34.この夢は魔物にあげます ― 2

 目を開けると、手の中には見覚えのある鍵の束があった。

 お母様が管理している、屋敷中の部屋を開けられる鍵の束だ。逆の手にはランプ。この明かりがないと辺りが暗すぎて足元すら見ることができない。ここは廊下だから、さっきいた部屋と違って真っ暗だ。

 

 ……あれ? さっき?

 コデリーに呼び出されて部屋に行ったのは昨日だ。昨日の夜……。



 頭が混乱したまま、また体が勝手に動き出す。

 今日は屋敷中の部屋の扉を施錠して回った。ちゃんと閉まっているか、取っ手をひねってよく確認する。

 他に鍵を所持している者からは事前に理由を付けて預かっておいた。途中で水を差されるわけにはいかない。奴ら馬鹿だから、お母様の名を出せば何の疑問も持たずに鍵を渡してくれる。”私共なんぞの部屋を訪れて回るなんて、これではどちらが使用人か分かりませんね”、なんて言って笑いやがって……今に後悔させてやる。


 あとは屋敷の内外を巡回する警備達に毒草をいて作った麻痺粉を嗅がせ、手足と口を縄で縛り、全身に油を掛けて玄関ホールに寝かせた。

 お兄様は初めての出征のため、お父様と一緒に昨朝のうちに家を発っている。優秀な騎士や兵士もそっちの応援に引き抜かれ、今屋敷に残っているのは程度の低い者ばかりだ。こんな好機は二度と訪れない。


 怒りが冷めないうちにやるんだ。昨日の会話を思い出せ。今やらなきゃ、この先ずっとしいたげられるだけの人生で終わるんだ……!


 尻ポケットから取り出した厚手の布を三角の形にし、顔の下半分を覆い隠すようにして頭の後ろで縛って固定する。

 そして仕上げに、ホール全体にも油をまき……ランプの火を落とした――。



 か細い火は油を伝い、波のようにホールへと広がり一面を火の海に変えた。

 橙色に照らされるホールから足早に去り、外から大きな玄関の扉に鍵をかける。


 いよいよだ。


 炎と煙は次第に室内に充満する。突然の事態に混乱した人間でも、まず火の勢いが強いホール方面から脱出しようと考える者はいない。仮にホールを上手く抜けられたとしても先にある扉が開かないのだから、全員消去法で窓から避難するはずだ。


 案の定、騒ぎ声と共に窓の方に人が押し寄せているのが見える。あれはお父様の不在中の職務を代行する役人かな? 昔から過度にお兄様を持ち上げる奴だった。”それに比べて次男様は……”って言われた記憶しかない。死んでしまえばいい。


 まぁ、あんな小物どうだっていい。大事なのはコデリーとお母様だ。

 奴らの寝室は三階だ。下々と同じ高さで寝たくないと言って、お父様は最上階を家族と来客用の空間として割り当てた。家族の中で自分だけが出来損ないだと二階に部屋を当てられたけど……あれは七歳くらいの時だったかな。何ヶ月もの間、自室に入るなりそのことを気にして泣いちゃってたな。

 こうして外から見上げてみると、二階も三階もあまり変わらない……ほんの数メートルの高さの違いに、お父様は一体何の誇りを感じていたのだろう? こんなもので満たされる自尊心なんて、ちっぽけなものだ。



 ……それにしても、一向に三階の窓には動きがない。影もよぎらない。もしかして、まだ屋敷が燃えていることに気付いていないのか?

 ぼちぼち脱出する人間も出てきた頃だ。主役が現れるまでの間、虫でも片付けていよう。


 まずは一階の窓から這い出てきた丸腰の使用人を、手にしていた剣で貫いていった。

 使用人の部屋は地下にある。確実に火を回すために地下への通路に誘導の油を引いておいたお陰で、しっかりと行き届いてくれたみたいだ。脱出した人数は住み込みの数に比べて明らかに少ない。ほとんど逃げ遅れたみたいだな。

 出てきた使用人はどいつもこいつも、”どうして?”って顔をしてる。火の手から逃れたと思ったら、仕えていた屋敷の子供に襲われるんだ。混乱するに決まってる。


 でも、当然の報いだろう? お前らみんな、コデリーの側に付いたじゃないか。

 気持ちは分かるさ。そりゃ、こっちに味方したって得はないんだ。お父様に目を付けられ、コデリーには滅茶苦茶な嫌がらせを受けて、お母様からは出来損ないの次男と同じ体罰を与えられる。味方してとばっちりなんか受けたくないよな。

