夜間遊泳
空に浮かんでいた私は、明滅する街を見下ろしていた。浮遊感というものは不思議と不快なものではなく、ただ夜風がパジャマの中に吹き込むことを除けば、そこそこに快適なものである。
自分の家の屋根も、学校の屋上も、高く聳え立つビルも、みんな私の眼下に収まっている。だけど空はまだ遠い。どうやったらもっと高く飛べるのだろうか。プールの授業を思い出して僅かにバタ足をすれば、私の身体はほんの少しだけ高度を上げる。
このまま宇宙まで飛んで行ければ、月を間近に見ちゃったりできるのだろうか。でも高度が上がれば上がるほど、寒いと聞く。その前に酸素がなくなって死ぬかもしれない。想像のベクトルが悪い方へと向き出して、私は足を止めた。そうして地面を見下ろし空を蹴った。身体は面白いほど容易く下を向き、足を動かす度に地面が近くなる。だけど全然足りない。地面に降りるには、まだしばらくは泳がなければならない。
ならば暫く夜空を満喫してやろう。私は寝返りを打つように仰向けになって夜空を見上げた。人間は飛べない。されど私は飛べている。だからきっとこれは夢。そう導き出せば気楽なもので、緩慢な速度で夜間飛行に洒落込んだ。例えば夜闇に浸るヘリポートのHの文字を指でなぞってみたり、まだあかりの灯る高層ビルの窓を覗いてみたり。夜を偲ぶ鳥たちが怪訝そうに視線を投げるが、片手を上げてやっても好意的な反応は返ってこない。反応のわるいやつらめ。私は振り返り、夜を泳ぐ。
「あれ」
家の屋根から、生垣の高さから、地面まで。たっぷりと遊泳を満足した私の背中を、自転車のライトが煌々と照らす。どうやら地面まで泳ぎ切ってしまったらしい。塀の高さまで浮かびながら、声のする方へと振り返る。
自転車籠に学生鞄を乱雑に突っ込んだ少年は再び私の名前を呼んで「なんでパジャマ?」と首を横に傾げる。そこで私は自分がパジャマ姿だと気付いたけれど――虚勢を張り、くるりとその場を一回転。
「おニュウだからですよ」
そうして地面に降り立ったけれど、急にのしかかった重力に思わず前のめりに倒れてしまう。が、彼は慌てて私の胸に腕を差し入れて「大丈夫かよぉ」と間延びした声を上げた。
「大丈夫、ありがとね」
「パジャマで外歩くと風邪引くぞ。つうか裸足かよ。後ろ乗れって」
浮くから問題ないのだけれど。そう言おうと思ったけれど夢の中だからと気分の大きくなった私は「ありがと」と素直に彼の申し出を受け入れた。自転車の後ろに腰掛ける。油断すると浮いてしまうからとハンドルに手を伸ばせば、彼はそれに気がついて「やっぱサドルに座るか」と歯を見せて笑う。
「いいの?」
「俺は歩くからいいよ」
気の良い返事に私は嬉しくなってサドルに跨がった。ハンドルを握れば、彼も同じようにハンドルを握る。背中に太い腕が当たる。男の子なんだなあとその横顔を見れば、彼は照れくさそうに「その」と言葉の切れ端を落として、ゆっくりと自転車を押しだした。
「ここで何してたんだ?」
「空飛んでたの」
「は? そら?」
「うん、空。ずーっと高くまで。あのビルよりずっとずっと上」
星降る空の少し手前、濃紺の世界に私は浮いていたのだ。足をばたつかせれば、また僅かに浮く身体。慌てて両手で自転車を掴めば、僅かに車体が揺れる。彼の慌て声が、夜の静寂に響いて溶ける。
「ほんとだ」
彼が笑う。そういえば彼は誰なのだろうか。誰かに似ているようで、それでも似ていないような気もする。夢の中の曖昧な記憶は当てにはならない。
それでも彼といると楽しくて、私の頬も自然に緩んでしまう。
「本当でしょ」
心が跳ねれば身体はまたゆっくりと浮上する。そのたびに彼は腕の力で私を押しとどめ、そして顔を見合わせて二人、笑うのだった。
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