みゆきとこだま

かめにーーと

みゆきとこだま

第1話

 ある日の休み時間のことだった。

「んじゃ、うちらの分もよろしく」

「こだまちん助かるわ~」

 南山こだまの席に集まった女子二人が、そう言って数学のレポート用紙を置いていくのを目撃してしまった。二人に取り囲まれながら座っている彼女はとても小さく見える。どうするのだろうと見ていると、彼女の「う、うん。わかった」という小さな声が聞こえてきた。

 言ってしまえばそれだけのことだった。宿題を他人にさせる人間と、他人の宿題をする人間がいて、「やれ」と言われた人間がそれを了承しただけのことだった。したくないのならばしなければいい。「嫌だ」と言える拒否権を彼女は有しているはずであり、それを行使しなかったために彼女たちの取引が成立したのだ。それが偶然目に入っただけで、私には関係のないことだった。

 そう、偶然。

 とはいえこれは私にとって三回目のことだった。

 私は彼女たちの「取引」を目撃するたびに、なぜだかその一部始終を見届けなくてはならないような気がして、次の授業の準備をする手を止めて、横目で彼女たちの様子を観察してしまうのだ。そして二人の傲慢さ、というよりはむしろ、なぜ彼女が「嫌だ」と言わないのかと腹を立て、また同時になぜなのかと不思議にも思い、もやもやしたまま授業の時間を迎える羽目になるのだ。

 今回もそうなりそうだった。

 というか、そうするしかないのだ。これは彼女たち三人のことであり、私には全く関係がない。問題があるとしたら、彼女が解決すべきことなのだ。私がどうこういうべきことではない。

 そう、私は私の仕事だけしていればいい。椅子から立ち上がり、周りを見渡す。

「数学の課題は放課後までに出してください」

 それでも学級委員としてのアナウンスはいつもよりちょっとだけ、大きな声になった。


 放課後。

 彼女はまだ、数学の課題をやっていた。皆部活などに出かけ、私と彼女の二人きりとなった教室は、外からわずかに聞こえる運動部の掛け声と、一秒一秒時間を削っていく時計の針、そして彼女のシャーペンと私の新書のページをめくる音だけが響く、静かな空間になっていた。太陽はまだ赤くなっていないが、窓枠の影は長く伸び始めている。机の上には束になったクラス三十五名分のプリントがある。手元の新書はキリのいいところまで読んでしまった。

 新書をそっと閉じて、右前方にいる彼女の小さな背中を見る。

 彼女は今何を考えているだろう、なんて、国語の試験問題でしか考えたことのない疑問が、ふと湧いてきた。彼女は今、自分の分と彼女らの分、計三人分の宿題をしている。今日は移動教室の授業が多く、昼休み直後の四限には体育があったから、三人分の宿題をする時間なんて、とてもなかったに違いない。だから、彼女と私以外誰もいないこんな時間まで教室に残っているのだ。本来ならばいなくてもいいはずの、こんな時間まで。

 私に彼女の考えなどわかるはずがなかった。私なら「嫌だ」の一言で終わってる話だからだ。宿題なんて、自分でやれ。私があんたらの分までやるなんて、意味がわからない。引き受けた後のストーリーなんて、私だったら考えられない。 

 もちろん私に彼女を待つ義理はなかった。提出が間に合わない人は後から個人的に提出すればいいからだ。事実、今まではそうしてきた。

 しかし私は帰りのSHRが終わると新書を開き、時間を潰し、彼女が課題を提出するのを待っている。数学の先生は「放課後」課題を持ってくるようにと言っていた。つまり、具体的に何時までとは言っていない。私は授業態度も良いほうだし、それなりに教師の信頼もあるので、多少遅れたとしても融通がきく。そもそも、数学の課題の提出は数学の教科係の仕事だが、その生徒が入院してしまったため、学級委員である私がその仕事を一時的に兼任しているのだ。だから提出が遅れても怒られはしないだろう。そう考えて彼女のことを待ってみることにした。どちらかと言うと気まぐれである。

 私は彼女の背中を見る。さっきよりも小さくなっているように感じる。もしかすると、私が待っていることに焦りを感じているのかもしれない。そしてさっきから手が動いている気配がない。そろそろ潮時のようだった。

