第2話

「ていうか、包介は大袈裟すぎ」

 待ち合わせに数分遅れただけで金玉を足蹴にした女の言葉とは思えない。赤錆さんと並んで歩く雨降りの通学路で、僕は内心毒吐いた。

「そもそも、日直の仕事で手伝うことなんてそんなにないだろ」

「あたしが早起きして一生懸命働いてるときに、あんたがグースカ寝てるって考えたら腹立つでしょ」

 横暴すぎやしないか。

 赤錆さんの両頬を引っ張ってやりたい気持ちに駆られる。しかし、そんなことをすれば命はないので大人しく口を噤む。

「包介ってほんっとに冴えないよね。彼女とか一生できなさそう」

「ほっといてよ」

「チビだし、トロいし、ダサいし、いいとこなしじゃん。ちょっと優しくされただけですぐ勘違いすんじゃない?」

 泣きたくなってきた。反論したくとも、すべて事実なのだから始末に負えない。気苦労やら不甲斐なさやらで溜め息が漏れる。

「女の子と一緒にいるときに溜め息吐くなんてサイテー。そういう気遣いのなさが非モテに繋がんのよ」

「赤錆さんだって彼氏いないだろ」

 言われっぱなしの悔しさから、つい反抗してしまった。殴打を危惧して身構えるが、赤錆さんは口元をによによと歪ませて僕を見るだけで、意外にも怒った様子はない。

「あたし、昨日告白されたから」

「え」

「包介みたいなお子様とは違うってこと」

 見下す視線は若干腹立たしいが、嘘を吐いているようには見えない。

「へえ。告白って、やっぱり校舎裏とかでされるの?」

「そんな古臭いわけないでしょ。メッセージ送られてきたのよ。ほら、これ」

 差し出されたスマートフォンの液晶にはたしかに愛を伝える文面が映し出されていた。

 覗き見るのは送り主に悪い。すぐに目を逸らす。

「なに、ヤキモチ?」

「違うよ。勝手に見るのは悪いと思って」

「ふーん。ま、そういうことにしといてあげる」

 赤錆さんは意地悪に笑って、スマートフォンを鞄にしまい込む。何か誤解しているようだが、解く機会は永遠に訪れない気がする。

 それにしても、赤錆さんに彼氏ができるとは。小学三年生からの友人としては彼女の幸せを嬉しく思う反面、どこか遠くへ行ってしまったような寂しさを感じてしまう。

「みんな、知らないうちに大人になるんだね」

「は? なにそれ。キモいから止めて」

「……はい」

「ま、心配しなくても大丈夫よ。ちゃんと断っといたから」

「ええっ」

 思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。弾んだ口調で語るから、てっきり付き合い始めたのだと思ったのに。

 ということは、先ほどの恋文は自慢のためだけに晒しものにされたのか。

 送り主が報われない。赤錆さんの今後を思うなら忠告すべきだろう。

 けれど、モテない僕の助言を素直に受け止めてくれるだろうか。上手く伝える方法がないか考えながら踏み出した先は深い水溜りで、右足が音を立てて泥水に浸かった。靴下まで浸透する嫌な感触に顔を顰める。

「もう、ちゃんと前見なさいよ」

 そう言って僕に手を差し伸べる赤錆さんの薄笑いは穏やかで、意地悪な笑みよりずっと自然だ。好意に甘えて手を握り返し、引き上げてもらう。

 もしかしたら告白した彼も、偶に見せる彼女の優しさに惹かれたのかもしれない。傍若無人な振る舞いも魅力の一つなら、友人でしかない僕が無理に指摘することもないのだろう。一人で納得して頷いていると、赤錆さんが不審な目を向けられた。

