短編集
競 琴梅
したたる白昼夢
「そうか、ふむ。ちょっと難しい話をしようか」
俺がその人と出会ったのは、偶然だった――とはとても言い切れなかった。
その日――とある猛暑日のこと、真夏の午後十二時半の、人気のない公園でのことだった。
しかしながら、人気がないのは何も今に始まったことではなくて、片田舎の、都会を夢見る不良学生がいきがっているような辺鄙な僻地の、さらには平日の真昼間なんていうものは、どこも閑静なものなのだ。
俺は学校をサボっていた。
理由はとくに、ない。ただ、行きたくない、それだけ。
運動部に所属したら?と言われそうな――実際何度か親に「運動部かせめて筋トレでもしなさい」と言われたことがある――筋肉のないひょろりとした腕を膝につけて顎を支える。石でできたベンチは雨風に晒されて綺麗なものではなかったけれど、気にはならなかった。
蝉の声が煩わしくなってきて、こめかみから顎に伝う生暖かい汗を拭うと、ふいにため息が零れた。
――うわあ、やだやだ。思春期にありがちな鬱っぽいやつ?
こんなふうに思案に暮れていても、何も意味がないことくらい分かっているのに。あほらしい――あほらしいと分かっていても、ここから動く気には、なれなかった。
これは本格的に――悩ましい。
背もたれのないベンチで猫背になって皮肉を垂れていると、真上から見下してきていた太陽を〝何か〟が遮断した。それは真昼間という時間帯のせい珍妙に象られて見えたけれど、視線の先に映るブラウンの革靴のおかげで人影――それも男性のものだと分かった。
「やあ、こんにちは。元気かい? どうも私の老いた眼球には君がとても気落ちしているように見えたのだけれど――違ったかね?」
気怠く落ちていた首をゆっくりともたげて仰ぎ見ると、そこにはやっぱり男が――ひょろりと線の細い男が、腰をかがめてこちらを覗き込む出で立ちで立っていた。
見上げた男は黒いスマートなスーツを身に纏っていて、片田舎の、そして真昼間の市民公園にはあまりに不釣り合いだった。左手からまっすぐ伸びる杖も、然り。後ろで結えられた白髪と細める度に目尻にできる皺、少しかさついた唇、初老――くらいだろうか。もっと若かった申し訳ないが。
「誰、ですか」
「あはは。私は暇なおっさんだよ。こんな時間にこんなところにいる学生に話しかけてしまうくらいには暇人だ。それ以上でも以下でもないが、そういう君は?」
「俺は.......」
「君は?」とおっさんは体勢を変えずに俺を覗き込んだまま答えを待っている。
「ただぼうっとしているだけの、全部全部投げ出しそうな――傍観者、てところかなあ」
「――へえ。高校二年生のことだから〝対ヒューマノイドインターフェース〟だとか〝孤高の天才〟だとか言いそうなものだと予想していたんだけれど、君は達観しているね。それとも無知なのかな? まあいいや、ところでその生真面目なネーミングセンスの理由はなんだい?」
「はあ? なんで見知らぬうろんなおっさんにそんなこと言わなきゃなんないんすか?」
俺の最もな指摘(本当はもっと突っ込むべき所はあったが)なんて意に介さない様子で「それは私が暇だからだよ」と、さも当たり前であるように――最も正しそうに、おっさんは宣った。「いいじゃんいいじゃん」と崩した口調で微笑む。それは、緩んだ皺をまったく気にしていない、屈託のない柔らかなものだった。
――おかしな話だ、と思った。
まず、すべてが――おかしな話だった。
おじさんがいきなり話しかけてきたことも、あまつさえ、俺が自分を傍観者だと〝素直に〟表現したことも。
ならばいっそこのままおかしな話にのるのも――悪くないかもしれない。
俺は「仕方ないなあ」と口をにんまりと横に広げた。
「まあ、座って話そうよ。おっさん」
おじさんは「あはは」とにくしゃくしゃに顔を緩めて笑った。俺を覗き込んでいた体勢を――腰が痛くなりそうな体勢を――まるで針金を扱うみたいに伸ばして、杖を両手で支えたかと思うと、高そうなとろみのある光沢を放つブラウンの革靴で華麗にターンを決めて魅せた。そのままベンチにすとん、と腰を下ろす。気障ったらしい行動だ。尾てい骨痛そうだし。
「座ったよ。さあ暇潰しを続けよう。先程の君の答案についてなんだがね」
「なんで傍観者だなんてほざいたのかってことですよね。まあいいっすよ、俺も暇潰しをしようとしてたところだったんで。実を言うと潰しきれなくて持て余してたんですよ、暇」
