85.完璧な王
―― ベルトリウスが自身の体から生成した大量の毒の荒波に乗って、城下を
階ごとに設置されていた窓からは、外で繰り広げられる戦闘の一部始終が見て取れた。高所からだと、木の根のように本道と脇道が入り組んでいるのがよく分かる。その先々に道を埋め尽くすほどの茶色い液体が押し寄せ、恐らくは襲撃者であろう点々と動く小さな粒を飲み込んでいった。
一種の洪水のような光景に、あれほど大量の毒を一気に放出することができるのかと、イヴリーチは知らぬ間に向上していたベルトリウスの能力の上限に驚いていた。
そうこうしているうちに昇降機が最上部で停止し、イヴリーチは意識が戻らないエイレンと共に幽閉部屋へと入った。
敵として出会った頃の”ミェンタージュ”に閉じ込められた忌まわしい場所ではあるが、今はエイレンを
”もしそっちに手ごわい相手が行っちまった場合はお前がエイレンを殺すんだ。その後で自決しろ”
ベルトリウスの冷たい声色が頭の中で巡る。
匿うのはいい……が、生きていてはいけないのだ。
イヴリーチは涙を流しながら、エイレンの細い首筋に手を添えた。死人のように固まってしまった彼女だが、ぬるい体温は保たれているし、指先の下に位置する血管がトクンッと脈打つ感覚も残っている。
それでもやらねばならないのだ。生け捕りだけは避けなければならない。真に親友を想うなら……敵の辱めを受けた末に殺されるくらいならば……いっそ愛する者の手で殺してやった方が……。
少し力を加えただけで、白く美しい首はキュッと絞まった。
イヴリーチは吐き気を催す触感を我慢しながら、時間を置いて手を離し、嗚咽を漏らしながら少女の胸に顔をうずめてしゃくりを上げた。
静かな部屋に、落雷の轟音が響き渡る。城下から届いた空気の振動が、塔の壁をミシミシと揺らす。
ベルトリウスは死んだのだろうか? 最早、彼を心配する余裕もない。次は自分の番だ。エイレンは死んだ……いや、己が殺した。後を追うのだ。自腹に向けて加減せずに尾を叩き込めば、いくらエカノダの強化を受けた肉体といえど致命傷を負うことができるはずだ。
イヴリーチは深呼吸すると、尾を宙に掲げ――……もう一度床に下ろした。
本当にこのまま死んでいいのか? このまま命じられたまま自死し、地獄へ戻り、顔を合わせたエイレンに”塔で殺してごめんね”、などと謝れば、この不快感は収まるのか?
いいや、収まるわけがない。大切な親友を手に掛ける原因となった相手にみすみす背を向けて逃げ去るなど、己の”怒り”が許すはずがない。
ランカガ・スタウツーデュ……あの男さえいなければ、こんなことにはならなかった。
自死など、いつでもできる。イヴリーチは闘志の燃ゆるままに天井へ駆け上り、以前自分が開けた天窓から外へと抜け出した。そして熱感知を働かせ、城下からの坂道を上ってくる一つの人影に狙いを定め……屋根を蹴り、勢いよく頭から飛び降りた。
蛇には宙を滑空する種がいる。鳥類のような翼を持たずとも、平たい体と柔軟性を活かして遠く離れた木から木へと飛び移るのだ。個体によっては百メートル先の木へ移動するものも存在し、イヴリーチに肉体を捧げたミハ森の大蛇はこの系統に所属していた。
人間の視界の範囲は頭上には及ばない。運良く顔を上げない限りは、音もなく空から降ってくる物体を避けられるはずがなかった。
―― だが、赤獅子と称される男は、あらゆる事態を想定していた。
上手くランカガの死角へ移動したイヴリーチは着地の直前に空中で身を
角度も速度も全てが完璧だった。”ドゴンッ!!”と、物と物がぶつかり合う痛ましい音が辺りに響いた。ランカガは目も合わせることなく、大砲から放たれた鉄球のようなイヴリーチの直撃を食らった。イヴリーチも手応えを感じていた。
しかし……着地したイヴリーチは、土煙の先でムクリと起き上がる影に目を疑った。
若き頃より多くの恨みを買ってきたランカガは、いつ如何なる時の襲撃にも備え、常に己の身に肉体硬化の術を継続して施していたのだ。さらに、部下と同じく身に纏った保護魔術の空気の膜が、少女の渾身の一撃の威力をほとんど吸収していた。
イヴリーチが得意とする物理攻撃は、残念なことに特に相性が悪かった。
「チィッ……!! どうして……ッ!!」
「驚いたぞ、魔物がまともな奇襲を仕掛けてくるとはな。しかし……話には聞いていたが、醜い姿だな。貴様の存在は人類への
「……何も知らないくせに……っ!」
「ふむ……意思を汲み取る程度ではなく、言語を完全に理解しているのか? ミェンタージュに教わったのか……魔物は総じて知能の低い怪物と思っていたが、
体に付いた砂汚れを手で払い終えたランカガは、思いのほか会話が成立する半人半蛇の異形に、考えるように唸った。
上空からの一撃で仕留める気でいたイヴリーチはこうなっては出直すしかないと、この場の復讐を諦めて、クリーパーが到着するまでの時間稼ぎに切り替えた。
「あなたは……どうしてこの街を狙うの……? ここの領主様とは仲間じゃないの……?」
「
