第9話―承プロローグ―
――だって楽しそうじゃないの。
僕の半歩前を、背筋を凛と伸ばしたかよ子さんが歩いている。僕はぼんやりと――語り部のかよ子さんにすら焦点を合わせずに彼女の少し後ろに続いていた。
今日は疲れた。あくせく走り回ったわけじゃないのに、心臓がばくばくと嫌にあばれるあの感覚を思い出す。高揚感と錯覚しそうなあの高鳴りは、出来れば二度と感じたくない感覚で、二度としたくない体験だった。
明日は疲労困憊で寝覚めが悪そうだな――とか、
ここ最近、ずっと同じ事を言っている気がしてきたな――とか、
そろそろ翼を授かってみようか、それとも怪獣の力を借りようか(作者は某領域派だけれど)――とか、
これだけ連日連夜の疲れが蓄積されている今なら、たとえ晩御飯が卵かけご飯オンリーだとしても不満なくがっつけるかもしれないな――とか、
(まあ、卵かけご飯はいつだって美味しいけれども)
でもやっぱり頭は我儘なもので、晩御飯は大皿料理でいいからもう一品あったほうがいいな――とか、
まあ、卵がとんでもなく高級品で一個千円するのよおホホ、なんてセレブリティなことを言われたら我慢するけれど――いや待てよ、そもそも一個千円の卵って何だ、存在するのか――とか。
どんどん卵かけご飯(というか卵)に流浪していく思考で、半歩先のかよ子さんが続ける言葉をやっぱりぼんやりと飲み込んでいく。
「だって、ねえ、考えてみて頂戴な。どうせ辿り着く道なりと結果が変わらないのなら、試練的にもがき苦しんで進むよりも、娯楽的に受け入れて踊った方がいいじゃないの。踊らされることに変わりはなくとも、踊り方は自分で決められる――っていうのは、さて、誰の言葉だったかしらね」
そこで言葉を区切ったかよ子さんは、僕の顔を覗き込むように姿勢を下げて振り返った。その面差しはいつものろうたけた柔和な笑顔のまま、
「人生は〝人生〟である内に楽しまないと損よ」
――と。
自身の言葉を映すように、楽しんでいるような声色で、かよ子さんはそう続けた。
まあ――まあ確かに、分からなくはない。
彼女の意見の中で、珍しく理解ができる――
――共感ができる。
全くその通りですね! あなたは僕の代弁者だ! と大手を広げて全肯定はしないけれど――僕なんかにはできないけれど、それでも今しがたの持論の一節だけは、僕も昔からそう思っていたことだった。
かよ子さんレベルの達観した人が言うのと、僕みたいな青臭いガキが言うのでは意味も重さも根本的に違っているかもしないけれど。
それに、楽観的ともとれるこの意見を否定する人間は少なくない。僕のクラスメイトである織川メノウという、恙無いことにわざわざお金をかけて苦労や問題事にアレンジするような奴からすれば、僕の考えは愚かも愚か、浅慮甚だしいという。
「若いうちの苦労は買ってでもしろっていうでしょーが。そんなふうに辛いって感情から逃げてたら、いつかやってくる逃げ切れない本当の苦労や困難に耐えられねーよ。僕は無闇矢鱈に苦労を買ってるわけじゃなっくって、大きな苦労に耐えるためのワクチンを買ってるんだっつーの。あれ、そういうのは予防接種っつーんだっけ? そんなのはどうだっていいよ、僕が言いてえのは、僕は愚かな浪費家やメンヘラじゃねえってことなんだよ」
――その分別もつかねえとか、大雑把な奴だなーははは。
そう眉を八の字に上げて、織川メノウは笑った。
・・・・・・予防接種とワクチンの違いが曖昧な奴に大雑把だどうのとは言われたくないんだけど。口調も相まって、コイツの言葉はいまいち説得力に欠ける。
その時にした、織川君がたまらずあんな喧嘩腰に持論を講じた、僕の持論はこうだ。
それでは――
僕のターン。
僕の持論は。
