第255話 藤石伊織の定義

 藤石伊織・・・・は走っていた。


 目前に迫るたび幹を避け、寒さで色の変わった草を掻き分け、雪を踏み締めて前へ前へと進む。

 火口はこちらではないとわかっていたが、走るのをやめられなかった。

 外気をまったく冷たく感じない。呼び出したバイクからは返事がない。小さな違和感を感じながらも、あの時までは自分が本物だと信じて疑わなかった。

 なにせ自分は藤石伊織なのだ。

 生まれた時から今までの記憶がある。ついさっき不死鳥と相対していた記憶ももちろん持っている。


(でも……!)


 味を感じると知ってしまった時、伊織はすべてを理解した。


 恐らく今の『自分』は不死鳥が模倣しすぎた存在。

 記憶、魂、魔力、すべてを模した結果、人格までも写し取ってしまったもの。


 それを自覚した瞬間、頭の中に不死鳥としての力の使い方が湧き上がってきた。恐らくここで死にたくないという本能からのものだ。咄嗟にそれを使って逃げたが――伊織は未だに混乱している。

 ヨルシャミとバルドから向けられた視線、そして明確な殺意。

 それがこちらの表情を見て揺らいだのは正直に言って嬉しかったが、このままでは殺されるということは目に見えていた。


(僕は魔獣なんだ。藤石伊織としての意識があるなら……どうすべきかわかるはず)


 魔獣はこの世界にいてはならない。

 だからこそ倒すために旅をしてきた。

 なら今やるべき最善策は自ら死ぬことだ。大丈夫、今は自分は伊織であると思い込んでいるが、本物はちゃんといるのだから。伊織はそう自分に言い聞かせるも、逃げる足は止まらない。


(この僕は消えるべきだ。けど、……けど!)


 伊織は人間とは思えない速さで山の中を走りながら、嗚咽を漏らして小さな子供のように泣いた。


「皆に、っ……皆にだけは、殺されたくない……ッ!」


 どう足掻いても人格は伊織そのもので、あまりにも正確に再現してしまったせいで頭の作りを変える方法がわからなくなってしまった。

 獣のような不死鳥に戻れさえすれば楽になれるのに、その道は選べない。

 口の中にはまだ塩の味が残っており、久しぶりに感じる味覚だというのに酷く憎かった。

「……!」

 逃げている間に喉の奥からじわじわと這い上がってくるような不可思議な感覚が首をもたげ、伊織は眉根を寄せる。


 ――この世界に在るために邪魔な者は消せ。

 ――この世界を侵せ。


 そんな魔獣としての本能だ。ああこれが、と心から納得する。

 刹那、伊織の脳に不死鳥としての記憶が僅かに蘇った。今の脳からすれば原始的な記憶でわかりにくく、ずっと掻き消えていたのだが本能に呼応したのだろうか。


(世界の穴……その向こうに漂って――住んでた? 少なくとも不死鳥はそう認識していた。……そんな、でも……ただ落ちただけじゃないか)


 何か明確な意思のある者に送り込まれたわけではなかった。説としては挙がっていたことだ。

 それでも穴の向こうではあまりにも微細な存在だった不死鳥の記憶はノイズが多く、こちらへ落ちたことに何か裏があったのかは今の伊織にはわからない。


 ただ、ほんの少しだけ魔獣という存在が憐れになった。

 故郷にいられればこんな他を侵す性質は獲得しなくて済んだかもしれないのに、と。

 それでも生まれ落ちたからには明確な世界の敵なのだ。

 もちろん、自分を含めて。


 徐々に本能は色濃くなっていたが、伊織としての人格が消失することはなかった。

 しかしこのままでは仲間たちと衝突して殺し合うことになってしまう。

(いや……今は仲間じゃない、んだけど、……)

