第206話   ベニヤンクの鳳

 悪い報せは、いつだって突然だ。

 エリックやセシリアを交え、マリエンヌからの手紙を囲んで楽しく会話をしていたところに、円卓にいるはずのロジェ先生や学生たちが、転がるように走りこんできた。 

 

 「エリカ殿・・・今・・・委員会から・・・マリエンヌ嬢が・・・」


 息が上がっているロジェ先生が荒い息の中、凶報を口にした。


 「マリエンヌ嬢・・・が昨夜・・・拘留先で・・・自害したとの報せが・・・」

 

 私の耳と脳は、ロジェ先生の言葉の意味を理解することを全力で拒否した。

 ただ、鼻頭を拳で力いっぱいに殴られたような衝撃だけが広がる。


 「どういうことだ」


 エリックが血相を変えて立ち上がり、ロジェ先生に詰め寄る。


 「分からない。ただ昨夜・・・マリエンヌ嬢が自害に及んだと・・・それだけ通達された」

 「そんなはずはありません。マリエンヌ様が自害などと。誰が信じるというのでしょう。お手紙にも、次にお会いできる日を楽しみにしていると書いてありました」


 セシリアも同じように詰め寄る。

 私は動けない。

 体に力が入らない。指一本動かすことも出来なかった。


 「私が一番・・・信じられぬ。あり得ないことだ。先日お目にかかったばかりなのだ。詰めかけた民衆も騒ぎだし、今、円卓は騒然としている。委員会は、よりにもよって近衛軍団の兵まで繰り出して、集まった民衆を抑えにかかっている」

 「なっ、近衛軍団ですと」


 エリックの顔から血の気が引いた。


 「そうだ。言うまでもないが、王家直属の軍団兵たちだ」

 「そんな」


 セシリアの絶望の叫びを聞き、私は内臓の力が抜ける感じを、生まれて初めて味わった。

 生きる意欲が全身から流れ出す感覚。

 私からあらゆる望みが消え去っていく。

 それを成すすべなく、傍観者のように眺めていた。


 「嘘よ」


 ただそれだけが、口にできたことだった。


 「私も信じられません」

 

 ユリアが泣きそうな声を上げ、エリックは罪のないロジェ先生を詰問する。

 

 「それで、委員会からの説明は」

 「ない。何もない。何もないのだ。ただ、自害したとだけ」

 「そんな馬鹿な話があるのですか。誰が信じるというのだ」

 「無論、誰も信じてなどいない。委員会がマリエンヌ様を無理やり自害に追い込んだか、直接手を下したか。いずれにせよ委員会の仕業に違いない。いや、委員会の後ろに控えている勢力の仕業だ。近衛軍団が動員されたとなると・・・」


 ロジェ先生が途中で言葉を切ったが、何が言いたいのかはわかる。黒幕は王様かもしれない。


 「なんてことだ。だからと言って、どうして殺す必要があるんだ。マリエンヌ様は陰謀とは無関係なのだろう。意味が分からない」

 「シンクレア卿。情けない話だが、これが・・・これが王都なのだ」

 「これが王都・・・」

 「そうだ。王族や大貴族といった魑魅魍魎共が、影に日向に蠢く。それが、王都エンデュミオン。貴方の平穏な領地とは違うのだ」

 「だからといって・・・」


 ロジェ先生の剣幕にエリックが絶句する。


 「わが身の不甲斐なさを言い訳するつもりはないが、そもそも謀反人の裁判で、無実が明らかになることは滅多と無い」

 「それは聞いていた。しかし、今回は違うのでしょう。エリカや先生の力で、どうにかできたのでは」

 「私もそう考えていた。陰謀の首謀者ではなく、その家族の弁護だったからな。こう言っては何だが、マリエンヌ嬢にそこまでの政治的価値があるとは思っていなかった。しかし、甘かった。まさか、まさか、ここまで強硬な手段に出るとは。どこで見誤ったのか」

 「なぜ」

 「シンクレア卿は騎士になって日が浅いから分からないかもしれないが、貴族どもは時にこのような暴挙に打って出るのだ。そしてこのような暴挙は、決して珍しいことではない。珍しいことではないのだ」