苦労、困難、挫折しそうな辛いことも、それに対する向き合い方を変えるだけで、乗り越えられるかもしれない――たとえ虚勢であっても、それは自分を守る盾になるだろうし、盾があれば挫折することだって減ると思う。
時間稼ぎだっていい。ようは折れなければいいのだ。
折れなければ、耐えられる。耐えられれば、打開策を考えられる。そうすれば、艱難辛苦乗り越えられるかもしれない。
――と思う。
その一つが、よく言えば楽しむこと、悪くいえばふざけちゃおう、である。
この辺が、僕がかよ子さんの意見に理解を示したところかもしれない。
とはいえ、僕はまだ十七歳のヤングだ。トイザ〇スを卒業したばかりのガキンチョなのだ。
これからの人生、予想だにしない艱難辛苦が訪れるだろうし、僕みたいな未熟者は対処はおろか逃げることすら出来ないだろう。
いずれ訪れるかもしれなといことは、未だ訪れていない、だから未だ想像ができない――想像することしかできない――のに、
それなのに僕は、自分が楽ちんな人生を歩んできたとは思っていない。
特別不幸だとも思っていないけれど、特別イージーモードだとも思っていない。適度に色んなことを体験して、適度に喜怒哀楽を培ってきたつもりである。
適度に生きてきた僕が、適度に最大限努力した処世術が、この向き合い方だった。
まあ、僕は、僕の持論が絶対的に正しいだろ! と押し付けるタイプではないので、〝どんな困難〟も楽しめば乗り越えられる、どんなことにも適応できる生き方だ! ――なんて受験シーズンもたけなわな時期に流れる塾や予備校のCMみたいなことを言いたい訳じゃない。
ただ、さまざまな辛いこと――一絡げに問題というものは見方や焦点を変えるだけで、打開策の選択肢は格段に増えると思う。
楽しむ余裕があれば、考える余裕だって出来る。それは、考え無しの、それこそ浅慮甚だしい無謀な楽観視とは違う、冷静に生きるための謀った楽観的な振る舞いである。
まあ。とはいえ。けれどもしかし。
これはあくまで持論であり、理論であり、思想であり、理想でしかない。
全ての人間が僕の持論を遂行できれば小さな苦難にずっと落ち込むことはないし、悩みや問題が大きくなることもないし、ストレス解消セミナーや占いや幸運を呼ぶ何とやらは商売として成り立たなくなるだろうし、とりわけ日本人に絞れって話では、年間自殺者ウン万人なんてことにはならないはずなのだ。
じゃあ皆そう考えるように教育したらいいじゃんか――というのも違う。
自我や個性がある時点で、そうは問屋が卸さない。これこそ正しい思考で、皆がそうあるべきだ、とは言い切れない。
――それが現実である。
結局のところ、視点を変えようが個々が許容できる範囲は個々に自我があるうちは変えられないのだ。
どうしようもないものだってある。
それはそれ、これはこれ。
ケースバイケースってやつだ。
それを踏まえたうえで、僕はやっぱり苦労にお金を払おうとは思わないし、跳梁跋扈から艱難辛苦に至るまで楽しんじゃったほうが生きやすいだろうにと思ってしまう。
しなくていいならしない方がいい――というのは極端すぎる惰性だろうが。
僕は僕の持論とかよ子さんの持論を擦り合わせながら、未だに「だからね、それでね」と話を連ねるかよ子さんの話にぼんやりと相槌を打つ。
――どうせ辿り着く道なりと結果が変わらないのなら、試練的にもがき苦しんで進むよりも、娯楽的に受け入れて踊った方がいいじゃないの。
ぴくりとも変わらない表情のまま、かよ子さんは言う。
「――皆がそうすれば、とても素晴らしいのにね?」
その言葉と笑顔に、僕は何も返さなかった。
ゆるしいろの喧騒(弐)
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