 私は立ち上がり、彼女の席に近づいた。

「それ、西尾さんたちの宿題よね。どうしてあなたがやっているの?」

 彼女のペンを持つ手が一瞬震えた。そして「そ、それは……」と言いかけていた時、

「友達だから?」

 と思いついたことを口に出していた。彼女は目を逸らしながら、「ま、まあそうかな」と答えた。地面に埋もれてしまいそうなくらい自信なさげな声だった。

 私には「友達」というものがわからない。

 彼女がなぜ断らないのかもわからない。

「私も手伝うわ」

 誰かの椅子と机を彼女の席につなげるように動かして言った。これも気まぐれか。いや、少し知りたくなったのだ。

「で、でも、みゆきちゃんに悪いし……」

「二人でやったほうが早いでしょう。早く全員分集めたいの」

 彼女は少しためらっていたが、最終的には承諾してくれた。彼女からプリントを一枚受け取ると、なぜだか少し安心した。これで家に帰れるというよりは、ようやく事態に介入できるという気持ちが強い。私には関係のないことだとしても、このまま放っておくのは流石に気持ちが悪かったのだ。

「ねえこだまさん」

 宿題を終えたので、彼女に話しかけてみた。

「友達ってなんなのかしら。宿題を押し付ける人があなたにとっての友達?」

 彼女は俯き、机の上のプリントを見つめた。横からでは表情は見えないが、感情は読み取れる。

 少し意地の悪い聞き方になったかもしれない。少しだけ反省し、俯いている彼女のセミロングの黒髪を覗き込んでみると、しくしくと泣き声が聞こえてきた。大粒の涙がこぼれ、小さな嗚咽が漏れる。

「わ、私だって本当は……本当はこんなことしたくない……。でも、しなくちゃいけないの……。私には西尾さんたちしか話しかけてくれる人、いないし……。みゆきちゃんみたいに頭も良くないし、運動もできないし……。こうするしかないんだよ……」

 彼女のまつげは長く、肌は雪のように白かった。その様子に私はなぜか吸い込まれるような気がして、彼女に返す言葉を失っていた。

 彼女――南山こだまは高校一年生の時も同じクラスだったが、ほとんど話すことはなかった。だからこのような距離で話すのは初めてだった。もちろん泣いている姿なんて、見たことない。

 たぶん私は見とれていたのだと思う。

「不思議、ね」

 取り直して考えたが、一言で言うとこれしかなかった。

「そこまでして話しかけてくれる人が欲しいのね。私にはあなたが自分を過度に卑下しているように思うけれど」

 彼女は両手を目のあたりにあて、静かに泣いていた。

 不思議。我ながら的確な一言だ。私が彼女を待っているのも。ほとんど話したことのない生徒の泣き顔を近くで見るのも。そもそも彼女が他の人の宿題をしているのも、不思議で仕方がないのだ。

 しばらくすると、彼女は泣き止んだのか、顔を少し上げた。それを見て、私は言った。

「でもあなたがそうすると決めたのなら、私も協力するわ」

 彼女は驚いた顔でこちらをみた。パッチリとしていた目は充血している。

「え、でもそんなの……」

「『みゆきちゃんに悪い』って?あなた最初にも言ってたわ。それだけ気配りができれば十分だと思うけど」

 彼女は少し照れたのか、どうしたらいいのかわからない、という顔をしていた。

 私も随分慣れないことを口にしたものだ。これもこの不思議な空間が作り出したに違いない。

 無言の時間がしばらく続いた。終止符を打ったのは、彼女の優しい声だった。

「ありがとう」

 今日初めての笑顔がこちらに向けられた。控えめに、それでも嬉しそうに笑うのはなんとなく、彼女の性格を表している気がする。私もつられて笑ってしまった。

「目、ひどいことになってる」

 私がそう言うと彼女はわたわたと、ポケットからハンカチを取り出した。私も差し出そうかと思ったが、彼女がポケットに手を伸ばすのが先だった。さっきまで泣いていた人とは思えない機敏な動きに、私はまたしても笑ってしまう。

「じゃあ私、これ出してくるから」

 彼女の机の上のプリントも回収し、全員分のプリントを整えながら立ち上がる。

「ま、待って。私も行く」

 すると彼女もばたばたと、机を片付け始めた。

「宿題を出すのは一人で充分よ」

「そうじゃなくて、一緒に帰れるかなって」

「一緒に帰る?」

 聞き返すと彼女は静かに頷いた。さっきまでの弱々しい声とは違う、何かを決心したような声だった。まあ泣いた後だし、一人で帰るのは心細いのかもしれない。

「……わかったわ。では、行きましょうか」

 ぼんやりと、誰かと一緒に帰るのはいつぶりだろうと思った。

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