序章「螺旋」 2-2

 世間はゴールデンウィークの中、真里は初めての労働というものを体験している。最初の3回はコンビニの基本とも言えるレジ業務をひたすらやった。ある程度は慣れてきたと判断されて今日は品出し作業を教えられることになった。

「新しく入ってきた方ですね、僕は吉田と言います、よろしくお願いします」

「吉川です、よろしくお願いします」

 吉田俊彦よしだ としひこは20歳の大学生ながらも高校1年の時からここで働いている。夕方の時間帯ではリーダー的存在で社員からも信頼されていた。18時頃に飲料が納品されるのでそれを冷蔵庫へ入れてほしいと指示された。

「女性にはちょっと重いから今日は僕がやるので吉川さんは中で飲料を出してくれないかな」

 飲料が保管されている冷蔵庫は常に5度前後になるように設定されており震える寒さ。分厚い扉を開けると広さは3人も入れば身動きがとれなくなりそうだ。飲料が陳列されてある棚の先は売り場、客が飲料を選んでいる姿がここからも伺える。吉田から飲料を出すうえで心がけてほしい事を説明されて品出しに取り組む。

 吉田がせっせと飲料を空いているスペースに置く。たまに真里と肩などの体がぶつかるとごめんと、軽く謝りながら作業を黙々と続けた。

 仕事の速い吉田は先に納品された飲料を冷蔵庫の中へしまい終えた。

「僕は一旦、別のことをやるけど何か分からないことがあったら遠慮なく聞いてね」

 その場から離れる吉田。真里は正直、ホッとした。この狭いスペースでいつまで二人で作業をすることになるのだろうとずっと胸騒ぎしていた。男の人と外からは様子は伺えないとも言える所で二人になるのは磯村以外に経験のない真里は初めてといえる緊張感を味わった。

 

 現在、フリーターの真里は週に4~5回のペースで17時から働くことになる。そこまで働く気はあまり無かったが暇である以上、出られないとは言えなかった。今は慣れるためには最初のうちに間隔を空けずに働いた方が良いと思い頑張って働くことにした。

 そこにはよく吉田もいた。吉田はよく真里に話しかけてきた。聞いてもいない仕事に関することも教えてくれた。それに対して女の勘というものが働き出した。

「吉川さん、僕たちよく同じ時間帯に出勤するからよかったら連絡先、交換しない? この日、代わってほしい場合があったら個人の連絡先分かっていた方が早く伝わるし」

 出勤前、吉田からこう持ちかけられた。言っていることは間違っていない。だが真里はその裏に隠されている本当の意図を読み取った。

「(どうせそう言って私の連絡先が知りたいんでしょう)」

 だが仕事をする上で必要な事という盾を持ち迫られたら断ることはできなかった。真里は制服の胸ポケットにあるメモ帳から1枚紙を切り離しアドレスのみを書き渡した。

 23時に真里は退勤する。吉田とは帰る時間は被らない「お疲れ様でした」と吉田を含む残った従業員二人に挨拶する。「お疲れ様、後で連絡するね!」

 明るい声でそう言う吉田、それに無理やり作った笑顔で返すも心はその真逆の真里。店から出ると大きくため息をつく。

 吉田は絶対、私に気がある、そう女の勘が言っていた。真里はモテる、高校時代も同級生、先輩と何人もの男が寄ってきた。今回ばかりは適当にあしらう訳にはいかなかった、同じ職場で働いているという関係である以上は避ける事はできないので嫌な空気にはしたくない。

 吉田は大学生、学校帰りにいつも来ていると言っていた。なら自分が別の時間帯に移れば。磯村から聞いたバイトの苦労話と比べれば、自分が選んだこのバイトは慣れてしまえば全然、苦ではない。定時に必ず帰らしてくれる、社員さんも女性で親しみやすく良い人、こんなアルバイトに巡り合えたのは運が良いのかもしれない。多少、覚悟した真里は良い意味で裏切られた。辞めるという選択はしたくなかった。