 でも、嘲笑うのは違うだろう。傍観ならまだしも、お母様やコデリーと一緒になってイジメに加担する奴らに情けをかける価値なんかないさ。


 煙を吸って満足に動けない使用人達を一方的にいたぶる。他人が恐怖を目の当たりにしている姿を見下ろすのは、正直ゾクゾクする。

 今まで下に見てた子供からやり返される気分はどうだ? 身分の低いお前達が、堂々と貴族をこけにできて楽しかったんだろう?

 いつも体罰や嫌がらせを受けている時に、”どうしてみんな、こんな酷いことができるんだろう?”って考えていたけれど、今なら分かる。これは確かに、楽しいよな。



 これが強者の目線。

 コデリーが見ていた世界。

 人の命を奪うのは快感だ。それが自分を虐げていた相手であればあるほど。



 屋敷を周回して、生き残りを見つけ次第とどめを刺していく。

 スカートが燃えてはしたなく膝を露出していた女を始末すると、そいつが最後だったのか、それ以上屋敷から人が出てくる様子はなかった。

 まだ落ちてこないのかと三階に目をやると、ちょうど窓の向こうに人の姿があった。

 やっと意を決したのか、待ち望んでいた一人……お母様は、顔をこわばらせながら飛び降りた。



 ドサッと、重い音がする。同時に細い木の枝が折れたようなポキッという音と、”ギャッ”と潰れたかえるのような醜い悲鳴が聞こえた。

 時間も時間だし、きっと眠っている最中だったんだろう。靴も履かず無謀にも裸足で飛び降りたお母様は、強い衝撃により折れた膝の骨が皮膚を突き出てしまっていた。しかも両膝。


「グギャアアアアアアッ”!!?? イ”イ”ッ”、イ”イ”イ”ィ”ィ”ーーーーッ”!!??」


 あの汚れることを何より嫌うお母様が、声にならない声を上げて、汗だくになって頭を振り乱している。

 ははっ……おいたわしや、お母様……この骨のせいで痛むのですね? 今、元に戻して差し上げます。


 まず左膝から。とげのように鋭い骨が飛び出している部分は避け、膝と太ももの中間辺りの腫れ上がった部分に手を添え、ギュッと押し込む。



 ―― ”ゴリッ”。



「ビャ”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ア”ッ”!!??」


 そこはちょうど、折れた骨同士が重なり合っていた部分だった。ただでさえ骨折と内出血で痛みが発生している所に外部からの圧迫が加わり、動いてこすれ合った骨がまた新たに痛みを生み出したみたいだった。

 お母様はどこにそんな力が残っていたのか、バッタのように跳びはねてその場から離れた。人間は案外しぶといものだ。遠のいた彼女のために、こちらから歩み寄ってやる。


 お母様は両手を振り回し、必死に”来ないでくれ”と叫んで暴れた。動くたびに骨が突出している場所からドロリと血が溢れる。

 手が届かないギリギリの間隔で立ち止まってやると、お母様は泣きじゃくってぐしゃぐしゃになった顔でこちらを見上げ、使用人達と同じ台詞を吐いた。


「なっ、なん、でぇっ……!?」


 ……それは、何でこんなことをするんだ、って意味ですか?

 服を脱いであなたにつくられた体中の傷を見せれば理解してもらえますか?

 

「ふ、ぅぅぅ……ッ”!! ぅ、産まなきゃ……お”まえなんてッ”、産まなぎゃッ”……こんなイ”イとごなじ……ッ”!!」


 ……どうして、この状況でわざわざ相手の神経を逆撫でするようなことを言うんだ。不利になるって分からないのか?

