大永元年の乱(二)

「姉小路嫡流たるみどもが、そちに命ずる」

 この言葉の持つ不思議な力を、右兵衛尉うひょうえのじょう直頼なおよりは否定することが出来ない。この言葉を聞けば、どうあってもその命令を聞かなければならないような気になり、そして実際いま、直頼はその言葉に従って三佛寺城に兵馬を籠めているからである。本戦を初陣とする直頼舎弟新左衛門尉しんざえもんのじょう直弘などは、若いのに似ず

「このたびのいくさ、とどのつまりは小島と古川の小競り合いに過ぎませぬ。放っておけばよろしかろう」

 と達観した態度を見せ、理屈の上では確かにそのとおりではあったが、自分などが到底持ち得ぬ国司家の権威を殊更無視する直頼でもなかった。

 戦禍を避けるためか、郡上郡長滝寺領河上庄の寺僧は既に新宮社に立て籠もっていると聞く。古川家人けにんと事を構えるとなれば、河上庄を含む高山盆地一帯が戦場になることは当然予想されることであった。


 しかし、それにしても。


 直頼は嘆息せざるを得なかった。高山盆地のちょうど中央部、古川に本拠を持つ古川家中衆が、我が三木家や杉崎の小島時秀、そして高原郷から南下して梨子打山麓に布陣する盟友江馬左馬助時経等を向こうに回し、勝利できるとは思われなかったからだ。

 聞けば彼等古川家中衆は、小島家に出自を持つ家中の小者どもを残らず生害したうえで挙兵に及び、口々に

「前参議済継なりつぐ卿仇討ちのため」

 と唱えて気勢を上げているとのことである。

 確かに済継の死により、小島時秀は一族の長者という立場に立った。済継の死により最も利益を得た者が小島時秀だったわけである。

 済継嫡男済俊なりとしは現在十六歳。在京しながら公家連中の間でその存在感を殊更アピールしなければならない小身であった。これではとても時秀に抗し得ない。

 小島時秀が疑われるそれなりの理由があったのである。

 しかしだからといって古川の家中衆が息巻くように、三年前の古川済継の死を、小島時秀一党による毒殺だと断定する材料を直頼は持たなかった。

 江馬の乱鎮圧のために飛騨に下向してきた済継は、長引いた飛騨在国と乱鎮圧の過労により急死した、というのが大方の見方だったのである。

 そしていま、三木直頼は、国司家の長者という立場に立った小島時秀の

「姉小路嫡流たるみどもが、そちに命ずる。姉小路嫡流たる小島家に叛旗を翻す豺狼さいろうの賊徒を払わしむべし」

 という言葉に従って、高山盆地全域をその射程圏内に収める三佛寺城に在城しているのである。

 もしいま、古川の家中衆が激発して古川城から小島城に押し寄せんか、三佛寺城からは三木勢が、梨子打山麓からは江馬勢がそれぞれ古川城に押し寄せて、却って滅亡の憂き目を見ることは明らかであった。どう考えても無駄な犠牲といわざるを得ない。直頼の嘆息も当然のことであった。

 直頼は梨子打山の江馬時経陣中に急使を遣った。直頼の要請に応じて南下してきた盟友江馬時経に、古川家中衆との和睦交渉開始の諒解を得るためであった。

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