「あっ、吉川、来月この時間帯出られないのどうして?」

 5月23日、店に出向きいきなり社員から質問される。

「ちょっと帰りが遅いと親が心配して」そんな事はなかったが無難な理由を言う。

「そうなると朝の時間になっちゃうけど、それでもいい? ちょうど来月、朝の子が一人、テスト期間で出られなくなるらしいから」

「あっ、分かりました。来月から早起き頑張りますね」

 早起きは得意とは言えなかったがそれをすんなり承諾した。とにかく今は吉田から逃げたかったのだ、これで6月から憂いは解消されると思うと胸を撫で下ろした。

 5月25日に6月のシフト表ができていた。真里は希望通り朝6時からの出勤に移る。

「吉川さん、来月から朝番になっているけど、どうして?」

「なんか朝番の人数が少なくなるらしいのでその穴埋めです」

「そうなんだ」

 客足が途絶えたタイミングで話しかけてきた吉田。自分から時間を変更するように言った事は隠した。まだ何か話したそうだったがまた客が2人、3人と入ってきたのをみて止めたようだった。最後の一言は悲しげであった。

 明らかに残念がっていた吉田を見て分かりやすいと思う。誰かに好き、と告白するのは非常に勇気がいる。それでも、それを言葉に出さなくても分かってしまうこともある。それに気がついたから真里は当たって砕けろの精神でも、好きな人に告白するのに躊躇しなかった。磯村の時のように。

 恋愛というものは残酷でその人と付き合えるか否かは大半は最初のコンタクト時の反応で決まっている、そう持論を持っていた。興味がない人にはいつまで経っても興味が湧くことは殆どない、非常に稀。少しでも脈があれば、それは自然と言動に表れる。話しかけた時、相手は嬉しそうに笑みを浮かべる、向こうからわざわざ声をかけて来て話題を振る、体を近づけても離れないか等……その小さな事を見逃さないのが脈があるか、ないのかを見極めるコツである。

「でも、一番重要なのは顔なのかもしれないけどね」

 そんな事を歩きながら考えていた帰り道、思わずポロっと出てしまった一言。そう言われる方が残酷かもしれない。


 6月。人生で初めて朝5時の時間帯に起きた。両親ですらまだ寝ている。テレビを点けると美しい壮大な自然の風景が延々と流れている、こんな番組は初めて観た。

 起きてきた父親に朝の挨拶をして5時40分に家を出ると外はもう明るいといっていい。遠くから聞こえるからすの鳴き声が街の雑音に紛れることなく響き渡る。駅へ近づくとこの時間帯でもスーツを着たサラリーマンをちらほらと見かける。こんな時間から大変だなと思う真里も今から働きに行く。

 眼鏡をかけた男性がレジに居た。深夜帯に働く人、初めて会う人である、その人に挨拶をしてバックヤードへ入るが向こうは真里の方を見るも挨拶を返してくれることはなかった。

 そう、ようやくこのバイトにも慣れてきたが今日からはまた初めて会う人と働くことになる。中には既に女性2人が出勤時間が来るのを待っていた。人がガラリと変わるとまるでここは違う店のように思えてならなかった。

 人の往来が激しい駅前のコンビニで通勤、通学の時間になると忙しいくならないはずがなかった。7時頃になると一気に客が押し寄せずっとレジを打ちっぱなしという状態が続いた。おかげで初めての人と働くという気まずさを感じる暇もなく時間は過ぎていく。

 女性は朝に強いのか、この時間帯は女性しかいなかった。真里と歳が同じくらいの大学生もいて勤務後は直ぐに親しくなれた。忙しさは夕方の比ではなかったが人間関係はこちらの方が良好で働く時間を移ったのは正解であったと判断した。