「まったく鈍臭いんだから。あんたもスマホ買えば少しはマシになるかもよ」

「え、そうかな」

「少なくとも、わけわかんない動きは治るわね」

 赤錆さんの理論はともかく、中学校への進学を機に携帯電話を持ち始めた同級生は多い。周りに溶け込むという意味では、彼女の意見は正しい。

 しかし、必要かどうかで考えれば確実に持て余す代物だ。僕に頻繁に連絡を取り合う仲の友達はいないし、外出する機会も少ない。

 やっぱりいらない。

 正直にそう答えるとぶたれそうなので曖昧に笑って話を濁すと、癪に障ったらしい赤錆さんに尻を叩かれた。

「今、誤魔化そうとしたでしょ」

「そんなつもりは……あっ、学校着いたよ」

 ちょうどいいタイミングで校門が見えたので、歩く速度を上げる。赤錆さんも追求するつもりはないらしく、わざとらしく嘆息してから僕の後に続いた。

「しっかし、いつ見てもボロい校舎ね」

 赤錆さんがなんとなしに呟く。

 彼女の言う通り、三階建ての外観は古臭く、本日の天候も相成って陰気な印象を受ける。設立から三十年ちょっとの微妙な歴史に比例するように、生徒も芋臭いと評判の公立中学校だ。最近は女子バスケットボール部が活躍しているようで、地区大会の出場成績が讃える大きな垂れ幕が下がっているが、文化系の僕にはまるで関係のない話だった。

 並んで玄関前まで移動し、傘を揺らして水気を切る。隣の赤錆さんは傘を何度も開閉させて激しく水飛沫を放っていた。効率はともかく迷惑な行為だと思うのだが、以前注意した時は当てつけのように僕に向かって水を飛ばし始めたので見なかったことにする。

 赤錆さんの動きが落ち着くのを見計らい、手垢だらけのガラス戸を開く。一年生の下駄箱は入って右手側に設置されているが、僕は脇目も振らずに傘立てに向かった。

「さて、今日はどこにしようかな」

「まだやってんのそれ」

「もちろん」

 赤錆さんに呆れられてしまったが、諦めるつもりはない。ビニール傘も安くはないのだ。盗みを働く悪党を捕らえることはできなくとも、防犯に努めるのは当然の処置である。

「ここにしよう」

 格子状の傘立ての二行三列目にあたる箇所に傘を差す。前回は目立つ角を敢えて利用して取り辛くしたつもりだったのだが、普通に盗まれた。今回は傘の数が多くなるにつれ、埋もれるようにするのが狙いだ。

「ほんと飽きないわね」

 つまらなそうに言った赤錆さんが、僕の傘の隣へ無造作に突っ込む。これで一度も盗まれたことがないというのだから信じられない。持ち主の凶暴性が宿り、手が出し難いのだろうか。

 くだらないことを考えているうちに赤錆さんはずんずんと先に進んでいたので、急いで上靴に履き替えて彼女の背中を追う。

 特に話すこともなく、少し歩いたところで上階に繋がる中央階段の前に着いた。

「じゃあ、また後で」

「バカ、手伝えって言ったでしょ」

「う゛んっ」

 手を振って別れようとしたら腹を殴られた。そういえばそんな話だった。へらへら笑って失態を誤魔化すと、腕を掴まれ引き摺られるようにして強引に連れて行かれる。

 赤錆さんの通う一年一組は一階にあり、僕の所属する三組は二階に位置する。校舎の構造上、一つの階に一学年が収まりきらないので仕方ないことなのだが、その点に納得していない赤錆さんは事あるごとに愚痴を溢す。僕が自分の上に座っているのが我慢ならない、だったか。暴君のような女である。

 ずるずると一組まで連れられ、白塗りの引き戸の前に来たところでようやく腕が解放された。制服を払って身だしなみを整える赤錆さんの横で、心持ち緊張を覚える。

 友達の少ない僕は、他クラスを訪れる機会が滅多にない。隣に知り合いがいようとも、自然体でいることは難しい。

 そんな僕のぎこちない様子を気にすることもなく、赤錆さんは豪快に戸を開け放った。

 彼女の背に隠れるようにして教室の中を覗く。幸いにも他生徒の姿はない。ほっと胸を撫で下ろし、赤錆さんに続いて教室に入る。

「日直の仕事ってなに手伝えばいいの?」

「日誌と板書を消すぐらい。授業の合間にやることがほとんどだから、そこまでは手伝わなくていいわよ。包介の役目は花瓶の水を変えるだけ」

 何が手伝いだ。そんなこと一人で十分だろ。

 不平を唱えたところで帰ってくるのは暴力による制裁なので精一杯のしかめ面で不満を表すが、赤錆さんはどこ吹く風といった感じである。

 結局、モテない僕は彼女の言う通り、大人しく花瓶を抱えて水飲み場に向かうしかなかった。




 僕の役目は三分で終わった。

 一組から水飲み場までは目と鼻の先であり、やることも単純なのであっという間だった。たったこれだけのために早朝から呼び出されたと思うと、やるせない気持ちになる。

 教室に戻ると、赤錆さんは席で頬杖をついて暇そうに日誌を眺めていた。ごく短い時間なので当たり前だが、僕が花瓶の水を入れ替えている間に登校してきた生徒はいないようだ。

