第二十二話 賭けられるもの(前編)
覚悟を決めた俺は、公爵家二階のバルコニーへ向かった。
いつぞや、ハルが初めてやってきたとき。
公爵夫妻がハンドサインを送ってきた場所だ。
実はこの場所から、屋上に上がることができる。
「お、あったあった」
修繕のために屋根に登れるよう、梯子が設置されているのだが。
しっかりした建材を使って建てられているこの屋敷が、雨漏りすることなどなく。
やって来るのは初めての場所だったりもする。
梯子を登り切った俺は、誰もいない場所で一人空を見上げて思う。
今日は少し雲が厚いが。満月の月明かりに照らされて、周囲は程よく明るい。
足を踏み外して、予期せず転落することもなさそうだ。
「さて、呼べって言っていたよな。ここで叫んだら来るのか?」
立ち位置を調整して、準備はできている。
あとは神様がいつ来るかだけが問題だったのだが。
「呼ばれなくたってもう居るよ。思ったより早かったな。リーゼちゃんも連れずに――そんな恰好で。一人でどうしたのかな? アラン」
声に振り返って空を見上げれば。
満月を背にして、空中に浮かぶ男が一人。
どうやら、呼ぶまでもなく来てくれたようだ。
「少し、あんたと話がしたくてね」
「話? アランから俺に?」
「そうだよ、ちょっとした交渉さ。ああでも、その前に」
今は向こうが主導権を握り、生殺与奪は全てクロスに委ねられている。
話を聞くも聞かないも彼の気分次第だ。
だから、まずは話を聞いてもらう体勢を整えようと思う。
「クロス。もしもお前がリーゼロッテに、夢を諦めろと言うのなら。俺はお前に落とし前を付けさせる」
いつだって。懸けられるものは、自分の命一つだ。
今回だって。賭けられるものは、俺の命一つだけ。
俺が切れるカードと言えば。
結局、これしかない。
「落とし前、ね。何をするって?」
俺は胸元に手を入れ。
懐から、厨房から取ってきたナイフを取り出した。
料理長が毎日研いでいるだけあり、切れ味はすこぶる良さそうだ。
「そんなナイフで、俺を殺せるとでも?」
「そんなことは微塵も思っちゃいないさ。……ただ、交渉に入る前に、タイムリミットを設けておこうと思ってな」
「タイムリミット?」
言外に、何をするつもりなのかと聞かれているのだろう。
もう言葉は要らない。
俺は行動で答えるべく、ナイフを
血が噴き出て止まらない。
痛みが熱を持ち、熱い血が、とめどなく首筋を流れていく。
切り裂いてからほんの数秒で、俺のトレーニングウェアは真っ赤に染まっている。
即死するほどではない傷だが、間違いなく致命傷だ。
すぐに止血しなければ俺の命もここまでだろう。
「さあクロス、話を始めようか。話し合いの制限時間は「俺が死ぬまで」だ。時間内に話が付かなければ、終わりだと思えよ」
クロスは一瞬驚いた後、苦い顔に変わった。
よかった。予想はあながち外れてもいないらしい。
クロスを相手に切れる交渉のカードは多くない。
俺が切れるカードの中で、クロスにとっては最悪であろうもの。
確実に有効なものは何か。
思い浮かぶものは一つしかなかった。
それは、「物語」とやらが始まる前に、攻略対象のアランが死ぬことだ。
冗談や脅しでやっているわけではない。
俺は、話し合いが纏まらなければ本当に死んでやるつもりで切り裂いた。
もしもここで俺が死ねば、この男は世界を
時間経過で確実に死ねるように深く切り裂いたせいで、痛みで思考が纏まらない中での交渉になる。
事前に考えていた質問と、提案の内容を思い出すだけで一苦労だ。
向こうが止血を試みるようなら、ナイフで首の反対側も切り裂いてやるし、いざとなれば屋根から転落してもいい。
この場所なら多少派手にやったとして、リーゼロッテにも被害は出ないはずだ。
適当な魔法を暴走させて、華々しく自爆して木っ端微塵になってもいい。
それくらいの覚悟を決めて、わざわざ屋上に呼び出したのだ。
だから、驚いてくれて何よりだと、俺は笑う。
「ああ、くそ、今回もハードだなぁ」
「……お互いにな」
「時間がねぇからサクサク答えろ。まず確認だ。どうしてこのタイミングで、俺たちの記憶を消しに来た?」
さあ、正真正銘、俺の命を懸けた話し合いを始めよう。
十分以内に全てを決めるくらいの速さでいかなければならない。