「……」
言い当てられたイヴリーチは内心ドキリとしながらも、睨み付けた表情を崩さないよう努めた。その様子をまじまじと見つめていたランカガは、フォエルマと別れて以降、重く下げ続けていた口角を少しだけ上げてイヴリーチに話を持ち掛けた。
「いいぞ、俺も少しばかり興味が湧いた。誘いに乗ってやる。ただし、貴様は俺の問いに答えるだけだ。それ以外は許さん。会話の通じる魔物など貴重だからな、せいぜい話が延びるよう努力しろ」
イヴリーチの返事など待つことなく、ランカガは有無を言わさず話を進めた。
「一つ目の問いだ。貴様もユージャムルの手先か?」
「……」
「……答えぬ、か。主導権を握る者の機嫌を損ねて良いことなど何もないぞ。まぁいい……次だ。貴様はアラスチカ家の中でどういった存在なのだ? 愛玩生物か? それとも、貴様が父娘を懐柔したのか?」
「あなたの質問に答える必要なんてある?」
高姿勢を見せたイヴリーチに対し、ランカガは瞬時に詠唱を行った。微弱な電流が地面を伝い、”バチッ”とささやかな音を立ててイヴリーチに当たる。目の前にチカチカと白い火花が走り、”しまった”と思った頃には、イヴリーチは地に伏していた。
痛みはないが、全身が痺れて動けない。口元も力が入らず半開きの状態となり、端からたらりと唾液が垂れてゆく。
「状況を賢く利用できん者は戦場で生き残れん。このランカガ・スタウツーデュの時間を奪っておいて無駄口を叩くな」
「ハァーーッ……ハァーーッ……!?」
「次だ。このガガラを乗っ取ったのは貴様か? それともミェンタージュか?」
「……っ、こぁえうっ……ひひゅよーぁっ”……―― ハゥ”ッ”!!??」
「
「どれ、一つ面白いものを見せてやろう。」
そう言って強制的に見させられた先には、イヴリーチがエイレンと涙の別れを果たした塔があった。
背筋に冷たいものが走る。イヴリーチはだらしなく開けた口から唾液をボタボタとこぼしながら、声にならない声で制止を求めた。
ランカガは静かに笑みを浮かべると、たった一言を発した。
「”
―― 終末というのは、こんな光景から始まるのかもしれない。
遥か上空、雲の向こう側から一筋の光が落ちてくる。
轟音を伴って降り注いだ
そう、
ケランダットが展開する浄化の光を”邪悪を滅する神の抱擁”と形容するならば、ランカガが放つこの雷柱は間違いなく”神の怒り”だった。
全てを無に
「あ”え”ぇ”ーーっ”!! あ”え”ぇ”ぉ”ーーっ”!?」
「次はどこに撃とうか。城か? 城下か? 貴様に食らわせてやってもよいのだぞ。いっそのこと、街ごと消滅させるか?」
大柄なランカガの頭上まで髪を引っ張られて上体を持ち上げられたイヴリーチは、赤毛の中心で歪む金の瞳がギラギラと輝いているのを見た。
この男は命を摘み取ることを楽しんでいる。タハボートという国は彼の狩り場だ。被食者である自分達の役目は、捕食者であるランカガを満足させることだけ。彼の養分となり、彼を肥えさせ、彼が他国の侵略を防ぐための力の源となるのだ。
「ふっはははは!! 魔物でも
ランカガはちょうど良い道具を見つけたと言わんばかりに、歯を覗かせて朗らかな笑顔を見せた。
涙で滲む視界の中……彼の背後……城下に続く坂道の方から、右へ左へと不規則な足運びで走行し迫る影を見つけた。
ベルトリウスだ。
イヴリーチはランカガに仲間の存在を悟られることのないよう、悲しみに沈む様を演出してみせた。わざとらしくないよう視線を無理に揺らさず、息も落ち着かせず荒れたままで続け……なのに――。
「”
ランカガはイヴリーチが心の奥底へと閉じ込めた動揺に気付いていた。
ベルトリウスは気配と足音を完全に消して接近していたというのに、あと数十メートルのところで地を並行して進む雷の柱に飲まれてしまった。
ヤブラギィと違い、ランカガの雷には”間”がなかった。発生直前の空気を裂くバリバリッという警鐘もない。
これが経験の差かと思えるほどに、彼には欠点がなかった。
ただ……ランカガは背を向けたまま後方に雷を飛ばしていたので、ベルトリウスが死に際に放った毒にまでは気付いていなかった。
保護魔術が未だ有効なため空気の膜が毒の付着を許さなかったが、ベルトリウスが狙っていたのは仲間であるイヴリーチの方だった。
「ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ッ”――!?」
強力な毒はイヴリーチの肉体を瞬く間に溶かした。額からドロリと液体に変わっていく少女に、流石のランカガも驚いて掴んでいた手を離して後退した。
そうして、生かして領地に持って帰るつもりでいた魔物はたった数秒で形をなくしてしまった。
ランカガは地面をむさぼり掘る毒に向かって魔術で火を放った。
独特の腐敗臭に袖口で鼻を覆いながら顔をしかめ、せっかくの成果を強奪されたことに、やり場のない怒りを募らせた。
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