「それはそれは。手助けになれたなら幸甚だよ」
赤いTシャツの上から長袖のシャツを羽織り、わざわざ肘まで捲っている若者スタイルの――さらには制服姿である俺と、かたや、ダンディーな細身のスーツを着こなしたおっさんが公園の端にある石造りの粗末なベンチで肩を並べている。正午過ぎ。なんてシュールな光景だろう。
俺は猫背のまま、どこでもない――どこか前を映しながら、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と話し出した。
「どこの学校にも変わらずあるじゃん。おっさんの時代にもあった?〝いじめ〟っていうんだけどさ。でね、うちのクラスにも勿論あって、不運なことに――いや一番〝運が無かった〟のはあいつか。今のターゲットが、俺の友達なんだよ」
「いつの時代も変わらないものは迫害やいじめなんだね、耳が痛いよ。悪を一つに纏めることでそれ以外の〝善〟が仲良くなるという算段、戦法、本当に人間は進化しない」
「そ。それでさ、皆でいじめてたんだけど、ある時にそいつが言ったんすよ」
――僕が一体何をしたんだよ、僕と仲が悪かった奴が僕と喧嘩をするのなら分かる。でもお前らは関係ないだろ?!
――善意を盾にして、無茶苦茶なことしてんなよ!
「確かに、むべなるかなだ。実に筋が通っている」
「俺もそう思ったけど言わなかった。自分がああなるのは嫌だったし、正直どうでもよかったんだ。でも――どこかでそいつのことを煙たがっていたし、仄聞したところのそいつはすっげえ性格が悪いらしくて、俺と話してた時も影ではそんな悪いことを考えていのかよ、じゃあいじめられても仕方がないんじゃねえの?って思った」
「君は、そいつが嫌いなんだね」
「いや、別に嫌いでは.......」
「じゃあ好きかい?」
「そんな極端な選択しかないのかよ」
俺は眉間を軽く寄せた。生まれつき色素の薄い長い前髪の間からおっさんを盗み見る。日差しを背にして陰る右からの顔には笑顔がずっと張り付いていて、ちょっと不気味だった――いや、こんな時間にこんなところにいるのだから、ちょっとどころではない、めっちゃ不気味だ。
蝉がやけに煩わしげに叫んでいて、風速1メートルもないような微風が細っこい白樺の葉を揺らしている。ゆっくりすぎる時間軸、車の音がまったくしないアスファルト、熱を帯びだした石のベンチ。周りに意識を向けたら、どっと暑さが首筋を伝った。
今の会話を咀嚼する。とどのつまり、おじさんは極端なのだ。好きじゃなければ全部嫌いだなんて。世の中には〝普通〟という素晴らしく汎用性のある言葉があるのだから、一か十かみたいな質問をしないでほしい。返答に困るだろう。普通、どっちでもない、グレーゾーン。うん、いい言葉だ。
「――普通だよ? なんとも思っていないし、関係ないって思ってる」
「いじめられていようがいまいが、関係ないというわけか。ふうん。だがしかし少年、それは――答えではない」
「はあ?」
「君に関係がないものとは、すなわち、君に関していない全てのもののことだよ。友人であろうが、知り合いであろうが、嫌いな相手だろうが、君が関与していなければそれは、関係ないんだよ。だからここでいう〝関係ない〟は君が見ているもの全てを指すのであって、君が友人に対しての――いじめられている友人に対しての返答としては不適切だ」
「いやいや、俺が言うのも烏滸がましいけれども、友達がいじめられてたら、そりゃあ関係なくないって思わなきゃじゃん」
「そこで話を戻そう」
――人の話をまともに聞けこのジジイ。
「いいかい、君は傍観者と言ったがね、それは違う。だって君は後ろめたいと思っているのだから」
おっさんは上品なあめ色の杖をくるり、と回した。ずっと盗み見ていた横顔とかち合う。こちらを向いた彼の目は、俺と同じような色素の薄い色をしていた。違うところは、その目が優しく輝いていることだろうか。
あたりまえみたいに――言う。
うしろめたい――という。
たしかに、うしろめたいとは思っている。
傍観者は加害者と同じ。
見ているだけの――罪。
けれど、助けようとは思えなかった。考えられなかった。俺は臆病だから、いじめられる自分がやけにリアルになって浮かんできて、見て見ぬふりをしてきた。
絶対悪が必要だって分かっている、達観したフリをして。
それが間違いだった?
