第4話 魔導士の書
エリカが教会に言葉を習うために通うようになって二週間。
「いてきます」
昼食を終えると、たどたどしいが意味の分かる挨拶をしてエリカはエリックの屋敷を出る。
手にはエリックの用意した教会に寄進する銅貨を握りしめていた。
メッシーナ神父の都合が合う日には、欠かさず教会に通い言葉を習っている。
「エリカ。少し落ち着いてきたんじゃないかしら」
母の言葉にエリックも同意した。それまでは暗く落ち込むか、一人物陰で泣いていることが多かったが最近はそんなことも減り時折ではあるが笑顔を見せるようになった。
笑うとそれまでの印象より年若く感じた。エリックと同年代か少し下のような気がする。
エリカの語学の習得速度は速く、今では単語による会話が成立するようになった。発音や音程に怪しい部分があるがそれも日に日に上達していく。
「もともと頭がいいのかもしれないな」
エリックが薄めた葡萄酒を一気に飲み干す。
「エリカふごいんふぁよ」
隣に座っていた妹のレイナがパンをほうばりながら話す。
「レイナ。飲み込んでから話せ」
エリックはレイナの口の周りをふいてやる。
「うん。・・・・・・エリカ。すごいんだよ」
飲み込むと満を持して教えてくれる
「数を数えられるんだよ」
「数か。すごいな。どれぐらい数えられるんだ」
「すごくいっぱい」
レイナの答えに笑みがこぼれる。
「そうね。数が数えられるのは確かよ。市の日に布を買わせてみたけどしっかりと銅貨を払っていたわね」
「買い物が任せられたらだいぶ助かるな」
エリカは徐々にではあるがニースの村に馴染んできたようだ。
エリックはエリカが言葉を覚えたらやってほしいことがあった。その為に夕食後にエリカを部屋に呼んだが、エリカは何事かと警戒した様子でなかなか入ってこない。
声をかけてもしり込みをするエリカを見ていると、あることに思い当たった。
「もしかして、襲われると勘違いしているのか」
心の神殿にセシリアを住まわせているエリックはエリカをそんな目で見ていないのだが、エリカにそれが分るはずもない。
野良猫のような警戒心を露わにするエリカにエリックは自分の失敗を認めた。
「心配するな。いや違うな。大丈夫。大丈夫だ」
エリカの理解できそうな言葉を選ぶ。しかし、日暮れの時刻に男の部屋に呼ばれて大丈夫と言っても信用度は低かった。
エリックは魔導士の本を指さし。
「読む。読む」
とだけ言った。
そう、エリックは魔導士の書をエリカに読んでもらいたかったのだ。
エリックの意図を理解したらしいエリカは、明らかにほっとした表情を浮かべて部屋に入ると、本に近づいてきた。
「ここ。ここ」
机の前の椅子にエリカを座らせエリックはいそいそと魔導士の書を開く。
これで長年の謎が解き明かされる。もしかしたら本当に教会に仇なす異端の書かもしれないが、それよりも内容が知りたい。
エリックは試しに魚の絵が描かれたページを開く。
エリカは頷くと本に目を走らせていく。
エリックはエリカの横に立ち横顔を見つめる。エリカの目はいつも以上に真剣で細かく動いていた。本当に読んでいるようだ。
「なかま。さかな。とる? ちがう」
エリカは必死に言葉を発していく。神聖語をエリックにもわかるように翻訳しているのだろう。時折長いこと考え込む。
「しない。無理」
エリックとしてもいきなり読めるとは思っていない。エリカには楽に読んでほしかった。
「はい」
エリックの言葉にエリカは頷くのだった。
二人は本に顔を近づけながら読んでいく。それは、明かり油が切れるまで続いたのだった。
何日か読み解いていくとエリックの開いたページは魚の種類とその捕獲方法について書かれているらしかった。
エリックは考える。今でも沿岸や小舟を使った漁で取れた魚は、ニースで消費される以外の物を干物にしてオルレアーノの街に卸している。数が少ないので収入としては大したことがないがこの本に書かれた漁獲方法で魚を多く捕まえられないか。