「真里ってさぁ、彼氏いるの?」

真里より歳が一つ上の桜井が退勤後、ロッカーの荷物を取り出しながら話しかけてきた。

「はい、いますよ」

「やっぱりいるのか。真里可愛いもんね。写真とかある、見せてよ」

 控え目な態度で最初は断ったが桜井の勢いに押されて見せることにした、真里も本心からは嫌がっていない。

「えっ、こんなかっこいいの? しかもなに、制服着ているけど高校生と付き合っているの?」

「なんで私も学校の中に入れるんですか。高校生の時に撮った写真ってだけで歳は同じです」

 磯村が教室で自分の席に座り窓の外を眺めている所を気づかれないように撮った写真を見せた。自分の勘違いに高らかな声で大笑いする桜井。

「なるほどね。しかし彼氏もイケメンとは。周りから羨望と嫉妬の視線浴びているんじゃないの?」

 原口もかっこいいと認めていた、今まで敢えて深くは考えたことなかったが真里の知らないところで磯村に熱い視線を送っている女性はいても不思議ではなかった。真里がこのバイト先で吉田からそういう目で見られたように。

 5月は真里のバイトを優先して会えていない。6月は今すぐ会いたいという想いが急激に募った、がその想いを裏切るようなメールがこの日に届いた。

『ごめん、今月は会えそうにない。また連絡する』

 最悪といってもいいタイミングできた会えないというメール。どうしてか、まさか新しいバイトがそんなに忙しいのか、真里はなんとかして会えないかと返事を返したが、やはり磯村も今はバイトを優先しなければいけない身らしい。

 なんとしても7月は、今から会う日を決めてしまおうとしたが、まだ分からないとあまり乗り気ではいなかったところを押し切った。7月21日、下旬になってしまったがこの日は絶対に会うと約束をした。

 部屋の中で拗ねる真里。なんだか会う日を決めるだけなのにえらく苦労した。私に会いたくない? そんな疑念も過ぎった。

 告白したのは自分——磯村の方は言ってしまえばそこまで強く真里を好きではない、いつか心が離れてしまうかもしれない、そんな思考に再び陥った真里は自分の顔を携帯のカメラで撮り始めた。

 床に座り、飛びっきり可愛い笑顔で、赤いキャミソールに黒の短パン、その服装で自分を斜め上から撮った。思わず胸元、太ももに目がいってしまう写真。それを磯村に送りつけたのであった。

『これを見て私のこと忘れないでね、7月会えるの楽しみにしてる』

 姿見の鏡の前に立ち全身を撮ったり、自撮りを撮るのが楽しくなった真里は今年になって流行っていると聞いて始めたツイッターにもその写真を上げたら反響が凄まじかった。もちろんいいねを押してくれるのは男ばかりであろう。磯村には彼氏ということもあり、ついそれよりも刺激的な写真、言い換えれば時に下着姿も同然の写真を送る。会えなくても自分を頭から消させない努力をした。万が一のための牽制だ。

 7月中旬、いつの間にかツイッターのフォロワー数は真里自身がフォローしている113人に対して1千人に達していた。その比率から考えても芸能人でもない一般人にしてはそれなりに多い方である。磯村にもツイッターをやるように誘ったが考えておくとだけ言われてあまりやる気はなさそうだった。そんな磯村から思わぬ内容のメールがこの日、届いた。

 

 磯村は未だに新しいアルバイトが決まっていないらしい。5月から面接を受けて具体的な回数は言っていなかったがこの2ヶ月間で決まっていないということは相当数、落ちたのであろう。

 真里はもうバイトが決まっている、だが自分は決まっていないという状況が耐えられなくあの時、会えないと嘘をついてしまったことを詫びていた。

 そして今も……。磯村は7月に会ったら、一旦、会うのを高校時代に貯めていた貯金も多くはないので止めてバイトが決まるまで待ってほしいと懇願した。

 あの日、なぜ会う日を決めるのに嫌がっていると思わせる態度だったのかこれで納得した。人間としても素晴らしいと思っている磯村がバイトでそんなに採用されないと聞いたのはショックだったがあの疑念は杞憂だったことを喜んだ。

 この話を聞いて真里は助けてあげられると思った。真里のバイト先は知り合い、友達をこのアルバイトに誘ってほしいと常に業務日誌に書かれていた、他店舗で働くことになっても構わないという注釈付きで。

