第27話


 私は以前のようにこだまと話すことができなくなっていた。会話に集中できなかった。その原因は、睡眠時間の不足だけではなかった。

 私は会話でのこだまの言動や表情をもとに、恋人ができたかどうかを見極めようとしていたのだ。こだまから直接聞く前に、心の準備をしておきたかった。だが、それを意識しながら会話を続けていけるほど、私は器用ではないし会話術に長けていなかった。会話は途中で途切れ、奇妙な沈黙が場を支配した。何かがいつもと違う。そう感じるのは自然なことだったが、そのことに触れることはなかった。

 結局私は、以前の彼女と今の彼女との差異を見出すことができなかった。いつもこだまの様子を観察している私でさえ、恋文をもらったことによる彼女の変化を見抜けなかった。そのことは余計、私を不安にさせた。睡眠時間はさらに減り、勉強もいつもの半分の量をこなすのが精一杯になった。

 私はこだまから「今日は一緒に帰れない」と言われることを、何よりも恐れていた。


 一週間ほど経ったある日のことだった。

 その日も一緒に帰ろうと、私からこだまの席に行った。もう無意識のうちに習慣づいた行動は、会話がぎこちないものになっていても、簡単にはやめられそうにない。

 笑顔を見せるこだまに軽く挨拶を交わし、彼女の準備を待つ。

 その時。机の上にあるリュックサックに目を向けた時、違和感があった。

 どこかで見たような、緑色のチョッキを着た、ぬいぐるみのクマのキーホルダーがついていた。私はいよいよ恐怖を覚えた。可愛らしいぬいぐるみが、とても恐ろしい目で私を見ている気がした。私がそれをじっと見つめていることに気づいたのか、こだまが微笑みながら言った。


「あ、それね、お揃いにしたの。可愛いでしょ」


 誰と、とは怖くてとても聞けなかった。それを聞いたら全てが終わってしまう気がした。

 頭が真っ白になりながらそれを見ていると、反応がないことが気になったのか、こだまが顔を覗き込んできた。私はまだ、覚悟ができていない。

「今度、みゆきちゃんも何かお揃いにしようよ」

 私が顔を上げると、彼女はちょっと安心したような顔をした。私も彼女とお揃いにしたがっているように見えたのだろうか。

 私は、目の前の大好きな人の声が、哀れんでいるように感じられて、腹が立った。負けたものに対する同情のように思えた。でもそれは彼女の悪意によるものではないことを知っているから、悲しかった。

 唇が震えた。

 次に出てくる言葉は思ったよりも感情がこもっていなかった。

「……いらないわ。そんなもの」

 一瞬でこだまが悲痛な顔に変わったので、私は思わず顔を背けた。

「……早く帰りましょう」

 そう言うと彼女はそのキーホルダーがぶら下がったリュックを背負いながら、小さく「うん」と言った。 

 

「みゆきちゃん、ごめんね。私、何かしたかな。……最近、様子もちょっとおかしいし……」

 弱々しい声でこだまが尋ねてきた。悲しげで、元気のない声だった。

 ――心当たりがないなら謝らないで欲しい。

 私は無言で歩いた。

「私でよかったら、いつでも相談に乗るよ」

 階段の踊り場のところで、彼女はそう言った。

 振り向くと、こだまの悲愴な面持ちがあった。目をそらしながら言う。

「……ありがとう。でもね、こだまには言えないわ」

「……どうして」

 彼女はきっと、さっきよりもっと悲しい顔を浮かべて尋ねているのだろう。最近の私の様子に気付ける、優しい彼女なら。

 ――だけど。

「こだまもね、私なんかに遠慮することはないわ」

 彼女の言葉を無視するようにそう言うと、踵を返した。

「待って。みゆきちゃん、私…」

 左手を掴まれた。

 私はそれを強く振りほどいた。


「明日から、学校の図書室で勉強していくから。こだまは先に帰っていいわよ」

 下駄箱のところで、彼女にそう伝えた。

「私も…」

「ちょっとね、一人になりたいのよ。ごめんなさい」

 「一人」を強調して言うと、こだまは観念したように頷いた。

「それじゃ」

 ぶっきらぼうに言うと、私は一人で昇降口を出た。

 帰り際にこだまに手を振らないのは初めてだった。


 帰り道、私は一羽のカラスと目が合った。漆黒の羽に身を包み、鋭い口先を持ったその鳥は、一羽でも、堂々と立っていた。眼光は厳しく、私は思わず足を止めて、対峙した。

 以前の私を思い出した。

 こだまと出会う前、今年の四月までの私は、こんなことでは悩まなかった。ただひたすら目の前の課題をこなし、学問に興味を持ち、その世界に没頭していた。周りからはとっつきにくい人だと思われていただろう。でも、それでもよかった。それでも十分だった。こだまと、出会う前までは。

 いつから私は変わってしまったのだろう。

 初めは、私からだった。私が、ちょっとした気まぐれで、彼女に声をかけたのだった。私の知らない世界があるような気がした。私に必要なことがある気がした。

 実際、それは正解だった。彼女は私にない優しさを持っていた。誇れる友人を持っていた。天使のような微笑みを、私に足りない何もかもを彼女は持ち合わせていた。

 それは、私が踏み込むべきでない世界だったかもしれない。あの時、私が彼女に話しかけなければ、目の前のカラスにだって、ひるむことはなかったかもしれない。目頭が熱くなる自分が情けなかった。

 黒い鳥はそんな私に呆れたように前を向き、私の視界から消えて行った。

 

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