第二章 絵本と神隠し②

 通話に出るなり用件を切り出され、さつきは少し驚いた。


「別にいいけど、どうかしたの?」


 何気なく尋ねると、航夜はわずかに声を低くする。


「依頼人が持ってきた絵本は、たぶん"忌み物”じゃない」

「どういうこと? だって、捨てても戻って来るんでしょ?」

「そう言うけど、何かが憑いたり封印されている様子もないし、呪いがかけられた形跡もない。ほんのわずかに何かが触れたような気配は残っているけど、至って普通の絵本だ。でも依頼人の話では時々、息子が誰もいないところに向かって話すことがあるらしい。それが少し気になるんだ」


 ひと息に喋るなり、「じゃあ、頼んだぞ」と通話が切れてしまう。

 入れ替わるように叔母から、淳を連れてきてほしいとメッセージが届いた。

 やむなくさつきは淳を自転車の後ろに乗せ、家を出る。

 さつきの一家が住む祖母の家から辻堂邸までは徒歩で約十五分、自転車を使えば五分ほどで着く距離だ。

 家の後ろにそびえる山に向かって、細くなだらかな坂を自転車で下る。

 坂の下の四辻を右に曲がれば、辻堂邸……航夜の家はすぐ目の前だった。

 町はずれの山際に広がる森を背にして建つ、古色蒼然とした屋敷。黒く塗られた木材と漆喰でつくられた、古めかしくも堂々とそびえる邸宅。

 自転車の速度をゆるめると、後ろに乗っている淳が「わあ」と歓声をこぼした。


「ママたち、ここにいるの?」

「そうだよ。おっきい家でしょー」


 さつきは自転車を停め、後ろに乗っていた淳を下ろす。

 どっしりと大きな黒い数寄屋門の下で、祖母が二人を待ち構えていた。


「ご苦労様。さつき、アンタ淳くんと一緒にいてあげな」


 てっきり従弟を送り届けて終わりだと思っていたさつきは、祖母の言葉に目を丸くする。


「別にいいけど、なんで?」

「淳くんも慣れないところで緊張するだろうし、従姉のアンタいたほうが少しは安心だろ」


 確かにと納得し、さつきは淳と連れたって玄関にあがる。

 中庭をぐるりと囲む廊下を歩きながら、淳は物珍しそうに周囲を見回した。

 山から引く湧き水を流し込む大きな石鉢に、縁側のひさしにぶら下げられた防虫香。

 青々と茂る庭木や生け垣の合間を縫うように配置された景石。

 年季の入った飴色の柱や床に、漆喰の壁。

 目に映るのはことごとく、都会のマンション暮らしの少年にとって新鮮なものばかりだった。

 そうしてさつきの後ろを歩いていたその時、ちりん、とかすかな鈴の音が響く。淳は客間の襖の前で立ち止まり、音が聞こえた方を向く、

 すると、石燈籠によじ登っていた黒猫と目が合った。


「あ……」


 淳の呟きにさつきが振り返り、視線の先の猫に気付く。


「ああ、あのネコ。くろすけって言うんだよ。ここのうちで飼われてるの」

「そうなんだ」

「ネコ、好き?」


 さつきが何気なく尋ねると、淳はぎゅっと下唇を噛んだ。


「…………」

「淳くん?」


 さつきは一瞬、ぎくっとした。

 くろすけを見つめる少年の瞳に、じわりと涙の膜が張ったからだ。


「淳くん、どうし……」

「何してるの。淳、早く来なさい」

 

 さつきが声をかけようとしたのと同時に、廊下に様子を見に来ていた母親が淳を呼ぶ。

 黙ってくろすけを見つめていた淳は、目元をさっと手でぬぐって踵を返した。

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