「水替えてきたよ」

「ごくろうさま。そこ置いといて」

 指示された通り、辞典やファイルが並べられた棚の上に花瓶を置く。

 これでやることはなくなった。予定外に早い登校となってしまったが、遅刻の心配なく仮眠を取れると前向きに捉えることにしよう。そうしなければやってられない。さっさと三組に移動するため、教室の引き戸に手を掛ける。

「あっ、ちょっと待って」

「どうかした?」

 手招きする赤錆さんに近寄ると、彼女は日誌を置いて立ち上がり真っ直ぐに僕を見つめた。奇妙な緊張感を覚えたのは、遠くに聞こえる雨音のせいだろうか。自然が奏でる断続的な律動が、二人きりという実感を強くする。

「今朝のあれ、痛かったでしょ?」

「今朝の? ……ああ」

 金玉の件だ。

 たしかにあれは度を越えた制裁であったし筆舌に尽くしがたい痛みを味あわされたが、赤錆さんが反省しているのであれば特に言うことはない。それよりも、僕への行いを省みてくれたことのほうが嬉しい。

「痛みは引いたし、もう大丈夫だよ。僕の方こそ約束忘れてごめん」

「ううん、やっぱりあれはやりすぎた。ほんとにごめん」

 赤錆さんが申し訳なさそうに頭を下げる。随分と重く受け止めているようだ。僕の中ではすでに済んだことなので深刻に考えなくてもいいのに。

 気にしていないことをもう一度伝えるべきか迷っていると、赤錆さんがゆっくりと顔を上げる。覚悟を決めたような、けれど、瞳には慈しみの感情を携えた不思議な表情だった。

「だからね、昔みたいに、いたいのいたいのとんでけ、してあげる」

「え゛」

「ほら、遠慮しないの」

「ちょっちょっ、ちょっと待って」

 それはまずい。普段なら多少の恥ずかしさを覚えるだけで終わる話だが、今回は患部がまずい。

 赤錆さんは僕の金玉を撫でるつもりだ。

 動揺に足を止めていると、彼女の右手が股間目掛けて伸びてくる。咄嗟に抑えることには成功したが、いやに力が強い。押し留めようとしても、体全体がじりじりと退がり始める。

「なに恥ずかしがってんのよ」

「い、いや、もう全然痛くないからさ、ほんとに。大丈夫。次から気をつけてくれたら」

「もう、すぐ強がるんだから。大人しくあたしに任せなさい」

 だめだ。全然通じていない。

 純粋な善意からの申し出なので強い拒絶は憚られるし、変に頑固な赤錆さんを説得するのは骨が折れる。

 やはり、正直に言うしかない。これはきっと、えっちなことなのだと。

「あ、赤錆さん。やっぱりこういうのはよくないよ」

「なんで?」

「なんでって、ほら、いたいのいたいのとんでけって、患部を摩るわけだよね?」

「うん」

「だっ、だったらまずいよ。赤錆さんが蹴っ飛ばしたのは、ほ、ほら、ぼ、僕の股間だったしさ」

「それが?」

「あのね、赤錆さんは気づいていないかもしれないけど、こういうのはその、えっ、……えっちなこと、だと、思う」

 言った。言ってしまった。

 心の内が燃え上がり、顔がかっと熱くなる。羞恥に染まる表情を見られまいと俯くと、赤錆さんは心底呆れた様子で大きく息を吐いた。

「別に変なことじゃないわよ」

「で、でも」

「じゃあ何がいけないのか説明して」

 痛いところを突かれて、思わず言葉に詰まる。

 僕はどうして股間を弄ることがえっちな行為なのか説くための論理的な根拠を持っていない。この結論は同級生との会話や日常生活で時たまに感じる、触れてはいけないような気配から推測したものだ。何となくえっちだから、などという不透明な答えで赤錆さんを納得させるのは難しい。

