちらを用意されたのだが、実は小食な僕には少し量が多い気もしていた。
「なんだかんだ入った」
しかし食べてみれば、全然そんなことはなかった。適量という奴だ。僕の胃袋をよく理解していらっしゃる。オリバーと同じくらい、ということだったんだろうか。
さて、とにかく昼食は取り終わったのだから、リリーに休憩をしてもらおう。彼女はこの後、老婆の家にまで行くのだから、あまり負荷をかけるべきではない。
「邪魔するよ」
丁度その時、入店を知らせる扉のベルが鳴った。次いで発された声には、聞き覚えがあった。
物陰から手前を見ると、老婆の姿が目に入った。
「あれ、アーニャおばあちゃん。どうしたの?」
リリーは機嫌よさそうに老婆に言った。あの老婆、アーニャと言うのか。初めて知った。
「遺言書、今の内から渡しておこうと思ってね」
「ああ。でもそんなの、今晩家に寄った時でいいのに」
老婆、もといアーニャを気遣った故の台詞をリリーは言った。しかし、アーニャは面白くなさそうに「ハン」と鼻を鳴らした。
「ここに男を連れ込んでいるってタレコミがあったからね。様子を見に来たんだよ」
「連れこ……っ」
やばい。僕はリリー達の盗み見をやめて、物陰に身を潜めた。何だか身を潜める直前、アーニャと目が合った気がした。気のせいだと思いたい。
「連れ込んでなんかないよ。仕事を手伝ってもらっているだけ。まったく、誰がそんな噂を」
リリーの声は、本心から怒っているように聞こえた。まあ、実際仕事を手手伝っているくらいで、それ以外は僕達はさして何もしていないのだから、謂れのない中傷である。
「いいじゃないかい」
対照的に、アーニャは下衆な笑みを浮かべていた。前の世界でいうところの野次馬根性というやつだろうか。
「ちょっと、おばあちゃんまで」
「何さ、私の若い頃なんて、しょっちゅう男をとっかえひっかえしてたもんさ。あんただってそんなに美人なんだ、少しくらい夜遊びしたってバチはあたんないさ」
老婆の色恋事情など興味はない、と言うのが僕の意見である。
「もう。いい加減にしてよね」
「ああ、悪かったよ。悪かった」
悪びれなく、老婆は謝罪の言葉を口にした。きっと今頃、リリーは不服そうに頬を膨らませているに違いない。
それにしても、だ。何だか前回、花屋で見かけた時と、アーニャから受ける印象が違う。あの時は小姑のような陰湿さを感じたが、今は世間話好きな近所の主婦のようだ。
そういえば、いつかリリーが言っていた。本来のアーニャは、あんな小姑のような陰湿な感じではなかったと。息子夫婦。孫に疫病によって先立たれて、変わってしまったと。
であるならば、恐らく今の世間話好きな姿こそが、老婆アーニャの本来の姿なのだろう。なら何故、その本来の姿に戻れたのか。それは恐らく、死が間近に迫ったことで、吹っ切れたから、ということなのだろう。
そう思うと、アーニャという老婆に少し同情した。長年の息子夫婦、孫への後悔、無念も、結局死が間近に迫らなければ解消出来なかったのだから。死が迫るその時まで、ずっと思い悩み続けてきたのだろう。
「でも、私は本当に心配しているんだよ」
「え?」
「あんた、意固地なとこがあるだろう。わかってくれる相手なのかい」
うぐ。勘違いの果てとは言え、何故間近で自分の批評を聞かねばならないのか。
「うん。それはばっちりかな。向こうも結構意固地だし」
リリーは聞く耳立てている僕を察してか、遠慮がちに答えた。
僕は、心のどこかで安堵していた。
…ん? 今のは、安堵していい内容だったろうか?
「そうかい。そうかい」
老婆の声は優しかった。
「あんたもようやく、孫の……オリバーのこと、乗り越えられたみたいで良かったよ」
「……え」
アーニャは積年の悩みの一つが取れたかのように、嬉しそうに言った。
ただ僕は、アーニャの言葉に思考を停止せざるを得なくなった。
オリバー。
それは、この世界における僕の仮初の名。
本来この世界で生を得ず、この世の摂理に抗った僕が結果的に手に入れることになった名。
リリーの元恋人であり、疫病で命を失ったはずの男の名。
そして、老婆アーニャの孫の名前。
『……やっぱり、思い出せない?』
リリーがどうして、あんなにもしつこく僕に老婆のことを尋ねたのか、ようやく僕は理解した。
それは、血の繋がった祖母の顔も思い出せないのか、というメッセージ。そして、そんな大切なことさえも思い出せないのか、という僕を咎める一言だったのだ。
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