よし試してみよう。
エリックはエリカを連れて港に向かう。
港と言っても桟橋があるわけではない。砂浜の上には引き上げられた漁師たちの船が並んでいる。
「若様。そちらが噂の嫁さんで」
焚火を前にした半裸の漁師たちが声をかけてくる。
「違う。女中だ」
「いゃぁ。話に聞いてたけど、随分別嬪さんじゃありませんか」
「山で拾ったって本当ですかい」
「そんな別嬪を拾えるなら、わしらも山に探しに行かんとな」
「お前が行っても熊に会うだけだ。それとも熊を連れて帰るか」
「ンなことせんでもウチにはもうでっかい熊がいるからよ」
エリックを肴に馬鹿話で盛り上がる。
言葉の分からないエリカはきょとんとした表情で見ているだけだ。
「お前たちに聞きたいことがあるのだが」
「何ですかい」
「魚の獲れる量を増やしたいんだが」
「増やしてどうするんで、村のもん全員分の数は獲れてますぜ」
「そうなんだが、村の収入を増やすためにオルレアーノの街で売ろうと思うんだ。今の量では足りなくてな」
「そうは言いますがね若様。魚の獲れる獲れないは神様の思し召しですよ。駄目な日はいくらやっても獲れないし、網を入れりゃ持ち上げられねぇぐらい獲れる日もある。わしらにできることと言えばお祈りぐらいですかい」
「いや。わたしに考えがあるんだ。それを試してみてほしい」
「そりゃ、別にかまいませんがね。なにをすればよろしいんで」
エリックは薪代わりの小枝を一本掴むと砂浜を走り出す。
なんだなんだと漁師たちが腰を上げると、エリックは砂浜に枝で何かを書いている。
目の前を走り回るエリックは遊んでいる子供の様で、漁師たちは遠慮なく笑いあうのだった。
「エリカ」
エリックが呼ぶとエリカは走り寄った。
その姿を見て漁師たちはまた歓声を上げるのだった。
エリックから枝を手渡されるとエリカは足りない部分や修整する部分を書き足していく。
書き終わるとエリックを見て頷いた。
「わかるか。こんな感じの網を作ってくれないか」
エリックの言葉に漁師たちの動きが止まる。
「若。まさかとは思いますがこの大きさで作るんですかい」
それは普段彼らが使っている網の何倍もの大きさだった。
「そうだ。できそうか」
「いや。出来るとか出来ないとか言う前にですね。こんなでかい網どうやって投げるんで」
ニースの村。いやこのあたりの漁村では網を海に投げ入れてそこに掛かった魚を引き上げる漁法だ。網が大きければ確かにかかる魚も増えるだろうが大きすぎると上手く投げられないし、また引き上げることもできない。
「投げないんだ」
漁師たちの困惑をよそにエリックは笑顔で言い放つ。
「この網で引くんだ」
ニースの村にいやロンダー王国に地引網漁が生まれた瞬間であった。
後年これは王国の漁業にとって歴史的快挙であったがその瞬間に立ち会ったものは無感動というか困り顔だった。
「若。こんなでかい網。一人じゃ引けませんぜ。二人でも無理だ」
「わかっている。全員で引くんだ」
「全員で、ですかい」
「そうだ。村の男たち総出で引けばもっと大きくても引けるはずだ」
「なるほど? 」
これまでと規模が違い過ぎて頭の中で想像できないのだろう。
「試しに作ってくれないか。材料は私が用意する」
「おい。どうする」
「どうするったって、網を編むのはかかあの仕事だぜ。うちのやつがなんて言うか」
「おい。とりあえず。呼んで来い」
年長者の一人が言うと年若い漁師が集落に走っていく。
「若。ちょっと待って下せえ」
「わかった」
エリックが漁師に向かって手を上げた。
「だいじょうぶ?」
漁師たちとの会話が解らないエリカが心配そうに見つめる。
「大丈夫。ありがとう。エリカ」
エリックがほほ笑むとエリカも安心したように笑った。
続く
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