37.死に子よ、再起の福音を聞け

 コツ、コツ、コツと、足音とは別の軽い音が鳴る。

 足を悪くしていたラズィリーは日常生活を送るのに杖が必要となっていた。二十年も家を離れていたマギソンにとって、木の棒を突く聞き慣れない音は父の足が三本に増えたようで、余計に恐怖を掻き立てられた。


 物凄い形相で距離を詰めてくる父に、マギソンはガクガクと震える足を何とか動かして後ずさりした。呼吸が乱れ、めまいに襲われる。過去の思い出が沸々ふつふつと蘇り、無意識のうちに涙が溢れてきたので、慌てて手で両目を覆い隠し、自身とラズィリーの間に”壁”を作る。

 やはり襲撃を取り止めればよかったとか、その気にさせたベルトリウスに対する恨みだとか、そういった後悔の念は一切なかった。他に物を考えられないほど、父親という生き物に思考を支配されていた。


「よもや二十年前の事を忘れたわけではあるまいな!! 先祖代々の家名を地に落としておいて、この上何をしようと言うのだっ!! 貴様のせいで私とラスダニアがどのような扱いを受けてきたか分かるかっ!? 愚物がっ、簡単に死ねると思うなよっ!!」


 遠くから響く怒声に萎縮が止まなかった。恐ろしくも懐かしい声が頭の中で反響する。ぐわんぐわんと一言一句が頭蓋骨の内側でぶつかり合い、もう一度耳元で怒鳴り散らされているような錯覚に陥る。

 最早何を言われているのか理解できない。

 でも、叱られているということだけは分かる。叱られた時に何をすればいいのかも覚えている。


 マギソンは誰にも拾われないほどのか細い声で、目の裏に焼き付いた”あの頃”の父に向かって必死に訴えかけた。


「は、はんせいしますっ……ひとつ、まじゅつが、つかえませんっ……ふっ、ふたつ、けんのうでが、よくありませんっ……みっつ、こえがちいさいですっ、よっつ、はんこうてきですっ、いつつ、あしおとをたてっ、たてますっ、むっつ、よ、ようをたすかいすうを、まもれませんっ、ななつ、むちうちで、れんびんをこうようなっ、ひめいをあげますっ、やっつ、みなさんのお、おじかんをとらせますっ、ここのつ――」


 反省。

 これさえ行えば、父は”もういい”と言ってくれるはずだ。叱責の時間は必ず反省から始まる。前回は二十七個だった、だから今回は自分の悪いところを二十八個挙げなければならない。反省し続ければ、今日だってきっと―― 。


「ぁっ……」


 視界を塞いでいた手を下げたマギソンは、ラズィリーの厭悪えんおに満ちた目を見て思い出した。

 そうだった、許されないことをしたんだった。


「ぁ、あのっ……ごっ、ごごめっ……ごめっなさっ、 ぼっ、ぼくっ……!!」


 駄目だ……駄目だ、駄目だ駄目だ駄目だ駄目だ。

 どうすればいいか分からないやっぱり逆らうんじゃなかった。”あの時”馬鹿な真似をせずに我慢していればよかったんだ。毎日毎日己を押し殺して、でもそれさえ我慢していれば、こんな絶痛を味わうことは……!


 耐え切れず後退する足さえ止め、その場にしゃがみこんだ時だった。


「おいおい……”ぼく”なんてガラかよ……」


 背後から呟かれた呆れた物言いに、マギソンはびた人形のようにぎこちなく首を回して振り向いた。

 そこには上半身裸のベルトリウスがいた。

 ラズィリーの放った火球により服や包帯が焼け落ちた青年は、異様な色の肌をあらわわにして突っ立っていた。前頭部と側頭部の髪も燃えてごっそりとなくなっており、その根元や火球の中核に触れた胸の部分には水膨みずぶくれができているのが分かる。


「はぁーあ。せっかくの男前が台無しだ」


 えた表情で髪の残った後頭部を掻きながら、ベルトリウスは狼狽するマギソンに歩み寄った。

 この場の空気に似つかわしくない軽い調子で、へたり込む次男坊に語り掛ける男……その様子に、屋敷の兵士達は驚きのあまり言葉も出なかった。特に、攻撃を仕掛けたラズィーの心中は穏やかではなかった。


 燃えた装備や、ぶつかった鉄柵の曲がり具合を見るに、かなりの衝撃を与えられたことは確かだ。普通の人間なら間違いなく動けなくなるはず……ならば、同じ魔術師か? 防衛術を使用したのなら説明がつく。だが、こんなみすぼらしい風貌の者が魔術師であるとは思えない。