助けて、俺がいじめられるべきだった?
「そうかもしれないけどさ、俺だってその時はいっぱいいっぱいだったんすよ。人なんて皆、まずは保身的なものでしょ?」
つむじまがりなことを言っているくらい、自負している。
どうしたらよかったか、なんて今更考えてみたりして、だんだん煮詰まってくると俺が悪かったんじゃないか、友達なのに、なんて今更思い始めて、でも、俺は何もしていないんだから、アイツなら強いから大丈夫だろ、なんて心のどこかで否定したりなんかして。馬鹿みたいにひとり攻防をしたりして。
ぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐる。
「だいぶ思案に余っているようだねえ、少年」
おっさんは杖をくるくると回しながら、やっぱり「あはは」と笑っている。
「そうか、ふむ。ちょっと難しい話をしようか」
おっさんが膝ごとこちらに向く。くしゃくしゃの目尻の皺が俺をひどく安心させた。
「人間の選択というものはね、誰が発端であれ、誰の受け売りであれ、選択をしたということに変わりないんだよ。人がそう言っていたからといって、正しい選択とは限らない。それがどんな先人であってもだ。
例えばその選択が間違いで、本当は免罪、そいつは悪くなかったとしよう。しかし、君はそいつが最低な奴だ、という選択をした。そしてそれを誰かが言っていたからだ、と説明した。だがね、君はもう選択をしたんだよ。その解答が正しかろうと、間違いだろうと、君がそいつを悪い奴だと判断したんだよ。
それはもう、君の意見。君の判断で君の答えだ。
間違いだった時、君は対処の仕方を知っているかね? あまつさえ。対処なんてものができるのかね? 知らないし、できないだろう。君は保身的になり過ぎて、噂こそ正しいと過信していただけなのだから。過信したかっただけなのだから。君の意見、判断、回答――そして願望ではあるけれど、君の意思はそこにはないのだよ。まさに集団心理ってやつ。君の疑問、君の悪意、君の記憶はそこには刻まれない。
そして結局は、意思のない決断をして、都合の悪いことがらは投げ捨てる。自分の意思で自分の解答を導き出せないような選択なら、しないほうがましだろう。
君が今のように考えを詰まらせた末に出てきた解答ではないのなら、白紙で出すべきだ。違うかい?」
面立ちこそ、絵本に出てくるような柔らかな微笑みを称えたおっさんだけれど、声色こそ、声優を宛がったみたいに掠れたそれだけれども、白髪の間から揺れる喉仏は、いやに現実染みている。
辛辣だ。長ったらしい理屈をまさに長々と語り、俺の葛藤を否定し、あまつさえ同意まで求めてきた。
なんて奴だ。人の話は柳に風のくせに。
おじさんは一拍おいて、またつらつらと俺を置いてけぼりにして話し出す。
「選択とは、選択をしないという選択を捨てるということだ。逆に、選択をするという選択をしたのだよ。選んだそれはもう、君のものだ。君の価値で君の財で君の善で君の正義で君の意思で君の思いで君の罪で君の悪だ。間違えた決断を迫るつもりは、私は毛頭とない。未来で後悔する前に正そうだなんて、そんなことをしようとも、思わない。しがない老い耄れだからね。しかしだね、少年。もっと〝今〟に慎重になりたまえ。来年、来月、明日、どうなるかなんて分からないのだから」
俺は睨まれていた。笑顔で、柔らかな雰囲気に睨まれている。首筋に汗が伝う。急に時間が止まったような気が――した。
まあ、そんなことは本当にはありえないのだけれど、もののたとえというやつで、緊張が張り詰める。蛇に睨まれた蛙とはまさにこのことか、なんて外れたことを考えた。
おじさんは何も喋らない。表情筋をくしゃくしゃにしながら、微笑んでいる。俺は真顔のまま、変わらずそれを仰ぎ見ていた。茹だる暑さのなか、どんどんと折れ曲がる猫背を、ぴん、と正す。
今、何かこの人と話をしなくては――
そんな使命感にかられた。
