序章「螺旋」 1-5

 12月下旬の土曜日。今日がツアー初日である。場所はさいたまスーパーアリーナ。この日を迎えるのを心待ちにしていた恭一郎と高梨、今日の席がアリーナAブロックという最前ブロックエリアだから尚のことであった。

 開演5時間前に着いたがなんとその時点で拡声器を持ったスタッフがグッズは今から並んでも開演には間に合わないというアナウンスがされて信じられない待ち時間となっていた。チケットの取りにくさがグッズにまで波及していた。

 見通しが甘くグッズは諦めざるを得なかったがライブ自体は最高のものであった。バンドメンバーがステージ上から投げたピックが目の前に飛んできたり、演出で飛ばされた銀テープが頭上に落ちてくるという良い席ならではの嬉しいことも色々と起こった。

 満たされて溢れそうな想いを胸に帰りの電車に揺られた。

「磯村ってあんなライブで騒ぐんだね、意外だったよ」

 初めて高梨と一緒に行ったライブ、確かに高梨と比べれば飛び跳ねたり盛り上がっていたかもしれない。それは二人の性格の違いというよりも今まで溜めていたストレスを発散させるがための結果であった。

 ほとんど一人でここまで過ごしてきた、それがいきなりあんな何万人と集まる場所へ来て周りはみんな騒いでいる、近い席もあってそれに感化されるのは容易であった。

 恵まれている、運が良いとでも言えばいいのか。自分の人生はまだ捨てたもんじゃない、長く続いた闇から一筋の光が射した12月。今日、ライブで感じた充実感、あの日、吉川と共有した幸せ、あのまま時が止まってほしかった、それが叶わぬのならこんな気持ちをまた味わいたいと強く望んだ、これから何度も何度も繰り返し。

 お盆から母親の実家に行っていない、正月も行くことはないだろう。受験ということで忙しいということにしてもらっているが本当は自分の今の状況が芳しくないからだ。バイト先にも卒業後は推薦で進学すると嘘をついている、学部は経済学部ということになっている。嘘で塗り固められる恭一郎、その偽りの姿を突き通し来年の3月で今のバイトを辞めると決断した、年が明ける——

 1月1日になれば友人からあけましておめでとうとメールがくる。今年は一通も来なかった、今の自分の状況を象徴するかのように。まさか吉川からも来なかった、今年はどうしたのか。

 

 送らなければいけない課題は毎回ギリギリで速達で送ってもらっていたがちゃんと期限を守り送っている。あと2月に一回、その後テストを受ければ卒業できることになる。ゴールがいよいよ見えてきた時、考えるのは卒業後である。

 吉川は推薦で大学へいくと言っていた、どうやら大学が恭一郎の地元から近いらしく進学後は会いやすくなると嬉しそうに言っていた。

 初めからそのつもりだったが恭一郎は進学も就職もしない。何も考えていないわけではない、むしろ他の誰よりも考えているかもしれない。

 ただ目的を曖昧にしたままにするのがどうしても許せなかっただけだ。吉川にでさえどうせ楽しい学生生活を延長したいから進学するのだろうという眼で見ている。吉川も3、4年後、自分と同じ悩みを抱えるはずだという未来を予知していた。そして同じようになんとなく就職した先が今の言葉で言うならブラック企業だったら?

 12月のバイトは何人かの社員、アルバイト、パートがインフルエンザで倒れて過去、一番の大変さであった。そもそも誰かが二人、三人休めば普段の仕事があんなに大変になるのはリスクマネジメントの観点から見てもおかしいと、高校生にしては生意気ともいえるような眼を身に付けていた。普通は急な欠員にも備えて人員を配置するものである。

 一人にかかる負担が大きくなるから体調を崩して休むことはご法度、慢性化している長時間労働、これはここだけではなく日本全体に蔓延していると気づき始めた。それを決定付けるように最近、過労死という言葉をニュースで聞いた、いきつく先は死ぬまで働かされる。好きなこともできず我慢して、仕事に時間を、人生を捧げてきた。それに対して会社は感謝もせずにこの仕打ち、これは心がある人間のすることではないと他人事とは思えない怒りで震えた。

 そんな会社に就職しないように、長時間働くことは免れないならせめて自分がやりたいと心の底から思う職に就くべきだ、この前々から考えていたことは間違っていないと日が経つごとに確信に迫っていた。

 では、そんな職業とは何なのか? そんな会社はどこにある? 何も決まらず動くことができないのも良いわけがなかった。



 昨日は雪が降った。その雪も夜になると雨に変わり昼間の時間の雪景色はどこへやら、雪は道端や建物の屋根に残っているだけであった。それがまだ引きずるように空模様は灰色で覆われ暗かった、今の恭一郎の心のように。今日は楽しいライブのはずだった。

