第200話 無駄なんかじゃない

 冷たい風を掻き分けて前に進んでいく感覚が気持ちいい。


 雪山をここまで長々と駆けるのは久しぶりだった。

 パトレアは滑り止めの付いた蹄で雪を踏みしめ、溶かし、パワフルな逆関節で残りの雪を跳ね除けて強引に走り続ける。

 バイクも本気で走っており、パトレアが体勢を崩した時だけ前に出ていた。崩れてもなお持ち直すのが早いのはあちらのため、安定性の差が僅かに出ている。

 しかし基本の速度はパトレアの方が速い。

 赤土の山まで駆けた時とはまた違った競い心地である。


 ゴールがあることが惜しくて堪らない気分になっていると、後ろから真っ白な光が弾けて思わず飛び上がりそうになった。

「っな、なんでありま……ッす、か……」

 パトレアは両脚を動かしたまま面食らった顔をする。

 バイクが浮いている、と錯覚するほどだった。

 車体の後ろに突如現れたジェット噴射口。それはパトレアの脚のものに似ているが、青い炎ではなく白い炎を噴き出している。その余波で車体が浮いているのだ。


 なぜかパトレアだけでなく乗っている面々まで状況を把握していない表情を浮かべている。


 そう思った瞬間に車体の前、そしてサイドカーの前にガラスのようなシールドが現れた。バイクが自ら作り出したものだ。全員が全員目を瞠る中、バイクは一度だけ雪面に着地し――タイヤが半回転もしない間にジェット噴射を唸らせ超加速する。

 それはまさに目にも留まらぬ速さだった。

 速すぎてほとんどの時間を地面すれすれで飛んでいるといっても過言ではない。浮いていると思ったのは錯覚ではなかったのかも、とパトレアは感じた。


 ――次に沸き上がったのは恋心の炎。


 勝負に負けたくない、ではない。

 好きな相手と並び走りたい、という気持ちだ。

 だから追いつきたい。ほんの少しでもいい。パトレアは雪面を強く踏み込むとバイクの背を追った。


 ああ、きっとあの時のように追いつかないのだろう。

 そう走り慣れた者だからこそ直感する。だが焦燥感や悔しさはなかった。不思議と気分が高揚し、自分の目標がまだ失われず夜空の星のように輝き続けているという事実に泣きそうになってしまうくらいだ。


「さすが、さすがバイク様であります! それに……」


 まだ遠いジェット噴射口を見て自分の足に意識を向ける。

 そしてパトレアはどこかもじもじしながら言い放った。


「……お揃い、ですね!」


     ***


 いくらシールドがあるとはいえ重力はかかる。

 ヨルシャミはいつぞやの静夏に抱えられて豪速ジャンプをした記憶を思い出していたが、それが走馬灯の一端だと気づくや否や気合いを入れるように両腕に力を込めた。

 しかし腕は伊織の腰に回しているため、現在主導権を握っているニルヴァーレが呻く。元の体ならびくともしないが伊織の体はまだ筋肉が薄いのだ。


「す、すげぇな、急に真っ白になったから雪崩でも起きたかと思っ……ぐえっ!」


 そうこうしている間にゴールに辿り着いたバイクは急停止し、その拍子に前へ放り出されたバルドがシールドに背面をくっつける形で逆立ち状態になった。

 サルサムは重力で背もたれに押し付けられる前に頭を抱えて丸まっていたため無事だ。行動が早い、と伊織は横目で見ながら思う。

 伊織は呼吸等すべてニルヴァーレに一任しており、常に感じている息苦しさも疑似的なもののため急加速の余波は受けなかったが――そのせいで冷静に周囲を見て思った。事故現場だこれ、と。

「うわ、痛い! というかすまないイオリ、頭をぶつけた!」

 突っ伏していた顔を上げてニルヴァーレが言う。サイドミラーに映した額が赤くなっていた。

 それを聞いたバルドが逆立ち状態のまま引き攣った声を上げる。


「ニルヴァーレが謝った!?」

「外野から酷いツッコミが入ったな!」


 その背後でヨルシャミが眉間を押さえて頭を振りながらバイクを見た。

「じ、自前の魔力でも溜まりきらない上限いっぱいまで補充したせいか?」

「多分ね、バイク自身も気づいてなかった潜在能力的なやつだろう」

「……ニルヴァーレよ、入るからとホイホイ注ぎ込むものではないぞ、相当の量を与えただろうこれは! イオリの魔力が減りすぎたらどうする、器が大きいということは溜めるのも時間がかかるということであるぞ……!」