 あなたのことが分からない……幼い頃から、ずっと……。



 ……とりあえず、もう片方の足も同じようにしてあげよう。

 屋敷の火の光を映した真っ白な細足に手を伸ばすと、お母様はなんとか逃れようと再度暴れだした。一度顔を引っ叩いてさっき痛め付けた左膝を踏んでやったら、すぐに汚い悲鳴を上げて大人しくなった。

 この人だって初級の魔術くらい覚えているはずなのに、貴族の女は結婚したらすぐ男の影に隠れて学ぶことを放棄するから、こうやって有事に対応することができないんだ。日頃から訓練している人間だって、混乱する頭じゃ複雑な形の古代語を思い描くことは難しい。普段着飾って踏ん反り返っているだけの女ができっこないんだ。


 膝を刺激しないように、腕の力だけでずりずりと後ずさりするお母様……大股を開いて服の中を露わにして、貴族にあるまじき行為だ。

 右側に回って依然飛び出たままの膝の骨を上から蹴り付けてやると、お母様は白目をむいてのたうち回った。


「アギィ”ィ”ィ”ーーーーーーッ”!!?? ン”ーーーーッ”!!!! ふぅ”ーーーーッ”!!!! ン”ーーーーッ”……!!!! う”ぅ”ぅ”ッ”……おま”ッ”……ゆぅ”じゃなぃッ”……!!!! ぉぼえ”でッ”……ふぅ”う”ッ”……!!!!」


 上手く喋れてはいないけれど、何を言いたかったのかは分かる。

 お母様はまだ”上”にいるつもりだ。いつまで見下しているつもりなんだ? あなたは今、許しを乞わなければいけない立場なのに。



 地に伏せた後頭部をグリグリと踏みにじると、くぐもった声と息遣いが足の裏から伝ってきた。

 女は嫌いだ。特にお母様のように化粧臭く、媚びた声で男に取り入り、他人の地位を利用して己の体面を保つような中身のない女は大嫌いだ。

 この人は、自身の腹から落後者らくごしゃが産まれたのが嫌なのだろう。単純な人だから、お父様が嫌忌けんきする人間のことは一緒になって嫌うし、溺愛するコデリーが罰を与えてと言えばその通りに罰を与える。


 人は人を殺すことに理由を求めるくせに、人以外が対象だと誰も文句を言わない。

 牛を殺す。鳥を殺す。魚を殺す。虫を殺す。どれも人じゃないから、飢えを満たすため、生存競争のため、快楽のために殺されてしまう。


 じゃあ人と人以外の生物の違いは何だ?

 今の自分に問うたならば、それは”人間が汲み取れるだけの意思があるかどうか”と答えるだろう。


 個としての意思の欠如。

 ”これ”は本当に、人間と呼べるのか?



 もっと時間を掛けて丹念になぶってやりたいが、そろそろ一番の獲物がやって来る頃合いだ。

 手入れされた癖のない髪を引っ掴み、泥だらけの顔を無理矢理上げさせる。手にしていた剣の先で、額から顎にかけて走る大きなバッテンマークを描いてやった。またヒイヒイと無駄に高い声で泣き出すお母様に、罪人に施されるような傷をつけてやる。

 そして腹を……自分がこの世へと産み出されてしまった悪しき袋へと、何度も剣を刺した。何度も刺しては引き抜き、刺しては抜き、刺しては引き抜き……。


 何回繰り返したかは分からない。お母様は膝の方で相当参っていたのか、最期は叫びを上げることもなく、小さな呻きを吐き続けて、気が付いた時には動かなくなっていた。



 あれほど……あれほど自分を痛め付けていたお母様が、もう死んだ。

 毎日のように鞭を振るったあのお母様が、冬に暖炉のない部屋で裸で過ごせと命じ、遊び感覚で食事を抜いたあのお母様がっ、受けた仕打ちを挙げれば切りがないっ、あのお母様がだっ!! こんなにも惨めな死を迎えるなんて!!


 味わったことのない興奮に気持ちを抑えることができず、最後に一発、遺体となった母の横腹に蹴りを入れた。切り口からこぼれ出た臓物が辺りに散らばり、胸の高鳴りは一段と大きく響く。

 興奮と、同時に過去に受けた仕打ちへの怒りで呼吸が荒くなる。手の中の剣をぎゅうっと握り締めると、どうしてか無性に今のこいつの様子が気になって、剣身を己の前に掲げて見つめた。


 短時間に多くの人間を斬ったせいで、剣は持ち手から切っ先まで血を浴びてドロドロになっていた。そばで燃ゆる屋敷の炎を反射させ、怪しく輝く剣身に薄く自分が映る。

 物に愛着が湧く性格ではなかったが、こんなにも美しい形をしていたとは……お前も思い知らせてやりたいだろう? ずっと一緒に訓練してきたんだ。生身の人間を斬るのは初めてだったけど、案外悪くなかったよな?