「俺はじゃあ、どうしたらいいんですかね.......」
本心からだった。まるで何の建前もない――俺の弱い本心。
おじさんは俺と正反対の感情を表現していた。おじさんは、笑っていたのだ。
「いじめに立ち向かうだなんて素敵だね、映画のヒーローみたいじゃないか」
「茶化さないでくださいよ.......」
「ほほほ。聞きたいことは分かるがね、君が考えることなんだよ、それは。君が今、頭をぐるぐると馬鹿みたいに回して考えるべきことだ。私はしがない老人でしかないらね、たいそれたことを申し上げようだなんてつゆほども思っていないよ。夢でも思えない。だから私が言えることはただひとつなんだ――」
■■■
その日、とある猛暑日だった日のこと、真夏の午後十七時の、人気のない公園でのことだった。しかしながら、人気がないのは今に始まったことではなくて、片田舎、都会を夢見る不良学生がいきがっているような僻地の、さらには平日の夕方なんていうものは、どこもそんなものである。
俺は学校をサボった。
理由はとくに、なかった。ただ、行きたくなかった、それだけ――
いや、それだけでは、ないんだけれど。
石造りの質素なベンチはひやりと冷たくなっていた。通勤帰りの車が道路をひっきりなしに行き交っている。怠くだらしなく着崩した制服をはためかせて、俺は立っていた。膝の後ろに硬いざらざらとしたベンチの感覚が残って、感傷に浸らせてくれない。
「進まないと、戻れないーーか」
おっさんは最後まで答えを言ってはくれなかった。そのかわり「絶対に大丈夫だと私が保証してあげよう。だから、思うように行動したまえ、いいかね、一番いけないことは止まることだ」と笑ってくれた。また会おう、とも。
去っていくおっさんのだらけた足取りは、どか近しく見覚えがあった。似合わない剽軽な喋り方の端々に垣間見得る砕けた口調、色素のうすい茶髪まじりの白髪、くしゃくしゃだったけれど切れ長の眼。誰かに似ている。
そう、おかしな話だった。
考えれば最初からおかしな話だった。
さらりと俺を高校〝 二年生〟だと零した時から、それはなんとなく、疑問には思っていたが。
そうか――
あのおっさんはーー俺だったのだ。
「明日から、進んでみよう」そうしたら、何か変わるかもしれない。改善されなくても、大きくかわらなくても、いい。ちょっとずつでいい。
大丈夫、俺が言うのだから。
俺が――思うのだから。
俺はは、やっとひたひたと浸水してきた感傷ついでに考える。
傍観者も加害者、なんて常套句を言うわけではないけれど、もう、否定もできない。人間はまず、嫌悪を抱いて他人と接するからだ。保身的な行動、傷つかないための予防線。期待をして、外れた時に自分勝手に裏切られたと思わないように、という優しさ。そのままの延長線上で流れ込んできた噂だとか印象だとか、真偽の分からない情報が構成されていった成れの果ての感情は、自分自身の知らぬ間に〝嫌い〟へと形成されていくのである。
そうしてそうして、傍観者の目(目は口ほどにものを言う、というけれども)は冷めて柔軟性を忘れていくのである。
――そこに優しさなどなく。
表立つ前に、裏切ったものだけが残る。
「なるほど」
なんだかすっきりしていた。
最高の気分だ。
俺は思う。あんな風に言ってたけれど、おっさんは俺を諭すために来たんじゃないかと。きっとそうかもしれない、いや、そうに違いない。
将来の俺は、この決断にとても悩んで、後悔したのかもしれない。それか、後悔するべきだったと後悔したのかもしれない。
それならば、せっかくのお膳立てだ、諭されてみるのもいいだろう。
反抗期に少しだけ休止符を打ってあげてもいい。
もうすぐ夜が来る。おっさんと話した白昼夢みたいな一時間からずいぶんと経つ。なんとなく笑えてきて、俺は俯いて〝にんまり〟とこらえずに笑った。
「なんか変な日だったなあ」
end
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます