48.嫌な男 ― 2
……一方、別室のベルトリウスは部屋に入るなり自発的に服を脱ぎだし、大桶に張られていた湯に
浸かると言っても湯は胸より少し下ぐらいの高さまでしかないのだが、ベルトリウスと共に入室した寡黙な女が大桶の外でかがみ、そばに置かれていた手桶で中の湯を掬っては肩に掛けてくれるので、あまり気にならなかった。
ベルトリウスは女の顔を横目で見た。
傷んだ茶髪を一つに結った、素朴な顔付きの女だ。決して美人ではない……強いて言うなら鼻筋を横断するそばかすが特徴的ではあったが、他に目立つ点のない印象の薄い女だった。
だが、体の肉付きはケランダットに付いた担当よりも、こちらの方が良い。ベルトリウスにはそれだけで充分だった。
「名前は何て言うんだ?」
「……イセラ」
「イセラか……響きのいい名前だね。タハボート出身なの?」
「ええ」
ベルトリウスが尋ねると、イセラは覇気のない声で答えた。
イセラは掛け湯でベルトリウスの肌を温めながら、薄手のタオルでこすって体の汚れを落としていった。
”流すわよ”と、ひと声受けてから頭頂部より手桶いっぱいの湯を粗雑に掛けられれば、透明だった大桶の湯は瞬く間に灰を溶かしたような色に変わった。
旅人というのは、毎日汗をかいているくせにひと月、ふた月と水浴びをせずに過ごすことが多々ある。なので、店によっては最低限の衛生を守るために、こうして客に身を清めさせるところから始まるのだった。
ベルトリウスが質問を投げ掛け、イセラは洗いながらポツリポツリと返事をする。
問答を繰り返しているうちに全身の肌は
イセラは洗っている最中に飛びはねた雫のせいで、服がビショビショに濡れていた。
薄い生地のワンピースがピッチリと肌に張り付き、体の線や色を
話していて分かったのは、イセラは下に五人の
家族の話をしている時に見せる柔らかな微笑みは、彼女の隠れたいじらしさを強く感じさせた。イセラは赤の他人には分かりやすく心を閉ざしているが、その実、愛情深い女なのだろう。ベルトリウスが好む典型的な田舎娘だった。
聞き込みをするいい機会だと、ベルトリウスはイセラから街の情報を得ることにした。
「君は偉いよ、家族のために相手の選べない職に
その場で考えた作り話を深刻そうな表情で語り出せば、イセラは先程までの素っ気ない態度を軟化させた。疑う様子もなく、”それは大変ね……”と小さく呟いて、ベルトリウスの肩にそっと手を添えた。
「結局、それは嘘だったんだ。両親が手引して人でなし共に妹を売ってたんだ。馬鹿な親だよ、妹をびっくりするぐらいのはした金に変えた。……奉公ならいい。夜店だって立派な働き場所だ。よっぽど悪い店じゃない限り、俺も割り切ることができた。金さえあれば
「……」
「俺は滅茶苦茶に怒って……あの子を絶対に連れて帰ると親に怒鳴り散らして家を出た。他の弟や妹が同じ目にあったら嫌だからと、稼いだ金を全部置いて……それで各地を渡りながら今も妹の行方を探してるんだが……イセラ、それらしい女の話を聞いたことはないか? 俺と同じ金髪で、目は澄んだ青色の子なんだ! ガキの頃から人の目を集めるくらい美人で有名だったから、客の男でそういう話をしてる奴がいたら……と、思ったんだが……」
ベルトリウスが
「ごめん……わたしはガガラで働いて三年になるけど、街でそんな子の話は聞いたことない」
「そう、か……そうだよな……ジールカナンでいなくなった人間が、タハボートにいるはずないよな……ごめん、一人で熱くなっちゃって。
空笑いで落胆を隠し切れない風を装ってみせると、イセラは困ったように笑って立ち上がり、着ていたワンピースを脱いで、
かさを増した湯が、胸の上までせり上がる。