 ……さて、そろそろ出てくるはずだ。

 コデリー、お前は火の中で大人しく死を待つ奴じゃないだろう?


 三階はどの部屋の窓からも暖色の光が広がり見えている。待ちわびる気持ちに答えるかのように、コデリーはついに、あの女と同じ動作で窓の縁に立ち、覚悟を決めて地面へと身を投げた。


 日々の身を鍛える訓練に関しては参加を拒否しているコデリーだが、あの女と違ってこういう時も頭は回るらしい。風を操り、あらかじめ落下位置に緩衝用の空気の渦を作り、着地の衝撃を和らげていた。

 まぁ、和らげただけで痛みが全くないわけではない。肩で息をしながら何度も咳き込んだコデリーは俯かせていた顔を上げると、歪んだ目付きでこちらを睨み付けた。


「ハァ”ッ、ハァ”ッ……!! う”っ、ゴホッ、ゴホッ……―― ハァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ァ”ッ!!?? 意っ味分かんないんだけどぉ!!??? なっ、何してんだよお前さぁっ!? 正気かよ!? 死ぬトコだったんだぞボクっ!? クソがっ、絶対許さないからなっ!! お父様に言いつけてやるっ!! お前なんて地下どころか牢獄行きだっ!! 死刑だっ!! ボクが首をハネてやる!! 死ねよ能なしっ!! お前が死ねよっ!! なんで将来を期待されてるボクがこんなっ、こんっ……ぐっ、ヴッ……お”かあさまぁぁぁぁぁぁ!!!!」



 コデリーは大きな目からこれまた大粒の涙を流し、恨み節を叫んだ。

 お互いの間に転がっている母の遺体に駆け寄り、血や内蔵で汚れることも気に留めずすがり付くコデリー……いつだって肩を張って生きていたあいつが、小刻みに体を震わせて泣いている。

 コデリーのこんな弱った姿は初めてだ。こうして見ると、ただの小さい子供だなと感じる。大好きな母を亡くし、幼子のように泣いて……自分はこんな小さな弟に、今まで怯えていたのか……。



 コデリーに勝つ方法は剣しかない。だから魔術を封じるために火攻めを選んだ。煙で呼吸もままならない状態なら、詠唱することは不可能だと思ったのだ。剣先が触れたぐらいでも奴は簡単に混乱するだろう。そうなれば後は手足を斬り落として、好きにいたぶってやる。

 そういう計画だったのに……コデリーは全然平気そうだ。脱出して早々に叫んでるし、何なら術も発動してた。


 ここはもう、思い切って斬り掛かるしかない。

 もしかしたら母の遺体に縋り付いていると見せかけて、顔を伏せている間に何か大きな術を展開させているのかもしれない。仮にそうだとしてもやるしかないんだ。他に手はない。迷っている暇なんかない――。




 腹をくくり、コデリーに向かって大きく踏み込んだ。

 一歩一歩が物凄くゆっくりに感じられた。視界に映るもの全て、横で燃えている屋敷の火や、草木の揺らめきがとても緩やかだ。


 あと五歩もあれば到達する。コデリー、頼むから顔を上げないでくれ。


 五。


 四。


 三。


 二。


 一。



「ぇ”っ―― ?」



 小さく漏れた頓狂とんきょうな声が耳障りだった。

 コデリーは何もしていなかったのだ。


 肩から入った剣はコデリーの薄っぺらい体内を走って、腹部まで一直線に突き刺さった。コデリーは口からゴポゴポと溢れる血に戸惑いを隠せていない様子だった。

 

 信じられなかった。

 こいつはただただ、死んだ母に泣き付いていただけだったんだ。


 ありえない……まさかここまで……だってこの、この状況でどうして自身に被害が及ばないって思えるんだ? どう考えたって次に襲われるのはお前だろう? 間抜け、間抜けなのかっ? 何で今までお前なんかに馬鹿にされてたんだよ、馬鹿みたいだろっ、お前が馬鹿なせいでこっちまで馬鹿みたいだっ!! もっと賢く抵抗してくれよっ!? 実は詠唱してましたってさぁ、ニタニタ笑ってののしれよっ!! 何でこんなっ、こんなっ……今まで我慢してたのが、馬鹿みたいじゃないかっ……!


