62.泡沫の夢

 空を見上げた時、ガラスの向こうに月が昇っていたら逢瀬の刻だ。


 イヴリーチは毎夜エイレンの元へ通っていた。何も知らないからこそ吸収が早いのか、一晩たった数時間程度のやり取りの中で、彼女は驚くほどたくさんの知識を身に付けていった。

 未だこれと言って有益な話がないということは、これ以上エイレンから得られるものはないということだ。しかし、毎晩目を輝かせて天井を見上げ待ち構えている彼女を見ると、いつしか秘密の交流を待ち遠しく思っているのは向こうだけではなくなった。


 いつも目印にしている場所に月が移動すると、イヴリーチは部屋を抜け出して対の建物を目指した。手慣れたもので、三分もあればエイレンが覗く塔の天辺へ着く。

 この日も熱感知を働かせ、他者がいないか確認してから天井のガラスに手を掛けた。だが、眼下のエイレンは出会った時と同じ……膝を抱え座り込み、俯いて顔を隠していた。頭上から物音がすればすぐに反応するエイレンが、今日はじっとして動かない。

 もしや、ミェンタージュに酷く痛め付けられた傷が癒えなくなったのでは―― ?


 すぐさま部屋へ入ろうと、イヴリーチはガラスを取り外し身を乗り出した。その瞬間、エイレンは勢いよく顔を上げて叫んだ。


「きちゃだめっ!!」


 エイレンは鼻から血を流していた。ただ事ではないと気付くも時既に遅く、イヴリーチはすでに天井から離れ、空中を飛んでいた。

 トンッ、と綺麗に着地を決めると、突如イヴリーチは脳を直接揺さぶられるかのような強烈なめまいに襲われた。

 視界がグラグラと揺れ、強い耳鳴りが混じり、上下左右の判断がつかなくなる。胃液がこみ上げてくると、たまらず地に這いつくばった。胴に縋り付くエイレンの泣き声すら今は苦痛でしかない。


 ―― 何が起こった?

 熱感知は行ったはずだ、誰の反応もなかった。だが、これは明らかな攻撃だ。誰かが何かを仕掛けたのだ。こんなことができるのは……。


「なんて非力なんでしょう。その程度で今までよく生き延びてこられましたわね?」


 二人っきりの室内に響く嫌らしい少女の声……イヴリーチは忌々しそうに顔を上げて姿を捉えた。


 そこにいたのはミェンタージュだった。傍らに魔術師ショーディもいる。

 隠伏の術で姿を消して壁のそばで潜んでいた二人は、前もって天井付近に鎮静術の罠を張っていたのだ。

 わざとカツカツと尖った靴の踵を鳴らし、焦燥感を煽るように近付いてくるミェンタージュに対し、エイレンは横たわる友を庇うように両手を広げて立ちはだかった。


「やめて!! イヴにひどいことしないで!!」

「邪魔よ。今までよりもっと痛い鞭を食らいたいの?」

「エイレンがぶたれるからっ!! エイレンはもういたいのたえれるからっ!! イヴはおともだちなのっ、きずつけないでっ!!」

「……そんなにこの子が大事?」

「だいじ!! だいじだからっ、エイレンのだいじなおともだちだからっ、みのがして!! エイレンがかわりにぶたれるからっ、だからっ……!!」

「そう……大事……大事ね……………………っふ、」




「ふっっははははぁっ!!!! ぶわぁっかみたぁい!! お前、誰のお陰でイヴリーチこいつが知恵ナシのフリしてたのがバレたと思う!? 全部お前よっ、お・ま・え・の・お・か・げ!! お前はと繋がってんだからぁっ!! ほんっっっっとご苦労サンだわぁっ!!!!」




 ミェンタージュはそれまでの淑女然とした態度から一転、エイレンを指差してゲラゲラと品無く、目を剥き歯を剥き腹を抱えて大笑いした。汚らしい……というよりは、不気味な形相にエイレンは思わず半歩引く。


 ミェンタージュは戸惑うエイレンに嘲笑を向けると、心底楽しそうに問うた。


「そこの蛇女にも聞せてあげるわ。お前……どうして自分が塔に閉じ込められてるか考えたことある? ないなら少しはマシになったその頭で今考えてみなさいな。ほらっ、早く早く!」

「……ぇ、エイレンはきれいだから、うろうとしてたんでしょ? だからそのときまで、にげないようにここに……」

「ふふっ……そう、お前はの最高傑作……致命傷じゃない限り嬲り放題の美少女なんて変態ならどれだけ金を積んでも手に入れたいはずっ、お前が売れたら新しい分身を作ってまた売る、それが売れたらまた作る、ンでまた売れたらまた作るでボロ儲けよぉ!! 人間界は金が全て!! 金さえあれば力だって買える!! これぞおれの素晴らしき能力!! 地獄が無理ならこっちで生きりゃいいんだよぉ!!」

「じ、ご……? なにをいってるの……?」


 まだ宗教的な話を耳にしたことのないエイレンにとっては、ミェンタージュが一体何をそんなに盛り上がっているのか不明だった。だが、勘が働いたイヴリーチはある答えに辿り着いた。


「あんたも……まもの……っ」

「ご名答ーーーー!! おれは本当のミェンタージュじゃなぁーい!! 本物は六年前に母親と一緒に殺しちゃいましたーー! だゃははっ! ずぅっと成り代わってるのに誰も気付かないのよ? 実の父親でさえ我が子が入れ替わったことに気が付かないなんて、人間は騙されやすくてありがたいわぁ……ね、ショーディ?」

「はは……」


 男性的で荒っぽい”中身ミェンタージュ”と、女性的でしとやかな”ミェンタージュ”の口調が入り乱れる様子にショーディは苦笑いする。

 あれだけルヂー将軍に対しパジオの隣に立つ自覚がどうのこうのと責め立てていたくせに、その主人の愛娘が魔物に殺害され、挙げ句成り変わられている事実を受け入れているなど臣下にあるまじき行為だ。


 イヴリーチは何とか危機を打破する方法を考えようとしたが、徐々に強まる鎮静術によりもたらされる眠気に抗うすべ無く、ついに起こしていた上体も地に伏せてしまった。

 どんどん勢いを失ってゆく背後のイヴリーチをチラチラと気に掛けながら、エイレンはこの状況を引き起こしたのが自分だと言われたことに混乱を覚えていた。


「まもの、がなんなの!? どうしてイヴをきずつけるの!? なにがエイレンのせいなのっ!? かえって!! へやからでてってよ!!」

「ふふっ、随分強気になったわねぇ……まぁ聞きなさいな。おれの話はお前の話だ」


 ミェンタージュは遠い目をすると、長い話を始めた。


「おれは生まれた時は血の大海に浮かぶ小さな”泡”だった。波がぶつかり合うと一つ、また一つとおれが生まれた。個々としての意思は無く、風が当たっただけで弾けるようなちっぽけな存在……ところが、その弾ける瞬間ってのが信じがたい苦悶だった。微塵みじんに刻まれるような感覚があるのに叫ぶことも藻掻くこともできねぇ、ただ来たる痛みを受け止めるだけの苛虐かぎゃくさ。さらに運が悪いことに、暇な奴ってのは大勢いやがった。おれが生命体だと気付いた魔物クソ共はおれで遊び始めた。おれをつついて弾けさせ、波に揉まれて再発生したおれをまたつついては弾けさせ……分かるか? 痛みが止まねぇんだよぉ、どんだけ苦しんだか分かんねぇっ、何が楽しんだか数センチしかない小さな泡を壊し続けてさぁ、異常だよ異常!! 当時のおれは呆れたことに地獄から逃げ出したいと思う知能が無かった!! ずっとずっと身を裂く痛みを味わってきたのに、それを憎む頭が無かった!! あそこは……っ、理不尽こそ正義だった……!!」


 ミェンタージュは自分自身を抱くように肩を丸め、過去の屈辱に身を震わせた。

 こんな主を見るのは初めてだった。塔を訪れる彼女はいつだって胸を張って威厳に包まれていたというのに、おびやかす立場にいた者がなにゆえこのような醜態を晒すのか?


 エイレンは胸の内にじわりと浸食し出した薄暗い何かに吐き気を催した。

 ミェンタージュはさらに話を続ける。


「……終わりの見えない日常の中、ある日巨大な竜巻が海を吸い上げた。おれは奴らの手から逃れた。竜巻に揉まれている最中も体は弾けては再発生して弾けては再発生しての繰り返しだったが、渦が消えた時におれは地上の海へと降りていた。そして……わたくしは魚を獲ろうと水面をつついた鳥に破壊された。弾けた拍子に一滴のわたくしが、くちばしから口内に入り込んだ。口内から臓物へ移動すると……わたくしは鳥を殺した。宿主の死が同化の合図だったのよ。それまで本能だけで生きていたわたくしに突然”意識”が生まれた。肉体に染み付いた記憶、思考、あらゆる宿主の情報が押し寄せ、そこでようやく、わたくしは自分の偉大なる能力に気が付いたのよ。鳥の次は狼になった。狼の次は人間。人間の次はまた人間。今のミェンタージュになるまで五十年以上は放浪したわ。おれは地獄では最下層だったが、地上では間違いなく頂点へ立てる者だった! すでに成功した人間世界の強者を乗っ取れば何の苦労もせず権力だけをまるっと頂けるっ、こんなに楽なことはない!! わたくしには寿命がないっ!! わたくしは器を替えて何千年も何万年もっ、今までの痛みの分までぜいを味わい尽くすのよっ!!」


 高らかな笑い声が部屋中に響く。すでに意識が朦朧としているイヴリーチは、完全に落ちてしまう前に疑問をぶつけた。


「ぁっ、た……そ……ちの……っ」

「あぁ、ショーディ? ショーディはただの互恵ごけい関係の人間よ。魔物じゃないわ。魔術師というのは知りたがりでね、わたくしの体を調べさせてあげる代わりに力を貸してもらってるの。わたくしがミェンタージュじゃないことも知ってる……実にいい奴さ」

「っ……さけなぃ……!」

「人ならざる者が信念を説くなど笑止。小うるさい口は塞いでしまいましょうかね」


 静観していたショーディは、イヴリーチがかすれ声で放った”情けない”という捻りのない罵倒を分かりやすく受け止めた。彼が一言呟くと、二人を見上げて睨みを利かせていたイヴリーチは一瞬のうちに意識を失い、ゴンッと音を立ててこめかみ部分から打ち伏せた。


「イヴ!!」

「寝かせただけです。命まで取るわけないでしょう、売り物なんですから」

「流石わたくしの益友えきゆうは頼りになりますわね! ふふっ……さぁ、待ちに待った競売ですわよ! 目玉商品の紹介にはまだ時間があるけれど、遅刻は厳禁! 控え室に行って準備を始めないとね!」


 ミェンタージュが囃すように手を二回叩いて急かすが、エイレンはイヴリーチを起こすのに必死だった。肩を揺さぶったり声を掛けてみたりしたが、鱗に覆われたまぶたが開くことはない。


 エイレンが足掻く度にミェンタージュは笑みをこぼした。

 ショーディは詠唱を行い、周囲の空気を集めてイヴリーチの体を浮かせた。ぷらぷらと振り子のように揺れる手を掴もうとするも、エイレンも同じように宙へ送られる。


「どこにいくのっ!? はなしてよっ!! イヴをおこし――」

「うるせぇなぁーーーーぁ!? 今言っただろうがよぉ、控え室だってさぁーー!? ……何度も同じことを言わせないでくださる? というか、安易に口を開くなとわたくしキツく教えてきましたのに。お前ったらもう忘れてしまったのね」


 言い終わると同時に脳天をゴンッと殴られ、エイレンは舌を噛んでしまった。筋肉がない少女の拳でも、骨の出っ張りと当たり所が重なれば痛みが増す。

 エイレンは今まで受けてきた教育を思い出し、反射的に抵抗を止めてしまった。それでも瞳の奥には僅かながらの反抗の火種が隠れている。

 ミェンタージュは美しい銀糸を引っ掴むと、最後の最後で逆らえないように芯を折ってやることにした。


「お別れの前に礼くらい言ってくれませんこと? ほら、”生んでくださってありがとうございます”、って言ってみなさい? ほらほら、もう一度ド突かれたいの?」

「……うむって、なんなの……エイレンがぶんしんっていうのは……」

「あぁ?」


 普段なら殴られれば幼児の如く大泣きするはずなのに、妙に落ち着いて疑問を投げ返しててくるエイレンにミェンタージュは苛立ちを覚えた。


「察しが悪ぃなぁ、流れで分かりませんこと? わたくし……分裂体を生み出せますの。まぁ、できるようになったのは去年の話で、百体くらいは失敗が続きましたけれど。お前は初めての成功作……この部屋は研究室みたいなものよ。人目に出す前に耐久力や再生力を調べるためのね。ふふっ、そしたらまさか、分裂体が行った会話まで共有されるとはね! わたくしも驚きよっ、一年経って新たな能力が開花するなんて! 環境や交友関係が起因しているのかしら? 次の個体づくりに活かすわね。感謝としてもう一発キメたげる」


 そう言うとミェンタージュは感謝と称し、今度はエイレンの頬に拳を”キメ”た。


 いつもの痛み、慣れっこの苦しみが、今日は深く心を抉る。絶対に内緒にすると約束したのに、エイレンは知らず知らずのうちにイヴリーチを売り飛ばしていた。

 分かたれた身は互いに引き寄せ合う。ミェンタージュが持つ負の思考はエイレンへと伝播でんぱし、それまで純真だったエイレンに胸を焦がす熱が宿った。


 これはまさしく、”怒り”だ。


 沸々と腹から登ってくるこの怒りも、場違いに湧き上がる喜びも、全て”本体ミェンタージュ”から押し寄せる波だ。

 利己的で悪辣な魔物のさがだ。


「大事なお友達が酷い目に遭うのは全部わたくしおまえのせいよ」


 キッと睨み返す頃にはエイレンにも鎮静術が振る舞われ、横のイヴリーチと同様に深い眠りへといざなわれた。


「せっかく仲良くなれたのにね……せめて残り僅かに共にする時間を楽しんで。大金になって戻ってくるのを期待しているわ」


 ミェンタージュはふわふわと上下する頭を順に撫でると、ショーディと共に商品を連れて昇降機へと乗り込んだ。


 向かう先は城の敷地内に建てられている演劇場。

 定期的に歌手や踊り子を呼んで公演する健全な場所が、今宵は清き若人わこうど達が欲にまみれた手で取り合われるおぞましい空間となるのだった。

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