「物語は、学校生活の初日から始まる。あと半年くらいか? 待ってみて、改善が無さそうだから修正しにきたってところだよ。……これでも、ギリギリまで待ったんだぞ?」
俺が急かせば、クロスも普通に答えてくれた。
どうやら、話し合いの開始は上手くいったようだ。
「そうかい。そんなギリギリのタイミングまで待っているってことはつまり……物語に支障が出なけりゃ、悪役令嬢は前世の記憶を持った転生者だった方が、都合がいいんだな?」
「まあ、そんなところか」
ここまでの考えは、大筋で合っていたようだ。
「よし……次だ。この世界を丸ごとリセットするよりは、何人かの記憶を消した方が、
そして、クロスが嘘を言っている可能性など考えない。
どこか一か所でも嘘を吐かれたら破綻してしまうのだし。
俺には嘘か真か確かめる術がない。
疑うだけ、時間の無駄だ。
「そりゃイエスだよ。何人かの記憶を弄るだけなら、この世界に漂っている力を少し集めればできるけど。世界を丸ごとってなったら結構なエネルギーを食うんだ」
これも仮説通りのようだ。
物語が破綻するのが嫌なら、さっさと世界を巻き戻してしまえばいい。
それをやらないのは、その方法にデメリットがあるからだ。
「……まあ、記憶を消すってのは手動でやる分だけ俺の残業時間が伸びるから、本音ではリセットしたいんだけどね」
働く時間が伸びるのが嫌というのは予想外だが。
そういうこともあるだろう。
そうだ、細かいことなど気にしている時間はない。
「次だ。この世界が上手く回ることで、クロスに……金か利権かは分からんが。何か報酬があるんだろ?」
「それは……そうだな。正しいと言えば、正しい。実際には信仰心っていうのか? そういう力を集めるのが目的だな」
転生者というイレギュラーを生かしておく理由など。
何かしらの利益があるから。
それ以外の理由が思いつかない。
「物語の、神様だもんなぁ……。ならそこで確認なんだが、その信仰心とやらは。乙女ゲームからは大量に採れる。だが、転生者の物語からでも、
「いやぁ、お見事。その通りだ」
信仰心とやらを集めるのが目的なら。
その目標に沿うように話をしていたはずだ。
つまり「転生者」を生かしておけば、いくらかその力を生み出すのだろう。
俺がそう問えば。
クロスは意外なものを見るような目で、目を瞬かせながら答えた。
「仮に乙女ゲームの世界が完成して百の信仰心が採れるとして。悪役令嬢をやっている転生者の物語っていうのは……十くらいかな」
「意外と、少ねぇんだな」
「転生したのがどんな人物か、転生した後に何をやったのかで変わる。……そこまで多くはないけど、副業としては悪くないってくらいか?」
信仰心という概念に単位がつくのは違和感があるが。
それならば、交渉の余地はあるようだ。
「じゃあ、世界が上手く回ったときを、百として。記憶をリセットした場合と、世界をリセットした場合。……それぞれ、どれくらいの力を使うのか教えてくれ」
手足が痺れて感覚が無くなってきたものの、まだ確認することはある。
急がなければいけない。
「ピンキリだよなぁ……。今なら、十人の記憶を消す毎に一、世界をリセットしたら二十から三十ってところか」
「
どうやら、それは時期によって変わるらしい。
リーゼロッテが学園に入る直前に仕掛けてきたのも、それが理由だろう。
「まあ、倍まではいかないけど。それなりに、ね。時期が早ければ早いほど、使う力は少ないよ」
よし、いいだろう。これで聞きたいことは大体聞けた。
それならば、聞きたいことは後一つ。
あとは仕上げに入るだけだ。
少し視界が霞んできたが、最後まで持つだろうか?
一抹の不安を感じたが、最早退路は無い。
前に進むしかない。
俺は深呼吸をして息を整えてから、本命の確認をする。
「じゃあ、最後に一つ聞かせてくれ。その信仰心ってやつは、
「それが、物語になるほど劇的な人生なら、な」
答えは、是。
これが最大の関門だった。
それさえクリアできるなら、俺に取れる手が一つ生まれる。
「は、はは……ははははは! そうか! それなら大丈夫だ。だったら問題ねぇ!」
どうやら、これから行う俺の提案は。十分に実行可能なものであるらしい。
まずは提案だ。
まずは利益を積んでやろう。
俺の提案は、アンタにも利益があることなんだぜ。神様。
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