「いやいや落ち着いて見てみろ、イオリの魔力はちっとも減ってないぞ」

 僕は目には見えないが肉体の感覚でわかる、とニルヴァーレは胸元を軽く叩く。

 ヨルシャミはじっとその背中を見た。――たしかに減っていない。否、使った分は減ってはいるのだろうが、回復がとにかく早いのだ。


「……改めて恐ろしい生徒だな」

「だろ」


 さて、とニルヴァーレは額を撫でてから呼吸を整える。

「長居してしまったが僕はそろそろ戻るよ、イオリも感覚くらいは掴めただろう。それに……ほら、競争相手もそろそろゴールする」

 振り返った視線の先では負けが確定したというのに心底楽しそうに駆けてくるパトレアの姿があった。

 ヨルシャミが「そうだな」と頷く前にニルヴァーレが――否、伊織が額を押さえて低く呻く。


「ぅうわ……本当に痛いやつだ……!」

「む、む。戻ったかイオリ。ニルヴァーレめ、シームレスに去っていくな」

「なんか体の中に勝手口がある感じがする……。っと」


 後でニルヴァーレさんに改めてお礼を言っておかないと、と伊織が思っていると背後から風が吹いた。

 間髪入れずにぶわっと雪をまき散らせてパトレアがバイクの真横に停まる。

 これで両者ゴールである。途中でほぼ飛んでいた気がするが、あれはパトレア的にセーフなのだろうかと伊織は不安になった。バイクに聞いた感じでは「途中で何度か着地したしジャンプの範疇内」とのことだが、それは「範疇」が広すぎる気もする。

 しかしそんな心配をよそにパトレアは息を整えきる前に興奮した様子で言った。


「す、素晴らしい進化でありました! あのような伸びしろがまだあるなんて……走りの天才に伸びしろがまだあるなんて、凄いことであります! 惚れ直しました!」

「い、いいんだ……」

「体の作りを変えてまでスピードを突き詰めるのも実力の内、このパトレア今回も完膚なきまでに負けました! いやぁ清々しい!」


 そして銀色の脚でその場の雪を何度も踏む。

「それにこれ、ペアルックってやつでありましょう? バイク様の愛情、しかと受け取りました!」

 伊織の手にハンドルから「えっ」という感情が伝わってきた。ジェット噴射口のことを指しているらしいが、ペアルックの概念が揺らぐな……と伊織はバイクを撫でる。


「あの、その……パトレアさん、あなたはこの後どうし――」


 勝負は勝負としてこの後自分たちを捕えにかかるのか、それともナレッジメカニクスに帰るのか。

 そう訊ねようとしたところで手の甲に雪がそっと止まり、伊織は天を仰ぎ見た。

 先ほどまではなかったはずの黒い雲が立ち込めている。そこからちらほらと落ち始めていた雪が突然質量を増し、十秒もかからず吹雪に姿を変えた。


「山の天候ってこんなに変わりやすいのか?」


 サルサムがバルドを引っ張り下しつつ周囲を見回す。

 バイクならこのまま強引に下山できるだろうか。伊織がそうしてバイクを見ていると突然地響きがし始めた。山々に反響してどこから鳴っているのか一瞬把握できなかったが、山頂側から白煙のようなものが上がって上からだと知る。

「……雪崩であります」

 馬の耳をそちらに向けたパトレアがぽつりと呟いた。


「まあ我々なら逃げきれるでしょう。さあバイク様たち、とりあえずここから離れて――」

「っだ、だめだ」


 伊織の言葉にパトレアはきょとんとする。

 見れば犬たちが雪原の真ん中でおろおろしていた。伊織たちを追っていたがあまりのスピードに置いて行かれ、そしてどうやら洗脳が解けて正気に戻ったらしい。

 ということは静夏があの狼頭の雪女に勝ったのかもしれない。しかし喜びより先に焦燥感が募る。


 位置からしてあのままでは犬が雪崩に巻き込まれてしまうだろう。

 助けにいく? しかし危険だ。

 犬は数頭おりサイドカーがあってもバイクに乗せきれない。

 もし助けに行っても皆を巻き込むことになる。

 しかしここへ皆を下ろしていくのも、パトレアの他にナレッジメカニクスがいるとすれば避けたいことだった。


 そう伊織が逡巡している間にも雪崩は迫る。時に300キロを越えるといわれる雪崩の滑り落ちる速度は離れた場所から観測しているよりも早い。

 ハンドルをぎゅうと握ったところでヨルシャミが口を開いた。

「お前はあの犬たちを捨て置けんのだろう、なら迷うな! ゆけ!」

「そ、そうだ、俺らは気にすんな!」

「――うん!」

 ヨルシャミとバルドの言葉に頷いた伊織の背をサルサムが押すように叩く。


「何をしているんですか、そんな無駄なことは……」

「無駄なんかじゃないんです」


 パトレアがこちらに腕を伸ばそうとしていたが、伊織は瞬時に車体を反転させた。

 犬を放って逃げようと誘われてもその誘いには応えられないと言うように。

 その背中から声がした。

「けど勝負の誘いならいつでも応える、ってバイクも言ってます」

 パトレアは伸ばしかけた腕を止めて再びきょとりとする。


 そして、伊織はそのまま今まさに白い波が押し寄せようとしている雪原に向かって走り始めた。

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