 去年、買えなかったグッズもツアー後半になる2月になれば直ぐに買えた、これでようやくグッズを身に付けてライブに臨むことができる。

 凍える手に申し訳程度の暖かい息を吹きかけ開場を待つ高梨と恭一郎。

「あのさ、実は3月に軽音部がやる卒業ライブがあるんだけど観に来ない? せっかく仲良くなった磯村もいた方がいいなって思って」

「そうなんだ。うん、じぁあ行くよ。もう直ぐ暫く会えなくなるだろうし」

 高梨は去年言った通り千葉県の方に引っ越すことになった。今でも繋がりがある数少ない友人が少し遠くへいってしまう。


「よし、終わった」

 そう小さい声でも力強く言った。提出しなかればいけない課題が全て終わった瞬間だ。A4サイズの封筒に解答用紙を入れて糊を塗り封をして、自転車で近所の郵便局へ走る。最後だけは速達で送らなくても間に合うように出せた。その自分へのご褒美に帰りにコンビニへ寄りアイスクリームを二つ買った。

 早速、家に着くとリビングで買ってきたアイスクリームを一つたいらげた。ゴールが見えてきた。ここまで紆余曲折ありながらもなんとか3年間で高校を卒業できる事を達成できそうだ。それにはもろろん嬉しさ、充実感があって然るべきであるがその後は——

 アイスクリームを掬うスプーンの手が止まった。これで何かを成し遂げたわけではない。ただ自由になっただけだ。その自由も求めていたのは間違いないが、その後にどこへ行くつもりでいる? 決められたレールの上だけを歩きたくないと偉そうなことを思ったものの、今度はその指標がない事に嘆くのではないかと想像する。人間というのはとことん我儘であった。暑ければ冬が良いと言い、寒ければ……自分はどこへ向かおうとしているのか、この後はずっとそんな事を考えていた。これで何度目だろう。答えはまだ見つかりそうにない。


「終わりました」

 最後のテスト、相変わらず強行スケジュールのように1日で終わらせる。遅れた分を取り戻すとかではないので最初に受けたテストよりも速い16時には終わるのが救いだった。

 もう今まで何を勉強してきたかなど頭の中から抜け落ちているのが分かる。何のために勉強してテストを受けるかって、高校を卒業するためである。その条件が満たされた今、その解放感と共にそれも放出された。こんな勉強はこれで最後にしたかった。

「お疲れ様」

 今までずっと生徒達を見張っていた若林が労いの言葉をかける。編入の手続きの時からお世話になった先生である。この人の笑顔を見るといつも安心させられる。

「磯村君、卒業後は進学しないの? 進路相談も授業中やったと思うけど」

「はい、そうですね。先ずは3年間で卒業することだけを考えてここにきたので」

「そっか。でも磯村君はできる子だと思うよ。授業中に提出した感想文も凄いよく書けてたし」

 誰かも言っていたその言葉。やっぱりそう言われれば喜んでいいはずなのに、その気にはなれなかった。

 外へ出るとまだ明るさが残る空だった。雲の形が鯨に似ていたので思わず携帯のカメラでパシャリと撮った。これで卒業できる、あの時のことを思うとよくできたと思う。それでもまた間髪入れずに新たな解決しなければいけない問題が頭の中に居座っているとも本人は分かっていた。この悩みにはどうすればいいのか学校は教えてほしかった。こっちは卒業してもその後もずっと人生が続くのだから。夕焼けの空が綺麗な日であった。あの日、見た空のように。


 3月初旬。わざわざ近くのホテルの大広間を借りての卒業式であった。私服では変だということで前の高校の制服を着ろと母親から言われた。こっちの方が変な気分になる。

 まだ式場内へは入れなかった、周りにその生徒と思わしき人が30人弱集まっていた。何度か授業で一緒になったが話したことはないという人ばかりであった。

 10分後、中へ入れると案内があった。ちゃんと学校名、卒業式と記されている板が飾られて広さは体育館ほどはなく、今日来ている人数でやるにはちょうどいい部屋であった。始まる前に卒業証書の受け取り方の練習を一人ずつ一回だけした。卒業式といえば入場から始まり、何度も予行練習、リハーサルを重ねていた記憶がある。それがぶっつけ本番に近い形でやれと言われて急に緊張したが受け取り方だけはなんとなく覚えていた。

 式が始まり校長が登壇する。今日、初めてお目にかかる。そしてこれが最初で最後になるだろう。見たところまだ40代前半の若い男性であった。

「今日が夢を掴むための第一歩です」

第一声がそれだった。この高校卒業資格は今後、あやゆる夢、可能性を広げるために非常に価値があるもの、それを大いに活用してここから羽ばたいていってほしいというのが主な話の内容だった。

 夢、自分に足りないものはそれだとも言える。その夢を抱いて今日という日を迎えられたらどれだけ素晴らしかったであろう。その夢を探す、それが今後やるべきことなのかもしれないと、この校長の言葉によって気づかされたようで、さすが校長、良いことを言うと上から目線で感謝した。