「ひ、きょう……もの……」


 コデリーはそう呟いて、湧き上がる血に咳き込んだ。


 目が合った。

 大きな目が。

 やめてくれ。

 早く死ねよ。


 グズグズと泣きながら、コデリーは母の遺体の上に倒れ込んだ。

 最期のその時まで人のぬくもりを味わおうとしているのが許せなくて、咄嗟にコデリーの足を引っ掴み、割れた窓から屋敷の中へと放り投げた。


 どうだよ、お得意の炎に包まれて……こっちの方がいいだろう? いつも術を見せびらかしてたもんな、あの女の体よりもあったかいだろう?




 ……。




 ……。




 ……。




 呆気ない。

 復讐って、こんな呆気ないものなのか。


 こんなすぐに終わっても何も感じない。まだまだこっちの恨みはたくさん残ってるのに。
















 胸ポケットから紙を取り出す。一枚だけちぎってきた、日記の最後のページ。

 あの時はつい舞い上がって書き残してしまったけど、こんなもの、残していいことなんてないからな。

 切れ端を掴んだ手に魔力を込めて、詠唱してみる。


 ”火よジジャ”。


 ……やっぱりダメだ、兄弟みたいに上手くできない。火は起こらない。こんな紙切れ一枚、燃やすこともできないなんて……。

 結局才能が物を言う世界において、凡庸な人間が生き抜くすべはないんだ。どれだけ天才に並ぼうと努力しても、天才が努力をしたらその差は永遠に埋まらない。魔術師の世界は残酷だ。もし違う生まれだったら……もっと優しい親がいて、兄弟は自分以下の能力で、何より、一緒に遊んでくれる友達がいたら……。


 紙を丸め、轟々と燃える屋敷に向かって投げる。

 一瞬で姿を消した憎しみの欠片にむなしさを覚えながら、力の抜けた体で屋敷を眺めた。






 ……さて、これからどこへ行こう。とにかくこの場から離れて……いや、この国から離れよう。

 二度と近付かない。ずっと逃げ続けるんだ。母とコデリー、使用人もたくさん殺した。後には引けない。これから一人で生きていくんだ。そういう覚悟をしたんだ。もう復讐は終わった、これで自由に生きて……。



 ……もう終わった?

 何が終わったっていうんだ、さっき始まったばかりだろう? 何も終わってない、何も……。



 なぁ、おい、待ってくれよ、何も終わってないっ、こんなもんで十年間の復讐になるわけないだろうっ!? 何死んでるんだよっ、勝手に死ぬなよっ、鞭を打ってやるんだっ!! 飲まず食わずにして家具も置いてない部屋に閉じ込めてやるっ!! お前らが馬鹿にしてる平民の前で無能扱いして晒し者にしてやるっ!! 魔術の練習台っ、いや剣の練習台にしてやるっ!! 弓の的にして射ってやるっ!! クソッ、全っ然思い付かないぞっ!? とにかくそれだけやってようやく”命を奪ってやるか”って思い始めるぐらいなんだっ!! 足りないっ、全然やり返し足りないっ!! 死んでも生き返れよっ!! 何度も何度も何度も殺して殺して殺して永遠に苦しめてやるんだっ!! お前達だけ勝手に痛みから解放されるなよぉ!?


 全然っ……全然足りないっ……全然足りないのにっ、俺はこれから……今まで以上のさげすみの目を向けられるのか……?


 だって、俺のせいじゃないのにっ……元はと言えば、お父様が一族の伝統を無視したせいなのにっ……! みんなで俺をのけ者にするよう命令してっ、何であんたの失敗で俺が被害をこうむるんだよっ!! 何でっ……どうしよう……帰ってきたらお父様、カンカンに怒るだろうなぁ……逃げられるかな……? いや……逃げられるはずがない……っ、絶対に殺されるっ……!! おっ、俺を殺しにやってくるっ!! 捕まって酷いことをされたらどうしようっ、楽な方法なんて選ばないはずだっ!! コデリーが言ってたみたいに、本当に地下牢に繋がれたまま餓死するまで一生拷問されたりとかっ……?


