泣いて縋れと願った
朝霧
意味が分からない
私は遠からず死ぬ。
その時に誰かが大損してくれるような未来が訪れてくれれば、幸いだ。
偶然見つけた遺書らしきものの始まりは、そんな言葉で始まっていた。
覚えのある細い筆跡のその文字列を見た直後に、口の中いっぱいにあの血の味が広がって、口を押さえてうずくまる。
あれ以降、何も口にしていなかったせいで、吐き出されたのは胃酸ばかりだ。
饐えた味に気が狂いそうになる、いや、もうとっくに狂っているのだろう。
あの道化が死んで、もう何日が経っただろうか?
それすらもうわからない。
だが、飢えがひどく苦しいものになってきたから、きっとそれなりの時間が経っているのだろう。
腹が空いた、空っぽの胃が苦しくて、痛くて痛くて仕方がない。
それなのに、もう何かを食べる気が湧いてこない、何日か前に少しだけちぎったパンを口にしたが、それもすぐに吐き出してしまった。
まるで呪いのようだった、あの道化はきっと地獄で今の自分を見て笑っているのだろう。
あの道化は、同じ主人に仕える同僚だった。
どうしてあの女があの男に仕えることになったのかは知らない。
ただ人喰いの獣の血が混じっている自分と同様に、日の光が当たる場所では生きられない後ろ暗い理由があって最終的にあの場所に辿り着いたのだろうと推測している。
あの女は何が面白いのか、常にニコニコと楽しそうに笑っていた。
主人の癇癪に巻き込まれて殴られている時には流石にその笑みは消えていたが、気が済んだ主人の姿が見えなくなると再びニコニコと笑みを浮かべ始める。
不気味な女だと思っていた。
だから、あの女が現れてからしばらくは関わらないようにしていた。
誰もがあの女のことを不気味だと厭悪していたようで、誰もあの女に近寄ろうとはしなかったし、誰一人味方になろうとする者はいなかった。
それでもあの女の顔から笑みが消えることは、なかった。
吐き気がやっとおさまってきたので、遺書らしき手紙に書かれていた最初の文について考えてみる。
もう一度あの字を目にしたらまた吐きそうな気がしたので、ひとまずは思い出すだけだ。
遠からず死ぬだろうと書いてあった、それは確かに的中していたが、何故あの道化は自分が死ぬ事をわかっていたのだろうか?
……いいや、きっとあの死に方は想定外だったのだろう。
おそらくは、自分の意思で自らの命を断つつもりもりだったのではないだろうか?
吐き気と目眩、先程よりは軽いものだったのでもう少し思い出す。
自身が死んだその時に、誰かが大損すればいいと書いてあった。
意味がわからない、あの道化はそんな事を言うような女ではなかった。
むしろ笑いながらこう言う筈だ、私が死んでも誰も損なんかしないから気が楽だよ、と。
胃がキリキリと痛む。
あの日喰らい尽くしたあの道化の右手の細い指先が、自分の胃を掻き毟っているのではないかとも思ったが、すでにこの胃の中は空だ。
だからそれはただの幻覚だ。
痛む腹をさすりながら、もう一度言葉の意味を考えてみる。
死んだ時に、誰かに損をしてほしかった。
あの道化は、何かを恨んでいたのだろうか?
あの道化が恨み憎みそうな人物を何人か知っているが、それでも誰も憎まず誰にも怒らず笑っていたのがあの女だ。
頼むから泣いてくれとすら思ったこともあるにはあるが、それでもあの道化はただ笑うだけだった。
それにあの時あの道化は確かにこう言ったのだ、誰かを恨んだり憎んだりする理由は私にはない、と。
ならば何故、あの言葉は嘘偽りだったのか?
意味もなくあの道化は自分に嘘を吐いたのか?
いいや、いいや、それは考えにくい。
このまま考え続けても、きっと正しい答えには辿りつかないだろう。
右手に掴んだままの紙切れの、続きを読むしかないのだ。
目眩に耐えながら、紙切れに書かれた文字を追う。
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