「(夢、やりたいこと、それは見つかるだろうか?)」

 終了後は記念撮影を行った。後日、写真を送付してくれるらしい。泣いている人は誰もいない、今いるメンバーに何の想い入れがない、そう感じながら足早に会場を後にしようとしたが一人の男子が声をかけてきた。そうだ、そんな中でも少し仲を深めた人はいたのだ。

「いやーお互い無事に卒業できて良かったですよ」

 そう言いながら握手を求めれられた。実はここへ来てからもこのままだと授業の出席数が足りないということで卒業できない状態に陥っていた。その状況から救ったのが学校側が今年1月に用意した3泊4日のスキー合宿であった。そこで寝泊り、食事を共にした人が何人かいる。当初は嫌々行ったが今、思い出してみると別にそこまで悪い体験でもなかった。むしろ、「あの時は楽しかったよ」そんな言葉が自然と漏れた。

 名前を知らない知人と最後の挨拶を済ませて、外へ出ると僅かに暖かい風が強く吹いていた。もう春は来ている。歩くのが早い恭一郎は母親を後ろに置いてさっさと歩く。

 今日からその夢を探す第一歩とやらを踏みしめ、歩き始めた。その旅は途方もないだろうと見越していた。


 先月から噂になっていたが4月からバイト先の社員の顔ぶれが大きく変わるらしい。計5人の社員が異動して新たに入ってくると3月になって確定情報となった。これだけ一度に変わるのは初めてだと長く働くパートのおばさんは言う。自分も4月になったらいなくなる、他にも就職する内田、進学して引っ越す高梨が辞める、自分が馴染んだ店ではなくなりそうなのでもう未練は無い。今月で最後だと思うと、たとえ大変なアルバイトでもいつもよりやる気が湧いてくる、今日も意欲的に取り組んだ。


 3月31日。3月、最後の日にとあるライブハウスで高梨が所属する軽音部主催の卒業ライブがある。入り口前の受付でチケット代とドリンク代を払い中へ入ると立ち見で300人ほどが入る広さのライブハウスには既に6割ほどが埋まっていた。おそらくほとんどが高梨と同じ高校に通う人達であろう。そこに別口で知り合った自分がいるのは多少、気まずかった。ドリンクをバーカウンターで貰い一番後ろの壁に寄りかかり開演を待った。

 先ずは前座で同じ軽音部の後輩が登場した。ジャンルはレゲエと言われるものだったが恭一郎には何が良いのかさっぱりであった。前方で観ている人達は楽しそうに手を振ったりして盛り上がっていた。それを見ると良さが分からない自分が悪いのかとも感覚を疑ってしまった。

 前座のライブが終わるとここからは今年卒業する先輩達の登場ですと言って後輩達はステージから去っていった。ステージにはまた新しく機材がセッティングされる、そのために登場した高梨と3人のバンドメンバー。高梨はワインレッドのワイシャツに黒いスーツとこの日のために用意した衣装という出で立ちだった。

 サウンド、マイクチェックなどの準備を終えるとベース、ギター、ボーカルの3人がドラムに視線を向け、それに呼応するように無言でハイハットでカウントをとり演奏が始まる。始まった曲は直ぐに分かった、自分も大好きな曲、去年11月に発売されたアルバムの1曲目を飾る曲であった。これには体を動かして乗らずにはいられない。

 演奏された計7曲は全て恭一郎の好きなバンドであった。最後にベースの人が一言、「僕達は今年卒業して、次の新しいステージへと向かいます、皆さんまたいつか会いましょう、ありがとうございました」と挨拶をしてステージを去っていく。

 楽屋から高梨が出てきた、恭一郎を見つけると今日は来てくれてありがとうと礼を言いに来た。

「もう俺の出番は終わったし、後は身内しかついていけないような内容が数時間続くだけだから、帰ってもいいよ」

「そっか。じゃあまたいつか。楽しかったよ」

 高梨としばしの別れを告げる。昨日はバイト先に洗濯をした制服を返しに行った。なんとか高校が変わったことを隠し、進学すると嘘をついて辞めることができた。自分の面目のためなら平気で嘘が次から次へとつけることに嫌気もさしたが、この嘘で誰も損をしているわけではないのであまり気にしないように言い聞かせた。店長から学校が慣れたらまたここに来なさいと言われたが、軽く聞き流した。

 これで全ての片はついた、しがらみから解放された。ここから先は一人、地平線だけが見える何もない平地へ放り投げられる気分である。そこから自分の選択次第で見えてくる景色が変わるが進むべき方向を示してくれる地図は無い。周りと同じように適当に進学をして、ただ流されるままに生きた方が楽だと言われたらそうなのかもしれないが、敢えて骨の折れるような道を選んだ。この選択が間違っていなかったと何年後、もしかしたら何十年後になるかもしれないが、そう言えるようにすると誓った。

 電車を降りて階段を一段抜かしで上り改札を抜けて、西口へ出る恭一郎。これで何度目かの、橋上から更地となった地を橋の柵に腕を掛けながら眺めてここまでの時の流れを想う。



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