 早速、事情を電話で話した。

「ありがとう、困っていることがったら話してみるもんだね」

「いいよ、早く決まってくれないと定期的に会えないし」

安堵の声が聞かれた、ちょうど磯村の地元の駅前にも真里と同じコンビニはあった。これで全て解決して7月21日を迎えることができる。


 7月21日。白いワンピースを着て真里は駅へと向かう。風が強い日、ワンピースの裾がめくれそうになる度、真里は手で押さえながら歩く。朝、起きた時は晴れていた空が今は急に雲行きが怪しくなっていた。

 駅に着くと磯村が改札の中から手を振っていた、現地集合ではなく磯村が一度、電車から降りて待っていてくれていた。

 磯村の服装はハイビスカスがプリントされたグレーのアロハシャツに黒いズボンを履きサングラスといういかにも夏を意識した格好。この服装も人と会う時は基本、着ないらしい、人は選ぶファッションだが確かに磯村には似合っていた、なんでも着こなせる磯村が女性からしても羨ましかった。

「真里、もしかして今日、雨降らない?」

 久しぶりの再会であったが先ず気になったのは天候だった。

「えっ、でも今日は確か雨は降らないって」

 雷鳴が響いた。これで雨が降らないという方が難しかった。

「俺、傘持ってきてないんだけど」

「私もない」

 まるで見計らったように強い雨音が一気に周囲を包んだ。土砂降りだということは音を聞いただけで分かった。

「どうする……」

「分かった、とりあえず私の家に来て」

 ずぶ濡れになりながら真里のマンションまで走った。同じ境遇の人は二人だけではない、傘を持ってない多くの人が屋根のある場所を求めて方々に走っていた。

 鞄や髪の毛から滴る水滴がエレベーターの床を濡らす。幸いにも乗っているのは二人だけであった。

 敗走した兵士が拠点へ帰ってくるように俯きながら玄関の扉を開ける。

「あぁ〜びしょ濡れ」

「まさか久しぶりのデートがこんなになるなんてついてないな」

 玄関扉に寄りかかり天井を見る磯村、真里はサンダルを脱ぎ家に上がるとワンピースをその場で脱ぎ始めた。

「ちょっとなんでここで脱ぐの?」

「だって部屋の中、濡らしたくないじゃん」

「誰もいないなら好きにしていいけど……」

 顔を赤らめるようなちょっと困った表情の磯村がサングラス越しからでも分かる、真里は急にニヤつき再びサンダルを履き磯村に近づきサングラスを外し下駄箱の上に置く。

「ほら恭ちゃんもこんな濡れた服、いつまでも着ていたら気持ち悪いでしょう」

「わかったよ自分で脱ぐよ」

 ボタンを3つほど外したところで磯村は自分で脱ぎ始めた。上半身は裸になったところで軽く、前戯とでもいうように真里は胸に顔を当てて磯村は抱きしめ顎の付け根あたりをキスした。真里が言う。

「玄関でやるってなんか新しいね」

「そうだけど、これで誰か訪問してきたらどうする?」

「そう思うと興奮する」

 真里はこのシチュエーションが気に入っているようだ。しばしここでの営みを楽しむことにした。狭い玄関、床は砂利などで汚れているためかなり行動は制約されたが、そのドア一枚隔てた先に誰か居るかもしれないというのはちょっとしたスリルであった。現にたまに人の声が聞こえてきた。

 そろそろ蒸し暑さも相まって目の前の廊下に倒れ込み、這うように家に上がった。

「暑いね」廊下の壁に寄りかかりながら真里は言う。

「そろそろズボン脱ぐわ、感触が気持ち悪い」

「うん、とりあえずリビングに干そうか」

 リビングへ入り外を見ると雨はもう止み、青空も覗かせていた。

「なんだもう止んじゃったんだ。これだったらベランダに干してもいいかも」

「さすがに一応、家の中かもしれないけど外に出る時は服着たら?」

「なに言っているの、この続きはベランダで、ここは7階だから大丈夫」

 真里に合わせるしかない空気を感じた。興奮して周りが見えていないような状態なのだろう。外へ出ると車の走る音、人の声、飛行機の音まで聞こえてくる。この雑音の中でやるのは集中力の面でも厳しかった。

 ベランダには二人ほどが座れる木材のベンチがあった。

「ほら去年の夏だって、外でやろうとしたんだし」

 互いに下着姿でサンダルを履きベランダのベンチに座っているのはなんだか滑稽だった。その変な光景を振り払い磯村は真里の体に集中したが。


「もう、だらしない」

 変なプレッシャーがかかる状況に磯村の性器は萎んでいた。

 シャワーを浴び一息ついた時間、磯村は真里のシャツに高校時代のジャージを借りて乾くのを待った。

「それにしても恭ちゃん、本当に細いね。私のジャージがギリギリとはいえ履けるってなんか嫉妬する」

 雑談する二人、今日、計画していたデートは頓挫しても誰にも邪魔されない空間で二人になることは別に悪い事ではない。

「恭ちゃんって私以外の女の子に告白されたことあるの?」

「いや、ない。真里が初めての彼女だし」

「この子、気あるのかなっていうのも?」

「う~ん、あっ、強いて言うなら……。」

 登校中、磯村は毎日、電車に乗る時、顔を合わせる女子高校生がいることに気がついた。通勤、通学で毎日、同じ人と顔を合わせることは珍しいことでなかったが、

「その子、俺の隣に座ってきたらいきなり頭を俺の肩に寄りかけてきてさ」

 立っている時にも満員電車とはいえ必要以上に体を密着させてきたりしてきたそうだ。

「試しに一本、いつも乗る電車を見送ってみたんだけど、まさかその子まで乗らずに見送ってこれはさすがに俺のこと好きなのかなって思ったよ」

「で、結局どうなったの?」

「その後は俺が学校に行かなくなったから」

「ふーん。その子可愛かった?」

「それなりかな。胸は間違いなく真里より大きかったな。あんな大きいと……」

「ばかっ。でもそんなことする勇気あるなら話しかけた方がよかったような」

「確かに。真里はどうなの?」

「私? 私はね、7人かな」

「けっこう多いな」

「恭ちゃんが転校して、別れたって勘違いした男子がどっと押し寄せてきたから」

「そっか。ありがとうな。会いづらくなった俺と今でも付き合ってくれて」

「ううん。私は恭ちゃんを選んでよかったと思っている」

乾杯する気持ちで口づけを交わす二人、「服乾いたら写真撮ろう」

 互いに今日のために選んだ服で記念に一枚、写真を撮りたかった。タイミング良く磯村がドライヤーを使えば早く乾くと当たり前の事に気がついて早速、乾かしにかかる。

 上着は早く乾いたがさすがに生地の厚いズボンはそうはいかなかった。手でどのくらい乾いたかを確かめながら熱風を当てる。

「そういえばさぁ、最近よく俺に写真送ってくるけど、あんまりその、肌の露出が多い写真は送らない方がいいんじゃない? 万が一、別れた時、男の手元にあんな写真があったら嫌だろう」

「……別れるってなに」

聞いたこともない低い声でこの言葉を発した。この一言だけで機嫌を悪くさせたと察知した、慌てて弁明する。

「万が一って言ったじゃん。それに考えてもみろよ、あんな格好した女性の写真、お金払ってでも見たいっていう人がいると思うよ。それを付き合っているとはいえタダで惜しげもなく送っていつか悪用されたらっていうことを少しは考えたらどうだって事だよ」

 磯村の言っていることは間違ってはいない、むしろこれからの時代、気をつけなければいけない事を言っている。だがそんなことよりも何より別れるという単語に異様な反応を見せた。

「私たちが別れるってどういうときなの?」

「悪かったよ、別に今すぐ別れる気はもちろん毛頭ないけど、ただあまりにも真里が無防備だったから注意しただけだよ」

 初めてと言っていいくらい雰囲気が一瞬にして険悪になった。今の真里に別れるというワードは禁句だった。頭に血がのぼったのが少し冷めて冷静さを取り戻す真里、気がつけば瞳は潤んでいた。

「ごめん、その気遣いも分かっているんだけど、恭ちゃんからその言葉を聞くとなんだか悲しくなっちゃって」

「ごめん、俺も無神経だった」真里を抱きしめ慰める磯村、堪えようと思っていた涙は溢れていた。

「私ね、できればこのまま結婚できればいいなって思っているの。もちろん今すぐに決められる状況ではないのは分かっているけど」

「結婚か」

「恭ちゃんはどう思う?」

「俺は正直、今までそこまでは考えたことなかった。だから今、どう思うと聞かれても何も答えれらない」

「そう。やっぱりそうだよね。でもこれは私の変わらないと思っている気持ち。これから少しずつ考えていってほしいな」

 今年、高校を卒業した若者には重い言葉を、さらっと言ってしまった真里。別れるわけでもないのに不穏な空気が流れていた。この一言は告白を断ってしまい友人関係としてもぎくしゃくしてしまうように、これもまた二人が今まで通り接することができなくなる危険性をはらんでいた。

 その後のことは思い出したくもない。記念の写真を撮ることもなく沈黙が耐えらないように「帰るわ」と一言だけ残して半乾きのズボンを履き磯村は逃げるように去っていく。



 そこから、8月に入ってからも真里はひたすらバイトに没頭した。今、振り返るとあんな大真面目に結婚なんて言葉、言わなければ良かったと後悔した。せめて二十歳になってから、互いに進学先なりが決まってから、もう少し後が適切だった。

 それでもどんな意図でも、もしも別れたらなんて言ってほしくはなかった。写真を送り続けたのも、ただのはしたない女と思われた、ただそれだけだったと考えると虚しくなる。

「(私の想いは重いってことなのかな)」

 捻りのない駄洒落にも気つかずそんなことを延々と考える日々が続く。磯村と共に過ごして幸せを感じたい、それをこれからもずっと繰り返したいだけなのになんでこんな気持ちになるのか。


 大事なことを忘れていた。

「(恭ちゃんにバイトを紹介しなきゃ)」

 最近、読んでいなかった日誌を開き目に飛び込んできた定型文にはっとさせられた。あれから連絡を取り合わず、8月会う日も決めていない。気まずいまま別れたから仕方がなくても、そんなことは言ってはられない約束を思い出した。バイトが終わり急いで電話をかける。

 お願い、出てと祈りながら呼び出し音を聞く。

「もしもし」

「あっ恭ちゃん。ごめん、バイト紹介するって約束だったね」

「それか。もう自分でまた探すかって思っていたけど」

「ほんとごめん、今度社員の人に話しておく」

「ありがとう、助かる。なぁ」

「なに?」

「最後あんな風に別れたけど、俺は今、真里が好きなのは間違いない。これだけは言える。もちろんこの先、どうなるか分からないというのはあるけど、だからってそれが今、会わない理由にはならないよな?」

 このまま会わなくなったらどうしようという不安を打ち払う一言、氷が溶けるように笑顔が広がる真里。

「うん、そうだよね」

「だから今まで通りこれからも会おう」

 あまり先のことを考えてもしょうがない、それが出した結論だった。今、互いに惹かれ合っている事実を押し殺してまで将来、結婚を約束できないなら別れるというのは愚行である。自分の将来も、二人の未来も、何もかも見えない状態ではあるがそんな不安な時だからこそ誰か寄り添える存在が必要なのもまた確かであった。


 8月25日。電車の中から外を見ていると、いきなり白い鉄の壁に囲まれている何も無い広い更地が現れた。車内に間もなく次の駅に着くことを知らせる放送が流れる。駅に降り立つとカン、カンカンという金属音が不規則なリズムで耳に入ってくる。この音は暑さを増幅させているようだった。アスファルトにこもる熱を足の裏から感じながら、階段を下りて改札を出る。磯村に待ち合わせ場所である地下改札に着いたとメールする。

 数分後、返事が返ってきた。磯村は今、東口に居るらしい。今、向かうとのこと。天井に設置されてある案内版を見て東口はどちらかを確認して、真里もそっちに向かうから合流しようと返事を返した。


 斜め向かい側に思わず眼を止めてしまう人物の存在を確認した。その人は小走りで東口へ向かっている。立ち止まりその姿を目で追う、体ごと振り返り、背中を、そして見えなくなるまで凝視した。

「(吉川さん?)」



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