第90話 糧食
オルレアーノの邸宅で、夜もろくに眠らず執務室で指示を出していたフリードリヒの元に朗報がもたらされた。
「申し上げます。ニースより魔法使いの方が到着いたしました」
報告書を読みながら片耳で聞いていたフリードリヒの顔が跳ね上がる。
「何だと。今どこに」
「玄関でダンボワーズ様が挨拶を受けておられます。こちらにお通しいたしますか」
「無用」
フリードリヒは眠気が吹き飛んだように立ち上がり部屋を出る。その後に三人の側近たちが後に続いた。
急ぎ足で玄関に向かうと白い外套に身を包んだ二人の女が、ダンボワーズに挨拶をしていた。
蒐でも見た。二人の魔法使いの戦装束だ。間違いない。
「エリカ。コルネリア殿」
フリードリヒは持ち前の良く通る声で、呼びかける。
何という速さであろう。エリックに厳命したのは昨日であったというのに、もう到着とは。ニースはそんなに近くの村だっただろうか。
走り出したい欲求を何とか抑えて二人の傍らに寄った。
「よく来てくれた。エリカ。それに、コルネリア殿も。随分と早い到着だな。感謝する」
「いえいえ、これでも一応一門の端くれですから、それよりもセシリアが心配です。無事なんでしょうか」
黒い瞳が真っすぐにこちらの目を見てくる。
そうか、妹が心配で来てくれたのか。
フリードリヒのような高貴な人物の瞳を直接見つめ返すことは、本来無礼な行為であるが、エリカの瞳にはそれらの作法をねじ伏せるような強さがあった。
「まだ、詳しい事は分かってはいない。だが、心配ないだろう。父上が無事にランドリッツェの砦までお退きになられている。一緒にいるだろう」
「そうなんですね。それで、いつ出発でしょうか」
エリカが更に半歩身体を前に出す。
「頼もしい言葉だ。軍勢が整い次第すぐにでも出る。後二、三日と見込んでいる。それまで英気を養ってくれ」
「はい」
「お二人には部屋を用意させよう。おい」
背後の側近に命じようとすると、意外にもエリカが断りを入れた。
「いえ、お気遣いなく。我々は自分の店に滞在いたします」
確か街に砂糖の店を出していたな。そこに滞在すると言う事か。
「そうか、好きにするがよい。来援感謝する」
「では、これで」
一礼するとエリカは下がっていった。
「エリック。よくやった」
二人の傍らに控えてたエリックを称賛してやる。当初はエリカの参戦を渋っていたが、命令を成したことは褒めるべきことだ。
「はっ、せっかくのお言葉ですが、お受けする訳には参りません」
しかし、エリックは折角の褒詞を浮かない顔で断った。
「ん、なぜだ」
「いえ、私が説得するまでも無く、二人とも援軍としてこちらに向かっておりましたので、お褒めの言葉を頂く訳には」
その生真面目さに、笑いが零れた。
それで、到着がこれほど早かったのか。合点がいったわ。
「お前は正直者よな。そこは黙して自分の手柄とばかりの顔をしておればよいものを」
「コルネリア様のご助力も、エリカの要請にございますれば」
「分かった分かった。其方には二人の世話を命じる。戦仕度、抜かりなく揃えておけ」
「はっ」
下がっていくエリックを見て、奴の父ブレグを思い出した。
あの男も、嘘の付けぬ律義な男であったな。やはり、親子かよく似ていることよ。
若殿に挨拶を終えた江莉香は、その足でコルネリアと共に砂糖の店に向かった。
エリックはなにやらフスに呼ばれているらしくドーリア商会に向かう。戦争関係の難しい話はエリックやロランのような専門家に任せておけばいいし。出発までは店でゆっくりしよう。
「ああ、エリカ様。どうなっているのでしょうか」
「大丈夫よ。もうすぐ、援軍が出発するからなんとかなるわ」
裏口から店に入ると、店員さんたちが心配そうに駆け寄ってきたので、なだめて回る。
「お店はどう」
「はい。ほとんど、誰も来ません」
店にはお客さんは誰もおらず、店員さんも手持ち無沙汰だ。
「そりゃ、そうよね。甘い物どころじゃないわ」
砂糖の貯蔵庫を除くと、前回運び込んだであろう備蓄が豊富に並んでいる。
腐る心配はないから保存は問題ないけど。
台所の椅子にコルネリアと共に腰かけると、飲み物のとビスケットが出てきた。
「ありがとう」
気が利くわねと思いながらライ麦のビスケットを口にする。糖蜜がたっぷり塗ってあるので甘くておいしい。
当初は村で作って運んでいたが、最近は糖蜜を運び込んで店で作ってもらっている。
あんまり売れないけど。美味しいと思うんだけどな。何がダメなんだろう。やっぱり砂糖専門店と言うイメージが先行しているからか、お菓子を買おうという発想に至らないのかもしれない。
「エリカ。これは、どれぐらい持つのですか」
向かいの席で同じようにビスケットを口にしていたコルネリアが問いかける。