 それでも、受け入れるわけにはいかない。彼女の親切に漬け込むような真似はできない。

 必死に頭を悩ませていると、赤錆さんが音も立てずに間合いを詰めてきた。

 近い。鼻先が触れてしまいそうな距離に彼女の顔がある。

「ほらね、なんにも変じゃないの。ただの治療行為」

「いや、でもさ」

「ああもう。いい? これはあたしのけじめでもあるの。包介が協力してくれないと、これからどんな顔して会えばいいか分かんないよ」

 赤錆さんの意志は固く、付け焼き刃の弁論では崩せそうにない。長引くほど他の生徒が登校してくる危険性は高まるし、持久戦は厳しい。

 粘ついた唾液を飲み下して覚悟を決める。

「……少しだけだからね」

「ふふ、はいはい」

 恐る恐る腕の抑えを離すと、赤錆さんは淀みない動作で僕の頭を胸に抱き寄せ、股間にやんわりと手を添えた。彼女の指先が玉袋に触れた瞬間、微弱な電気が流れるようなむず痒さが全身を駆ける。

「やっぱり、ちょっと大きくなったね」

 僕の髪を撫でながら、赤錆さんが囁く。

 もちろん身長のことだろう。春の身体測定では赤錆さんは僕よりも五センチほど大きかったが、その差は少しだけ縮んでいるようだ。決して、僕の金玉が大きくなったとか、そういう意味ではない。

「いたいのいたいの、とんでけ」

 赤錆さんの右手がさわさわと動き出す。乱暴な彼女からは想像できない繊細な手つきに、肌がひりひりと反応する。

「いたいのいたいの、とんでけ」

 手のひらから伝わる体温が、股間を通じてじんわりと全身に廻っていく。

 こそばゆく、けれど決して不快ではない感覚。重要な器官を握られているはずなのに、奇妙な安心感に包まれている。

「いたいのいたいの、とんでけ」

 押し当てられた胸から聞こえる鼓動が、頭の中を緩やかに反響する。窓を叩く雨音は次第に薄れ、赤錆さんの心音が思考を塗り潰していく。

 赤錆さんの命が、すぐそこにある。

「も、もう大丈夫」

 無性に照れ臭くなって赤錆さんの胸から顔を離すと、彼女はそれを見越していたかのような滑らかな動きでしなだれかかってきた。

 完全に体重を預けられ、体の前面がぴったりと密着する。後ろに退がろうにも、赤錆さんの片腕はいつのまにか腰に回されていて身動きがとれない。

「気持ちいいね」

 僕の肩に顎を乗せた赤錆さんが耳元でぽつぽつと呟く。舌の細かな音まで届いてしまう距離で発せられた囁き声に、腰が砕けそうになる。胸の下の心臓は激しい脈動を続けており、荒い呼吸はまったく治らない。

 これが気持ちいいということなのだろうか。

「気持ちいいでしょ?」

 唇を短く鳴らして首を引いた赤錆さんが、正面から僕を見据える。蕩けた眦の奥に潜む焦げ茶色の瞳は濡れた宝玉のような淫靡な光を放っており、目を逸らすことができない。

 見てはいけない。止めなければならない。それでも、僕の体は爪の先に至るまでが硬直しきっていて、それを見抜いた赤錆さんは薄く笑った後、こつんとおでこを合わせてきた。

「ちゅうできそう」

「だ、だめっ、だよ。そ、そういうのは、もっと大切に」

「包介はしたくないの?」

「ひっ」

 股間に添えられた右手が緩やかに擦り上がってくる。女の子に触らせてはいけない場所のはずなのに抵抗できない。熱に浮かされた視界は徐々に輪郭を失い、自我が曖昧になってきた。

 赤錆さんの視線が、体温が、心音が、僕の体を侵食していく。

 ぬるま湯に浸かった思考に頭の先まで沈みかけたその時、がらりと音を立てて教室の引き戸が開かれた。

 蕩けた脳が瞬間的に冷却され、反射で首が入り口に向けられる。

「あ」

 教員原簿を小脇に挟んだ青褐あおかち先生がぽかんと口を開けて、呆然と立ち尽くしていた。

 教師である彼女の目の前にあるのは、抱き合うようにして体を合わせる男女の姿。怪我の具合を診てもらっていたと証言したとして、信じてもらえるだろうか。自然と誤魔化し笑いが出るが、これで状況が改善した試しがない。先生の顔はみるみるうちに赤くなり、俄かに両肩が震えだした。

「な、ななな何をしているのっ!!」

 いつも冷静な先生の激情を珍しいと面白がる余裕は、もちろんなかった。

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