 「だからなぜだ。なぜそこまでする」

 「私の知ったことか。マリエンヌ嬢を手に掛けた、奴らに聞け。どうせ自身のしがない権威と権力を守るためであろう。地を這う虫にも劣る連中だ。人の形をした魍魎だ」

 「そんなことで無実の娘を殺すのか」

 「そうだ。罪があるかどうかなどは些細なことなのだろう。奴らにとってはな」


 そう吐き捨てるとロジェ先生は椅子に座り込んでしまった。エリックとセシリアは呆然と立ちすくむ。


 私は他人事のようにそれを見て、どこか納得したような気持になった。

 何のことはない。

 私たちは負けた。

 いや、負けたのは私一人だけ。


 最初から委員会が、法の下に正義を司っているとは思っていなかった。この裁判が貴族たちの政治闘争だということも、何度も聞かされていた。

 政治闘争。権力争い。

 そんな事態に、私ごときに何ができるのだろう。

 日本での知識も、この世界で勉強した事柄も、なぜか発現した魔法の力も、何の役にも立たない。

 そう、役に立たない。

 何もできない。

 ここまで来られたのは、周りの人たちに助けられたから。

 公判の維持はロジェ先生やマールたち学生に。裁判の費用はエリックが用立ててくれた。身の安全はセシリーの家が。

 私は何もしていない。

 私はただ我儘を言って、皆を困らせただけだ。

 かつてコルネリアが私に尋ねた。

 本気なのかと。

 私は本気と言った。本気で戦うと。そこに偽りはなかった。

 マリエンヌを連座制の枷から解き放つと。

 それは、私の戦いだと。

 では私は誰と戦っていたの。


 十人委員会か。

 違う。


 貴族社会か。

 違う。


 法律か。

 全然違う。


 連座制か。

 これも違う。


 私は、この世界と戦っていた。この理不尽と戦っていた。この世界の人々が持つ、意識と無意識を敵として戦っていた。

 それらは決して目に見えるものではない。

 私は目に見えないものと戦っていた。

 だから、ただの一般人でしかない私に太刀打ちできる相手ではないと、初めから理解していた。

 頭のどこかで。

 予想外に善戦できていたけど、それは運が良かったのと、助けてくれたみんなのお陰でしかなかった。私の力ではなかった。

 初めから勝敗は分かりきっていた。

 私にマリエンヌは救えない。

 私に運命は変えられない。

 この世界、この理不尽には抗えない。

 ただ、押しつぶされていくだけの矮小な存在なのだと。

 どこかで、そう理解していた。初めから。

 だから、不思議なほど冷静で、エリックのように怒りの感情も湧いてこない。怒る気力さえ消え失せた。


 何のリアクションを見せない私に皆が声を掛ける。

 大丈夫かと。

 大丈夫ではない。

 叫びたい。泣き叫びたい。

 出来ることなら、今から円卓に乗り込んで委員会の連中を締め上げたい。竜巻の魔法ですべてを薙ぎ払いたい。

 でも、心のどこかで、この結末を納得している自分がいた。

 そうよね。仕方ないわよ。

 私ごときが貴族に歯向かって勝利するなんて、虫のいいことが起こるわけがなかった。

 円卓でマリエンヌの無罪を勝ち取って、みんなで万歳するなんて、ハリウッド映画のラストシーンよ。

 そんな都合のいいことが、現実に起こるはずもない。

 現実はいつだって理不尽だ。

 それは、日本にいたときから変わらない、この世の真理。

 そんな無力な私にできることは一つだけ。


 「ロジェ先生」

 

 肩で息をしているロジェ先生が、顔を上げる。

 その瞳は怒りにたぎっていた。

 私は今どんな顔をしているのだろう。


 「なんでしょう」

 「マリエンヌの遺体を引き取りたい。せめて丁重に葬ってあげたいんです。どうすればいいですか」

 「エリカ殿・・・」 


 この時に先生が見せた表情を、私は一生忘れないだろう。

 忘れられないだろう。


 「分かりました。直ちに交渉に移ります。追加の資金を投入してもよろしいか」

 「この期に及んで何を惜しむべきか。違いますか」

 「心得た」


 ロジェ先生は急ぎ足で部屋を出て行った。

 部屋が一瞬静かになり、私は立ち上がろうと椅子の肘掛けを握りしめる。

 よろける私をエリックが支えてくれた。

 エリックの腕にすがり視線を上げると、マリエンヌから送られた水鳥の刺繍が目に飛び込んできた。


 ベニヤンクの鳳(おおとり)。


 正義を体現し邪悪を払い、幸運を呼び込む不死の鳥が私を見据える。

 お前は何をしたのかと。

 私は答える。


 何もしなかったわけではない。ただ、何もできなかっただけ。邪悪を払い、幸運を呼び込むことができなかっただけだ。


 お前は正義を成したのか。

 正義を成したつもりでいた。


 お前の正義は、なんだ。

 私の正義は、罪のない人は裁かれないこと。ただ、その一点のみ。


 その正義のためにお前は何をした。

 大金を投じて、優秀な人材を集め、それでも足りない。お前は何をした。

 王都の吟遊詩人や役者を集め、マリエンヌに有利な世論を作ろうとした。


 そうだ。何も知らない、陰謀に関係ない人々を煽り焚き付けた。

 それは、たたの情報操作。大衆扇動、アジテーションと何が違う。それがお前の正義なのか。


 私は刺繍が発する問いに、何も答えられなかった。

 不思議なまでに悲しくはない。ただただ悔しかった。

 自分自身の無力と無能と、無慈悲な世界が。



                 続く

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