17.顔合

 助手席に乗っていた父さんは、車の中でも黙っていた。元々お喋りなイメージもないので、ここ数日の会話の量が異常なのかもしれない。

 安藤と話すわけにもいかずに、私は後部シートに身体を預けてぼんやりとしていた。


 昨夜、家に帰り着くと玄関でアンドゥが待っていた。飛びつかれて抱き上げて、そのまま父さんと話しに行ったので、安藤と話ができたのはベッドに入ってからだった。

 夕食の時刻になっても帰ってこない私を心配して、安藤は私の端末の追跡を始めたらしい。食事中の会話を拾って、ツバメに送り付け、文句を言う彼を念のためと空港から引き返させた。桐人さんが真っすぐ本家に向かっていれば、ツバメは高いコーヒーを飲んだだけで星に帰れたそうだ。

 私は確かに助かったのだけど、ツバメにしてみれば仕事の範疇を越えていたことだろう。引き止めてしまったけれど、なるべく早く警護ボディガードをつけてもらうようにしなければと反省した。(つけてもらったところで、あの場面では役に立たなかったかもしれないけど)


 マンションに着くと、父さんは車を帰してしまった。

 カードキーと顔認証で開く扉をくぐり、五階の一室へと向かう。私は昨夜、中には入らなかったので、思わずあちこち見渡してしまった。ワンフロアに三戸。私の部屋は東〜南に面したものだった。

 父さんが、そんな私の様子に少し首を傾げる。


「紫陽はゆうべ、ここに来てたんじゃないのかい?」

「中には入らなかったから」


 その時の父さんの微妙な表情は何とも表現し難かった。気を取り直したようにインターホンを押すと、すぐにツバメ本人がドアを開けた。


「いらっしゃい? お邪魔してます? よくわかんねーな」

「中のパネルからも操作できるはずだが」

「ああ。らしいな。星ではアナログに慣れ切ってて。早く顔見たかっただろ?」


 Tシャツに綿パン姿で、髪を下ろしたままのツバメは横柄に身振りで中に入れと示した。

 ちょっとピリッとした雰囲気の父さんに不安になる。ツバメに何を期待するわけでもないのだけど、父さんとは上手くやってほしい。

 部屋の中にはツバメの使った寝袋と、ペットボトルが何本かあるだけで、がらんとしていた。

 ツバメが適当に座ったので、私たちもその向かいに座ることになった。


「あー。飲み物もねぇよ? 悪ぃけど」


 ツバメの言葉に父さんと私もハタと気づく。

 ツバメはゲストとして入っているので、一度マンションから出てしまうと次に中の人にゲストと認定されるまで入れないのだ。昨夜持ち込んだ飲み物だけで、朝食も食べていないのだろう。

 私はうっかりだったけど、持ち主でよく利用もする父さんが、その辺を忘れているのは珍しいなと思った。


「構わない。と、いうか、こちらも手ぶらで申し訳ない。少し、余裕がなくなっていた」

「べつに」


 ツバメはふん、と鼻で笑う。


「十、八年ぶり、か? 緊張するほどのことはないだろう? 記憶にあるのかも怪しいくらいだ」


 父さんは小さく息をついた。


「覚えているよ。その傷も、よく。年はとったけど、変わらないね。少し安心した。これで気兼ねなく尋ねられる」

「ふぅん。何を?」

「君が、私に殴られるべき相手なのかを」

「は?」


 一瞬、怪訝そうに眉をひそめたツバメは、父さんが私を振り返ったのを見ると、にやにやと憎たらしい笑みを浮かべた。


「あー。。俺を殴りたきゃ殴ればいいさ。も俺はそう言ったぜ」


 父さんが無言で立ち上がったので、私は驚いてその手を捕まえる。


「え。なんで父さんがツバメを殴るの? ツバメが何かした?」


 私の頭の中には『ハッキング』という文字が躍っていたけれど、少し興奮した父さんの口から出たのは全然違うことだった。


「娘の身体にこれ見よがしな痕をつけたのは、こいつかと聞いたんだ!」


 あと、と聞いてもすぐには思い至らなかった。

 ようやく、首筋にキスマークをつけられたんだと思い出して、顔に血が上った。今日はハイネックにしたけど、昨夜はミニドレスのまま父さんに会っている。

 腕を振りほどかれそうになって、慌てて両手でしがみついた。


「ち、違う! 違うから! ツバメじゃないの! ツバメは助けてくれた方!」

「――たすけて?」


 ぶんぶんと大げさに首を縦に振れば、父さんは腕の力を抜いて、ツバメに視線を向けた。ツバメは肩をすくめただけ。

 脱力する父さんの吐き出す長い息の音を聞きながら、父さんでも誰かを殴ろうとするんだと、少し驚いていた。


「ああ、そうか。なるほど。殴られるべき人間は、もう処分を受けていたのか」


 冷静になると、ちゃんと物事が繋がったらしい。座り直す父さんにほっとした。


「もう?」

「あの、色々未遂だし、もういいから。あちらはあちらで弱みを握られたと思ってるだろうし」


 父さんは少しの間私を見つめて、それからちょっとだけ笑った。


「そうか。紫陽がそう言うのなら、殴るのはやめておくよ。そのうち別の形で返してもらう」

「おい。もうってなんだ。俺はまだ何もしてねーぞ」

「隠しマイクがあるって言ってたから、ツバメが来た時点で色々バレたんだと思う」


 けっ、とツバメは渋面を作って横を向いた。


「面白くねぇ」


 それを見た父さんの表情が柔らかくなった。なんとなく、安藤の表情と重なる。


「……君は、交渉が下手だね。わざわざゲストで入ったのも、誤解を膨らませると分かっていただろう?」

「さあな。そこまであんたがチェックするかは分からないし。の対応を見たかったし。どうせ俺の話は、いつだってまともに聞いちゃもらえねーからな」

「それで殴られていたんじゃ、割に合わないじゃないか」

「べつに。完全に間に合ったわけじゃねぇから。そのくらい」


 視線を外したまま、そわそわと口元に手を持っていく。ツバメは理性的に心を寄せて話されると、いつも少し落ち着かないように見える。そう思うと、安藤がツバメに対してからかうような態度をとるのは、それを学習しての結果なのかもしれない。

 指先がせわしなく唇を叩いているのを見て、気が付いた。


「煙草、吸ってもいいよ?」


 部屋に入った時も煙草の臭いはしなかった。ずっと我慢してたか、ベランダで遠慮がちに吸っていたに違いない。

 ツバメはぴたりと動きを止めて、悔しそうに私を見た。

 どうしてそういう表情になるのだろう。


「ん。……んん。くそっ。悪ぃ。一服、だけ」


 大股で、換気扇の下まで行くツバメの背中を追って、父さんは声を立てずに笑った。




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