Ⅳ-14

 床に置かれた書類に足をとられそうになりながら部屋を一回りする。やはり姿は見えない。席に戻ってふと、ゆうべナズカのいた机にノートが置かれているのに気づいた。開くと彼の書いた文字が並んでいる。日記のようだった。私はぱらぱらとページをめくり、手を止めた。ナズカとは違う筆跡があった。次のページにも、その次にも、見覚えのない文字がちらほらと記されている。行の隙間や余白に書き足されたのではなく、ナズカの文章の中に紛れ、まるで二人で書きあげているように。


 ページをさかのぼって気づく。二人目の筆跡が現れたのは、ちょうど傾禍の起こったのと同じ日だった。


 心臓が強く鳴った。事務室を出、天井の低い廊下を急ぐと、入口のホールに人影があった。片膝をつき、崩れた螺旋階段を見上げながら、何かをつぶやくように口を動かしている。私は呼ぶのをためらった。違和感があった。確かに彼のはずなのに、別の何ものかを塗り重ねられているような。


「ナズカ」


 私は努めて何気ない調子で言った。反応がない。さらに近づいて再び呼びかけると、彼は立ち上がってこちらを向いた。私は思わず一歩後ずさった。ナズカの顔に別の顔がへばりついていた。あの《ウンゼ》だった。儚げな弧を描く眉に大きな口、切れ長の目に収まった紺青色の瞳。


「いけないな、お客さん」


 低くしゃがれながらどこか幼い声でウンゼの顔が言った。


「勝手に上がってこられちゃ困るよ。さ、席に戻っておくれ」


 ウンゼの顔は微笑している。私は動けなかった。吐き気がぶり返し、狂ったぶらんこのような眩暈がわき上がる。それらから逃れるように頭を振ると、目の前の男には見慣れた顔が戻っていた。


「おはよう。疲れはとれた?」


 ナズカの声だった。私は一言応え、続けて問うた。


「今、何をしていた」

「うん?」

「階段の前で何か言っていただろう」

「僕が? いや、何も」


 ナズカはかぶりを振る。重ねて問おうとし、私はよろけた。床が揺れている。いや、自分だけが揺れているのかもしれない。火照る体を冷えた血が巡り、眩暈が頭を揺さぶり、手足の感覚が薄らいでいった。


「イラテ」


 いつの間にか膝を折り、手を絨毯についていた。体を叱咤して立ち上がる。


「逃げる」


 私はそう言っていた。どうすれば助かるのか――いや、まだましなのか、逃げ場はあるのか、何一つ分からないまま。


「え?」

「ここから出る」

「外に行くのか」


 後ずさるナズカの腕をつかむと、私はつんのめりながら駆け出した。


「イラテ」


 叫ぶ声がした。


「だめだ、外は」


 崩れた螺旋階段を背に扉へと突き進む。


「何が」

「僕は――は」


 視界の隅の壁で何かが瞬いた気がした。扉を押し開ける。ポーチに踏み出した途端、ナズカの言葉が悲鳴に変わった。弾けるような痛みが手から全身に走り、気づくと私は石の床にひっくり返っていた。腰をしたたかに打ち、ナズカをつかんでいた手には痺れが残っている。


「ナズカ!」


 周囲を見回しながらよろよろと身を起こした。人影はない。気配すらない。靴に何かが当たった。目を落とすと、額のない絵が一枚、ポーチとホールの境に落ちている。


 《殉教者に扮するウンゼ・イレツィス》。鮮やかな緑の瞳が月明かりを仰いでいた。






end3 法悦の緑

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