 どっ……どうしようっ、どうしようどうしようどうしようっ!? 何でこんなことになっちゃったんだよっ!? どうして俺だけこんな目にあわなきゃいけないんだっ!? 俺はただっ……誰も守ってくれないから、自分で守っただけなのにっ……誰かが俺の苦しみに気付いて、そばにいてくれたら……俺だってこんなこと……。
















「……ぃ、……ーい」


 ……どこからか声が聞こえる。

 誰だ、まだ生き残りがいたのか!? 街から人が集まって来る前に殺さないとっ!!

 一体どこにっ――。



「おーい、マギソーン」



 その声は……焼け落ちる屋敷から……業火の中からやって来た。

 普通の人間が炎の中を平気で通り抜けれるわけがない……魔術師か? いや、雇いの魔術師なんて屋敷にはいない……じゃあ、あいつは……?



 人型の黒い影が手を振ってこちらに歩いてくる。

 誰なんだ? 男の声だ……誰……誰だ、マギソンって? あいつも、あいつの言うマギソンって奴も、俺は知らな―― 。



「いっそイカれて楽しんだ方がいいだろう?」



 気が付けば男は目の前まで迫っていた。

 珍しい紫色の瞳をした男が、実に楽しそうな笑顔を浮かべて立っている。

 掲げられた手には、絶命時の凄絶せいぜつな表情を貼り付けたままの母の生首がぶら下がっていた。母の遺体は足元にあったのに、いつの間に切り取ったんだ?

 しかし、肉親の頭を知らない奴が持っているというのは何とも不気味だが、最期の呻きがもう一度聞こえてきそうなその滑稽こっけいな表情は何とも笑えてきて……変だな、さっきまで大きな孤独感に飲まれそうだったのに、どうして笑えるんだろう。


 一度のまばたきの後、男の背後にあったはずの屋敷は消え、空っぽだった己の左手にはコデリーの生首が収められていた。

 さっきの男と二人きりで、荒野の真ん中で突っ立っている……赤い空の下、痩せた大地に列になって横たわっている使用人達の遺体を前に、知らぬ間に隣に移動していた男が俺の背中をポンッと叩く。


「ほら、さっさと終わらせて、ここに帰ってこなきゃ」


 終わらせる……? 何を…………あぁ、そうだったな。まだ終わってないんだった。


 お前の言うとおりだ。

 終わらせて、地獄ここに帰ってこよう……そうしたら、次は――。
















 目を開けると、目の前には不審に揺れる人影があった。

 暗い室内で、形の良い目が猫の目のように光って見えた。

 こちらを捉えて……大きな目……? コデリー?

 お前、いなくなったはずじゃ―― 。


「おーい、だいじょうぶ――」

「うわああああ!!!!」

「バァッ!? てっめっ……何すんだボケェッ!?」


 相手の顔面に向けて拳を放つと、あの女に近い高い声とは別の……低い男の叫びが部屋中に響いた。

 目を凝らすと、そこにいたのはコデリーじゃなかった。ベッドの脇で尻もちをつき、鼻を押さえながら恨めしそうにこちらを睨み付ける、夢の中と同じ瞳の色の男……。


 現実に戻ってきたんだと理解した。

 夢だったんだ。いつもの夢。けど、今回は少し違った。

 起こすためにこいつが俺に声を掛けたせいなのか、普段とは違う終わり方だった。いつもなら父と兄に追われる恐怖の最高潮で目が覚めて、ラトミスに縋ってしまうというのに……今は落ち着いている。


 あいつは突然殴ったことへの文句が尽きないみたいで、目を見開いて何かを喚いている。痛みがないなら問題ないだろうに。真面目に聞く気もないので、内容が全て雑音となって耳を抜けていく。

 いつもなら……起きてすぐに寝直そうなんて思わないのに、珍しいことに二度目の眠気が自然に降ってきた。いい加減に文句も煩わしいし、寝汗の不快感が多少気になるが、適当に短い返事をしてまたベッドに横になった。


 不服そうな声を背中で受け止め、眠りにつく。

 今夜を境に、もう悪夢を見ることはない気がした。

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