第10話 毒祖母、現る。
接客に向かったリリーの背中を追っていた僕だったが、我に帰って彼女の後を追った。
「まったく、裏でサボってんじゃないよ」
拉げた怒号が耳に入って、僕は足を止めた。なんだか、揉め事に発展しそうではないか。
そっと、陰から店内の様子を覗き見た。どうやら悪態をついたのは、あの腰の曲がった白髪の多い老婆のようだ。
「ごめんなさい。昼ごはんを頂いていたんです。雨も降ってきて、お客さん来れなさそうだったし、丁度いいかなって」
リリーはそれっぽいを嘘と言い訳を口にしていた。
「ふん。この店はいつだって閑古鳥が鳴いているじゃないか」
おおう。老婆はどぎつい一撃を叩き込んだ。
リリーは返す言葉もないのか、乾いた笑みを浮かべていた。
「いつもの頼むよ」
「ええ」
どうやら老婆はこのお店の常連らしい。いつもの、で商品がわかるのがその証拠だ。
リリーは花を包みに行ったのか、物陰からは姿が見えなくなった。老婆は、何にイライラしているのか、腕を組んで、コツコツと足を踏み鳴らしていた。
「まだかい」
「もう少々お待ち下さい」
ものの数分しか経っていないのに、老婆はまるで数時間も待たされているかのようにリリーを急かす。余裕がないと世間に言われていた前の世界の老婆だって、時間のかかる美容室でこんなに怒鳴り散らすことはない。まあ、向こうは時間つぶしに読むゴシップ雑誌の内容で頭がいっぱいになり時間を忘れているのだろうが。
見えないところで、紙が擦れる音が聞こえる。せっせとリリーが花を包んでいるのだろう。
「はい。どうぞ」
それから少しして、リリーは綺麗に包まれた黄色の花を老婆に手渡した。
「ほら」
お礼も言わず、ぶっきらぼうな態度で、老婆はお代を渡したようだ。
「毎度どうもありがとうございます」
「ふん」
鼻を鳴らして、老婆はさっさと立ち去ろうとしていた。
「今日でしたね。お孫さんの一回忌」
扉を掴もうとした老婆が、手を止めた。
「覚えていたのかい」
「勿論。仲良かったから」
ちらりと、リリーと視線が合った。
リリーと老婆の孫の仲が良かった。彼女の目配せから考えて、恐らく僕も老婆の孫と仲が良かったのだろう。
「こんな世界じゃ、四六時中人が死んでいくってのに、よく覚えてたもんだ」
「私も、仕事が終わったらお墓に行かせてもらいますね」
「来なくていいよ。一回忌なんて、今じゃ珍しいもんでもないだろう」
「それでも、ですよ」
「……勝手にしな」
扉に付けられたベルが、綺麗な音色を奏でた。老婆は、店を後にした。
リリーは老婆の背中を、頭を下げて見送った。
「覚えてる? あの人」
しばらくして、リリーは言った。恐らく、僕に向けて。
「ごめん。わからない」
「そっか。なら、どう思った?」
どうと言われても。キツイ言い方に、自己中心的な考え方をしてそうな振る舞い。丁度、前の世界で自己中心的で子供に悪影響を与える親を毒親、と形容し始めていたことを、僕は思い出す。彼女は老婆で、孫にも影響を与えていただろうことを考えれば……、
「毒祖母、かな?」
僕は呟いた。
「毒?」
リリーはこちらを振り返った。初めは僕にどういう意味か、と問いただす目をしていたが、なんとなく意味がわかったのか、苦笑した。
「良い意味ではなさそうだね」
「まあね」
「そんなこと言っちゃ駄目だよ」
少しだけ笑って、リリーは僕を咎めた。
「どうして?」
「残される側って、それだけで辛いから、かな」
リリーは今、自らとあの老婆を重ねているのだろう。家族を失った老婆と、同じく家族や、恋人オリバーを失った自分を。
「昔は、あの人もあんな感じじゃなかったんだ。変わったのは、息子夫婦と、その夫婦の子供に先立たれた頃から。今でも覚えているよ。お孫さんに疫病発症の証の痣が出来た頃のあの人の取り乱し方。それはもう、凄かった。暴れるとかじゃなくて、沈み込んだの。そのまま自殺するんじゃないかってくらいに、ね」
「そんなに」
「うん。お孫さんが逝った時は夢遊病患者のようになっていた。見ているだけでも辛かったよ」
「なら、立ち直り始めたばかりなんだね」
「家族を亡くした人達って、精神的に荒むことが多いんだ。先立たれるって、やっぱり辛いことだから」
「君もそうだったの?」
リリーは苦笑した。無粋なことを聞いた、と口にしてから後悔した。
「ごめん」
「ううん。私もそうだったよ。食事も喉を通らなくなるくらいにね」
「そう」
それだけ話すと、リリーは突然逡巡し始めた。何か、僕に聞きたい様子だ。
「どうしたの?」
「……やっぱり、思い出せない?」
「え?」
聞いてきたのは、先ほど既に答えた質問に対する再確認だった。思い出せるはずもない。僕はオリバーじゃないのだから。
ただ、同じことをもう一度聞かれた意味が、何かあるはず。答えを誤ることは出来ない。そう思って、僕はなんと答えるべきか迷った。
「ううん。なんでもない」
僕が戸惑っていることを察したのか、リリーは首を振って微笑んだ。今のやり取りを全て、水に流そうとしたのだ。
「そう、か」
僕は、彼女の好意に甘えることにした。どれだけ頭を絞っても、きっと正解にはたどり着くことは出来ない。考えるだけ無駄なのだ。
その判断に後悔はなかった。一つの過ちは、芋づる式に過ちを繰り返すきっかけになりかねない。この世界につながりを持たない僕が、過ちを犯すわけにはいかないのだ。
ただ、胸の奥に何かしこりのような物が残った。それが何かはわからなかった。まだわかるほどに、大きな違和感となっていなかったから。
そして、わかる前にまた次の事件に直面したから。
ある晴れた日に、リリーは悲報を持ち帰ってきた。毒祖母に疫病発症の証の痣が現れたそうだ。リリーの職場で老婆と出会ってから、たった三日後の出来事だった。
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