イセラはベルトリウスの左側に座ると、鍛え抜かれた硬い腕を手に取って、自身の柔らかな腰へと回させた。そしてベルトリウスの肩にもたれ掛かるように頭を乗せて、他の誰にも聞こえない声量で囁いた。
「あまりこの辺りで妹さんの話をしない方がいいわ……ここは人さらいが住む街だから」
ベルトリウスが驚いた顔でイセラを見ると、彼女は
「ガガラは商業の街だから、夜店にも色んなお客が来るの。色んな話も耳に入る。特に人さらいの話は……店の子の間では有名。街のどこかでね、夜な夜な”競り”が開かれているらしいの。あちこちで誘拐された女子供が金持ちに売られてるんだって……うちの店でもね、新入りの子が美人だと、気が付いた頃にはいなくなってることがあるの。きっと”競り”に送られたんだって、みんな噂してる。だから街の中で堂々と行方不明の妹さんを探していると……あなたを邪魔に思う奴らがいるかもしれない。やめた方がいいわ」
「……そうなのか……ありがとう、教えてくれて。でも、よかったのか? そんな大事な話を……たとえ噂だろうが、情報を漏らしたってことで君が危険な目に遭ってしまったら……」
あくまで思慮深い男としてベルトリウスが身を案じる台詞を吐くと、イセラは穏やかな笑みを浮かべて答えた。
「あなたはいい人だわ。それに兄弟を思う気持ち……よく分かる」
「俺は……いい人なんかじゃないよ。いい人は出稼ぎで貯めた金を夜店で使わないだろ?」
「ふふっ、それもそうね! やっぱり今の言葉はなかったことにする」
くすくすとおかしそうに笑うイセラは、外見では計り知れない魅力に満ち溢れていた。
ベルトリウスは空いていた右腕を彼女の膝裏に差し込み、むっちりとした体を持ち上げると、自身の太ももの上に乗せた。
イセラを見上げれば、イセラもこちらを熱のこもった目で見つめていた。お互いに顔を寄せ合い、恋人がするような甘いキスをする。
何度も舌を絡ませ、吐息すら興奮に変えてゆく。一旦唇を離し、名残惜しそうにとろけた目で誘う彼女の膨らんだ頬に軽い口付けを落とし、緩やかな円を描く
「妹を見つけたら君を身請けしようかな……たくさん働いて、金を貯めて……」
「今までそう言ってくる人は何人もいたけど、一人も迎えに来たためしがないわ」
「俺は本気さ。何年も掛かるだろうけど……その間に君が店を辞めてても、世界中探して迎えに行くよ」
「……ふふっ、期待しないで待ってる」
イセラは柔らかく微笑み、ベルトリウスの顔を引き寄せて酒の香りがする唇をついばんだ。
夜店に通う客は老いも若きも様々だ。醜い客もいれば、反対に顔の良い客もいる。後者は大抵、店自慢の看板娘を指名するものだから、イセラはもっぱら指名をしない常連客や、
その中でも、ベルトリウスは別格の相手だった。
くっきりとした目鼻立ち、整然と並んだ白い歯、不思議な色気を放つ紫の双眼……若く張りのある引き締まった肉体は、触れているだけで惚れ惚れとしてしまうほどだった。
言うならば当たりの客だが……それはそれ、これはこれ。
仕事以上の感情は持たなかった。期待すれば裏切られた時の反動が強い。そう思いつつ他の客と変わらぬように対応していたはずが、妹の話を聞いているうちに私情を隠し切れなくなっていた。
身請けの話を信じるわけではないが……ひと時でもいい。夢を見せてほしかった。
だが、夢は見る前に終わりを迎えることとなる。
いよいよ二人が
突然響いた声にベルトリウスとイセラが顔を見合わせていると、さらに物同士がぶつかる鈍い音や、男女の叫び声が続く……。
「ミースの声だわ……何かあったのかしら?」
「ミース?」
「あなたと一緒に来た人に付いた子よ! ちょっと見てくるっ……!」
イセラは落ち着かない様子で湯から立ち上がると、裸のまま扉の方へ早足に向かった。
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