「貴様っ、何故平然としていられるっ!?」

「魔物だから」


 焦りに駆られて出たラズィリーの問いに、ベルトリウスは簡潔に返した。

 普段のラズィリーであれば身元のはっきりせぬ男の戯言たわごとなど一蹴いっしゅうするところだが、ラズィリー自身、現役を退いた現在でも領地に湧いた魔物を時々狩りに出向いている。年々増加の傾向を辿る魔物には様々な形態のものがいた。カイキョウに出没する魔物の多くは野生動物に酷似こくじしていたが、人の姿をしているものは初めてだ。

 異常に打たれ強い肉体を持つベルトリウスの言葉を、ラズィリーは信じた。そして、つくづく問題を持ち込む愚息に、頂点まで達していたはずの怒りが突破した。


「愚かなっ……人ならざるものと契約するとは恥知らずめ!!」


 興奮により真っ赤に染まった顔で罵られたマギソンは、ビクッと体を揺らした。

 親子をへだてるように割って入ったベルトリウスは”お言葉を返すようですが”、と前置きして言った。


「お父様、これは契約ではなく好意ですよ。俺は大切な友人が生い立ちに悩まされているのを見ていられなくて手を貸した次第です。彼が前に進めるよう、潔く死んでください」

「黙れ化物が!! そこの愚鈍の前に貴様を始末してくれるわ!!」


 ラズィリーが言い終わる前にベルトリウスは駆け出していた。イヴリーチやトカゲ男とまではいかなくとも、一般的な人間よりはずっと素早い突進にラズィリーはぎょっとすると、杖を捨てて代わりに腰に下げた剣を手にした。


 ベルトリウスの狙い通り、ラズィリーの意識は完全にマギソンからこちらへ移った。

 父親の方もマギソンに対して並々ならぬ恨みの念を抱いているようだし、できるなら生かして捕らえて拷問にかけたいと考えているに違いない。現に彼を狙った火球は、見た目の派手さに対して即死するほどの威力はなかった。万が一マギソンが食らったとしても、一命は取り留めるだろう。

 そんな、よろしくない事態を想定しながらも、ベルトリウスはマギソンを置いて一人攻めに転じた。


 前領主が現れてから完全に蚊帳の外だった兵士達がハッとして、迫りくる魔物に向けて槍を構えた。

 一対他の攻防……小さなナイフ一本で、十名の兵士とラズィリーを相手にしなければならないベルトリウスは圧倒的不利な状況に立っていた。なので、ラズィリーとの戦闘を後回しにすべく、ベルトリウスはまず兵士達を狙った。屋敷から孫や義理の娘、使用人などが覗いている手前、味方を犠牲に自分を攻撃するわけがないと踏んだのだ。

 兵士の練度れんどはなかなかのものだったが、ベルトリウス身体能力が上をいっていた。的確に致命傷となる部位を刺しては、次の兵士にナイフを突き立てた。


 だが、兵士達は時間稼ぎであった。

 ベルトリウスが地味な戦いを繰り広げている間に、ラズィリーは詠唱を完了していた。


 ラズィリーが放ったのは火球ではなく、彼の手元から離れて蛇のようにうねって移動する細い火の糸だった。兵士の隙間を縫うようにくぐり抜けて赤黒い肌の男へと絡み付いた火の糸は、”ボウッ”と音を立てて瞬く間にベルトリウスを飲み込んだ。


「ア”ァ”ッ!!?? ア”ア”ア”ア”ア”ッ―― !!!!」


 ベルトリウスは全身に纏わり付く火を急いで振り払った。

 何度払っても纏わり付いて離れない火は人の形をかたどり、空に引っ張られるように伸びて燃え盛った。動ける兵士は負傷した仲間の腕を取って慌てて距離を置き、叫びを上げて踊る魔物を眺めた。


「ふん……先程はどんな技で避けたのか知らんが、今度こそ肉体が焼ける感覚をじっくりと味わうがいい」


 ラズィリーはひと仕事済ませた様子で、橙色に揺れる火を見つめた。

 ついには地面を転がり体をすり付け、何とか火を消そうとしたベルトリウスだったが、ラズィリーの火糸ひいとの術は唱えた術士が望むまで燃え続けるというものであったため、火の勢いは止まなかった。


 ゴロゴロと転がり……力なく立ち上がって、助けを乞うように中腰でよろめきながら近付いてきたベルトリウスに、ラズィリーは蔑みの目を向けた。

 だが――。


「なんちゃって」


 ”ジュワッ”と水分が蒸発する音と共に、一瞬にして立ち上がった黒煙の中から、べろりと赤い舌を垂らしたニヤケ顔が現れた。


 ラズィリーは目を見開いた。

 子供がよくやる挑発や侮辱ぶじょくの意を持ったこの行為は、今の場にはゾッとするほど不釣り合いだった。


 全身から一気に大量の毒を生み出してラズィリーの火を瞬時に鎮火させたベルトリウスは、老体が冷や汗を噴き出すよりも先に、その深くシワを刻んだ顔面を茶色く液のしたたる手のひらで掴み上げた。


「ブアアアア”ア”ア”ッ”!!??」


 皮膚を剥がされるような熱に、今度はラズィリーが顔を押さえて地に転がった。

 巨大な力を持った主人が敗れたことに悲鳴を上げる遠巻きの兵士達にも、ベルトリウスは順番に毒を塗り付けて回った。全ての人間を行動不能にすると、唯一立ち残った魔物はえつった。


「ふくくっ……あはっははは!! 上手くいったぁ!! どうよ俺の演技はぁ? 恥ずかしがらずに思い切ってやるのがコツだぜぇ? あはっ、あっはははぁっ!!」


 あまりにも上手く事が進み、ベルトリウスは高笑いが止まらなかった。

 ラズィリー達に使用したのは威力の軽い毒だ。体が痺れて身動きが取れない程度の毒……致死性はない。それが狙いだった。


 ラズィリーと兵士達は、だらんと四肢を地に垂らして完全に動きを封じられていた。

 ベルトリウスはマギソンの元へ戻り、口を半開きにして間抜け面を晒している彼の目線に合わせるようにしゃがみ込み、穏やかな声色で囁いた。


「さあ、ついにこの時が来たな。約束通り、お前の手でトドメを刺させてやる」

「と……どめ……?」

「そうだ。お前だけの力だ。よこしまなモノの祓い方は知ってるだろう?」



 肩を抱き、前方を指で差す。


 マギソンはベルトリウスの言わんとすることが分かった。

 何て……何て残酷なことを思い付く男なんだろうか。ずっと探してたんだ、おれを守ってくれる人……おれの苦しみに気付いてくれる人……おれのそばにいてくれる人……もう随分と長いこと、夢の中で待ってたんだ――。



 頭の中で文字を描く。複雑な形の古代文字だ。

 視線の先にいる父が目で訴えている。


 ”穢れウーロー

 ―― 苦しい時、俺がやめてくれと言ったら、あなたはやめてくれたか?


 ”絶やすンーン

 ―― 今解放してやるから……どうぞ、最後にご堪能ください。



「”穢れウーロー”、”絶やすンーン”」



 宙より生まれし浄化の光が、近くに並ぶ兵士ごと父を飲み込む。

 その瞬間、雄叫びに似た複数の声が内庭に響いた。



「オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”オ”ッ”ッ”!!!!!!!!」



 地べたに張り付けられたまま藻掻くことも許されない父が、喉が裂けそうな勢いで鳴き続ける。高貴な生まれの、元は一都市を治めていた猛者もさに対して何とむごい仕打ちだろう。


「見ろよ……なんて綺麗な絵なんだ……」


 うっとりと目前の惨劇を見つめるベルトリウスの瞳に、浄化の光に包まれた父の姿がてらてらと反射して映っていた。


 絵……確かに、昔家に飾ってあった絵画に描かれていたような光景だ。

 肉の焼ける独特のニオイ。ありったけの油絵具を白紙の上にベタ塗りしてできたみたいな、多色が暴れる歪んだ眺め。純白の光の中から僅かに指先だけを動かしてこちらに助けを求める父は、さながら地獄で裁かれる罪人のようだった。

 断続的に発せられるバスの低い声域の悲鳴が心地よい。聞く度に萎縮していた父の声で心落ち着く日が来ようとは、思いもよらなかった。ついでに巻き込まれて焼かれている兵士達の呻きも合わさると、それは楽団の演奏のようで……。



 ああ、俺の世界が溶けてゆく。

 お父様……俺の全てをつくった人。

 そこにいるだけで震えていたあなたが、なんて無様で無力なんだ――。



 いつの間にかこぼれていた涙も引っ込み、マギソンは忌々しくて仕方なかった聖なる輝きを、恍惚こうこつの表情で見つめて体を熱くたぎらせていた。

 横を向くと、まるで喜劇を観ているみたいに心底おかしそうに笑うベルトリウスがいた。彼の狂人的な笑顔を見ていると、自分も心の底から嬉しくなった。こんないびつよろこびを共有してくれる者ができるなんて、最後の最後で報われた気がした。


「間違いなく人生で一番の瞬間だ……」


 思わずこぼれた言葉に、ベルトリウスもマギソンを見た。


「一番は何個あってもいいからな、これからどんどん作っていこうぜ。俺がいればお前は魔物だけじゃなく人間相手でも負けない男になれるんだ。安い言葉だけど、俺と組めばお前は最強だよ。……ふふっ、ぐははっ! 最強って、すげぇガキっぽいな!」

「ふっ……そうだな」


 ふと屋敷の上階を見上げると、窓から口元を押さえてこちらを見ている女性と少年が目に留まった。コデリーじゃなかったんだと、今更ながらに冷静に受け止めた。

 そうだ、あの小さな影に苦しめられることは二度とない。あの父だって足元で這いつくばってるんだ、もう恐れるものは何もないさ。



 マギソンは生まれて初めてできた友と共に、輝く父を笑顔で見送った。

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