 まるで我慢の利かない飢餓感のような本能の命令。その合間に隠れるようにして苦々しい気持ちが湧いてくる。

 あの時、初めから自分が偽者だとわかっていたなら。

 お茶を渡される前に――ヨルシャミともっと話をできたのではないか。


「……」


 伊織はヨルシャミのことが好きだ。

 これからもずっと共にありたいが、それよりも彼の幸せを優先したいとも思っている。

 もちろん、魔獣であろうが今の伊織も同じ考えだ。

 だから、自分が死ぬのはいい。仕方がないと受け入れよう。


 しかし最後にほんの少しだけでもヨルシャミと話がしたかった。

 名前を呼ばれたかった。

 藤石伊織として扱ってほしかった。


 しかしそれはヨルシャミに自分が伊織と同じ人格を持っていると知らせることになる。

 最愛の者と同じ人格のものを殺せと言っているようなものだ。


(……皆……優しいから、僕のこの状態を知ればどうにかしようと動いてくれるかもしれないけれど)


 もしここで死ななくて済んだとしても、魔獣を倒すという目的を今より酷く苦しい決断の要るものにしてしまうかもしれない。

 それはヨルシャミたちだけでなく、静夏もそうだった。

 静夏は世界を救う目的のためなら人間が相手になろうが、魔獣に何か事情があろうが自ら手を汚せる決意がある。


 しかし倒す相手がほとんど息子と変わらないものだったらどうだろうか?


 静夏が手を汚せるのは、息子との約束である二人で暮らすため。

 心に根差したその望みがあるからこそだ。

 あの時静夏がどちらが伊織なのかわからなかったのも、もしかするとある意味どちらも伊織であることを感じ取っていたのかもしれない。感づかれていたら危なかったと伊織は素直に思う。


(……母さんの決意を淀ませることはできない)


 そのきっかけになりたくない。

 そして皆に殺されたくもない。

 ならやはり自分でどうにかしなきゃならない、と伊織は空気を大きく吸い込んで紫色の炎を噴き上げた。



 まずナイフを作り出して胸に突き立てたが、自分の炎の産物なので効果はなかった。

 尖った石を使ってみるも意味はなく、溢れ出るはずの血は意識していないとすぐに炎の残滓になり、崖から落ちようが首を絞めようが死ぬことは叶わない。


 他者の炎がなければこんなにも死ねないのだ。まさに不死だった。

 流した涙は体を離れるなり小さな炎となり、雪を溶かして体に戻っていく。

 伊織は鼻を啜りながら山の中を彷徨い、そして冬の冷たい川を見つけて飛び込んだが――それも炎を消すには至らなかった。


「……っは、はあ、っ……」


 川の下流で岸に上がった伊織は自分の服が瞬時に乾くのを見て絶望感に苛まれた。

 何をやっても死ねない。

 川の水の冷たさも脅威ではなかった。ヨルシャミと共に小川に落ちた時はあんなにも震えたというのに。そんな思い出が余計に胸を抉る。

 今こうして息が苦しく感じて呼吸が整わないのも、きっと体が見せているまやかしだ。

 肺は再現しているため苦しさだけは本物のように感じるが、結局どのみち窒息程度では死ねないのだから。


(もう何も考えたくない……)


 ぼんやりとそう思ったのは、不死鳥であった頃に感じたのと似通った願いだった。

 あまり一ヶ所から動かないでいると本物の伊織たちに見つかってしまうかもしれないが、もう一歩も動く気になれない。


 這いつくばったままぼんやりとしていると、不意に雪を踏む足音が聞こえてきた。

 伊織は緩慢な動きで地面から視線を上げる。

 本物たちにしてはバイクの音がしなかった。徒歩で探している者ももちろんいるだろうが、こんなにも悠々と歩いているのはなぜなのだろう。

 そう思っていると、視界に入ったのは緑色の長い三つ編みだった。


「いやァ……随分逃げたネ、不死鳥君。おかげでこっちも手分けして探すはめになっちゃったヨ」


 ――そう言って傍らに立ったシァシァは、糸目を細めたまま困ったように眉を寄せた。

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