「これ? うーん。どれぐらいかな。十日ぐらいかな」
深く考えずもう一つ口に放り込んだ。
「エリカ様。しっかりと包んでおけば二十日は持ちますよ」
ビスケットを用意してくれた店員さんが教えてくれた。
「そうなんだ。結構長持ちよね・・・うん? 」
手にしたビスケットを食べもせずに、じっと見つめているコルネリアに戸惑いを覚える。
「エリカこれを沢山持っていきましょう。そうしないとライ麦パンの毎日ですよ」
「なんでよ」
江莉香の眉が跳ね上がる。
「兵糧は基本、ライ麦パンが支給されます」
「うえっ」
コルネリアの言葉に飛び上がる。
こちらの世界でどうしても口に合わないものがある。それがライ麦パンだ。
日本のベーカリーで売っているような、素朴な味わいがら健康に良さそうなライ麦パンとは違い、こちらのライ麦パンは、硬い、酸っぱい、ぼそぼそしていると、風味、食感、後味と全てが完壁なまでの不味さで構築されている。飲み込むのに大変苦労する食べ物なのだ。
パンはふんわりトーストにピーナッツバターが大正義という、現代の美食に驕った江莉香にはとても口に合わないものだった。
酸っぱいパンなんてパンとは言いへんわ。
同じライ麦から作られるのに、どうしてこんなに違うのか。
蒐ではセシリアと同じ待遇を受けていた為、食べ物には恵まれていた江莉香であったが、戦場で同じ待遇は夢物語だ。
「よし。作ろう。どうせ、お客さんもいないことだし。すいません」
店員さんを集めてビスケットの大量生産をお願いする。糖蜜が無くなったら代りに砂糖を生地に練り込んでと伝えると驚かれるが、味付けにも防腐剤としても優秀な砂糖。使わない手はないわ。
人をやって材料を買え揃え、みんなで生地練って、いざ、焼く段になって気が付いた。
オーブンが小さい。
元々、取り付けられていた一般家庭用のオーブンをそのまま流用しているので一度に焼ける量に限りがあった。
「よし。他に焼いてくれそうなところ探してくる」
手に着いた粉を払うとドーリア商会に足を向け、気が狂わんばかりの忙しさの中にあるフスから、商会のオーブンと人手を無理やり借り受けた。
こうして、江莉香は行軍中の快適な食生活のために大量のビスケットを作り始めた。
材料はライ麦に同量の小麦粉、卵に塩と油、全て街で手に入る物ばかりだ。砂糖は店にある分すべて投入しよう。どうせ、戦争が落ち着くまでお客さんも来ないことだし。
とにかく、ライ麦パンは食べたくないのだ。
作り過ぎて余ったら、周りに配ればいい。足りないのは駄目、絶対。
用事ついでに様子を見に来たエリックは、ビスケットの工房とかした店内を見て呆れて声を上げる。
店内には袋に詰められたと思しきビスケットが小さな山になっていた。
「こんなに作ってどうするつもりだ。ビスケットの上で寝るつもりか」
「目標は泳げるぐらいの量よ」
エリックの皮肉に江莉香はさらに惚けた返事を返した。
「何を言っているんだ。ほら、頼まれていた金を持ってきたぞ」
「お金? なんだっけ」
エリックが差し出した、ズシリと重い袋を受け取って首を捻った。
「頭の中までビスケットで一杯か。薬屋で薬を買うんだろ。その為の金だ」
「ああ、そうだった。忘れるところだった」
「完全に忘れていただろう」
「じゃ、ちょっと行ってくるわね」
金袋を握りしめ、生地を練っているコルネリアに合図をすると慌ただしく店を出ていった。
「騒々しい事ですね」
「本当に、いつも通りと言いますか」
「フフッ。確かに」
エリックの言葉にコルネリアは小さく笑い、生地を練る作業に戻るのだった。その姿をエリックは珍しそうに眺めた。
江莉香はロッシュ通りを財布片手に走る。
戦争ともなればいくらあっても困らないのが薬のような医療品だ。包帯は布で代用するとして、肝心の薬はペタルダの店で揃えるのが一番だ。
店から目と鼻の先のペタルダの店の扉を勢いよく開いた。
「ペタルダさん。傷薬をありったけ、痛み止めとか胃薬もあるだけ全部」
がらんとした店内に向かって叫んだ。
「来たわね。エリカ」
奥の暗がりから音も無くペタルダが姿を現した。
「はい。戦争に必用そうな薬。全部買います」
「そろそろ現れると思って用意しておいたわ。持っていきなさい」
店の一角を指さす。そこには箱に詰められた薬が山と積み上げられていた。
何と用意のいいことか。商売人として見習わなければ。
「凄い量。ありがとうございます」
これだけの量があれば、取りあえずは安心か。それにしても多いわね。よし、運搬はクロードウィグに頼もう。
こうして、江莉香は自然と戦いに必要な糧食と医薬品を手配したのだった。
続く
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