そして、腐蝕は地獄に――

ヰ島シマ

第一章 出会い、敗北、勝利

1.目覚め

 地獄は全てが赤であり、黒である。

 生ける山は亡者もうじゃを吸い込み、噴火と共に吐き出し翻弄ほんろうする。ちし者の涙でできた河は、怨嗟えんさの声を上げながら激流で周辺のあらゆるものを飲み込んでゆく。谷底から吹き抜ける風は狂気を乗せ、触れた者の正気を奪う。


 ここは地獄。全てが赤であり、黒である。




◇◇◇




 耳をつんざく悲鳴でベルトリウスは目を覚ました。

 うつ伏せている顔を横に向けると、目の前には筋のような模様が浮いた赤い岩が現れた。なめらかな表面から薄っすら浮き出たそれは、まるで生き物の血管のようで……―― 血管?


 ベルトリウスは酷い倦怠感けんたいかんに耐えながら顔を上げた。

 そこにいた……こいつは何だ?


 体の造りは人間だが体躯たいくは遥かに大きく、膝の位置から推定するに全長四メートルはあるのではないかと呆然と考えてしまう。

 手足も見合った大きさをしており、明らかに自分が知る”人間”ではない。何よりおかしなのが頭部だ。人間と同じ形の目鼻耳が同部分に付いているものの、口だけがどこにも見当たらない。同様に唇も存在しないので、鼻下の凹凸おうとつがなく何とも言いがたい違和感を生み出している。

 産毛うぶげの一本すら生えていないツルツルとした肌がまた例えようのない焦燥感を急き立てていた。一刻も早く相手と距離を取らねばと体を起こそうとしたその時、ふと、どこか遠い所を見つめていた巨人がこちらに視線を落とした。


 白目部分の無い、墨で塗り潰されたような漆黒の瞳に見つめられ、ベルトリウスは全身からドッと汗を噴き出した。

 目の前に異形の生物がいて不安をあおられない者はいないだろう。一度ぶるりと大きく震えた後、ベルトリウスは先程の倦怠感をすっかり忘れ、弾けたように立ち上がって駆け出した。


 が、三歩。

 たった三歩進んだだけで、ベルトリウスの頭は無常にも巨人に掴み取られた。


 痛みと恐怖で引きつる顔……巨人はベルトリウスの頭部を握り締めたまま、その手を自身の頭上まで高々と掲げた。急に全身の支えを足から託された首はゴキゴキと聞いたことのない音を骨を伝って響かせ、舌はどんどんと喉へ下がり呼吸が困難になる。

 生理的な涙があふれる中、せめてもの抵抗で巨人の手を叩いたり爪を立てたりしてみたが、巨人は気に留めずベルトリウスを連れてどこかへ歩き出した。

 激痛に思考を支配されながら、迫る死期から何とか逃れようと藻掻もがき続けていたところに下方から凛とした女の声が届いた。


「それは私のところに持ってくるように伝えておいたでしょう。やはり知能が低いと使えないわね」


 高圧的な物言いに巨人は動きを止めた。

 もしかして、と……ベルトリウスはこの状況から解放されるかもという一縷いちるの希望に胸を高鳴らせた。頭を掴まれているため姿を確認することは叶わないが、巨人に命令する立場であるには違いない。


「とりあえず、それを離しなさい。んでもって、他のやつを痛め付けなさい」

「ムゥゥゥゥ……」


 初めて聞いた巨人の声と共に、頭を圧迫していた手はパッと離され、ベルトリウスは背中から地面に落ちた。

 頭から背中からあちこちが痛むが、まずは自分を救ってくれた女に目を向ける。


 腰まである外はね気味の長い黒髪。燃え盛る炎のように赤い瞳は、真っ直ぐこちらを見据みすえている。白い肌を隠しながらもピッチリと張り付いたように体の線を強調する黒皮のドレス、同じ素材でできた顔の半分を覆うマスクと……妙な格好をしている割に、どこかなまめかしさを演出した女だった。


 巨人を従えるような者なのだから同種の巨大な女なのかと思ったが、予想に反して普通の、二十代後半ほどの若い人間の女にしか見えない。

 つい食い入るように見つめていると、女は見下した様子を隠そうともせず冷たく言い放った。


「あの程度に慌てふためいて……本当にお前でいいものか」


 発言の真意は分からなかったが、それだけ呟くと女はベルトリウスに背を向けて歩き出した。

 どこへ行くのか、今の台詞はどういう意味なのかと尋ねようとしたが、いらぬ質問で彼女に敵意を向けられるとも限らず、ひとまずは後を追うことにした。去り際に散々可愛がってくれた巨人を振り返ってみると、先程己が捕らわれていた大きな手にはすでに新たな獲物が悲鳴を上げて収まっていた。混乱していて気付かなかったが、巨人の足元には大きな……巨人すらゆうに飲み込めるほどの大穴が空いていた。

 巨人はその穴にゴミを捨てるかのように手中の人間を放り込むと、穴はどこから取り出したのか、びっしりと生えそろえた歯で人間を挟み捕らえた。

 そして、穴は咀嚼そしゃくを始めた。バキッ、ネチャッ、ネチャッ、ガリッ! と、骨肉をすり潰す嫌な音が辺り一帯に鳴り響く。

 もう少し彼女が声を掛けるのが遅ければ、自分は今頃……。


 ベルトリウスの脂汗はしばらく引くことはなかった。




◇◇◇




 あの巨人と大穴から離れて数分、二人は無言で歩き続けた。

 進めど進めど続くのは赤い空と荒野ばかり。時々枯れ木があるものの、取り立てて面白いものはなかった。

 それでも逃走することなく女の背を追っていると、前方に丸い影が見えた。


 ―― それは卵だった。

 あの巨人と同じくらい大きな卵。周辺は相変わらず枯れ木しかない荒野だが、その中にポツンと存在しているこれは明らかに異質だった。

 女は卵の横に並ぶと、ベルトリウスに向かって手招きをした。促されるまま近くに寄ると、かすかにだがドクン、ドクンと卵が脈動みゃくどうしているのを感じた。

 中に何かいるのは確かだが……これを見せられた意図が分からない。

 彼女に視線をやると、先程の刺々しさとは打って変わって柔和な笑みを浮かべていた。目が三日月に細められているので、マスクの下では笑みがつくられているのだろう。今なら質問しても無事に答えが返ってくるかもしれないと、ベルトリウスは思いきって口を開いてみた。


「あの、これ、何が生まれるんですか?」

「名前」

「え?」


 彼女はにっこりと笑った……ように見えるまま、答えた。


「まずは自己紹介でしょう? 初めは目下の者からよ。まさかお前、名がないの?」


 初めての対話は良好とは言いがたかった。雰囲気が少し和らいだと思っていたが、彼女のとげのある台詞に少々面食らう。初対面の相手に堂々目下扱いされるのは気持ちのいいことではないが、彼女の機嫌を損ねてまたあの化物共を呼ばれてもかなわない。


「ベ……ベルトリウスです。さっきはその、ありがとうございました……」

「ふふ。かまわないわ。私もまさか用がある亡者が消えにかかってるなんて思わなくてね。”獄徒ごくと”になる者だから特別な力でも持ってるかと」


 頭を下げながら礼を言うと、彼女は満足そうに答えた。


「ごくと……?」

「そこ、ひざまずいて」


 聞き慣れない言葉に引っ掛かり、説明を求めて復唱してみるも彼女は取り合わなかった。こちらの動揺をまるで無視して伸ばされた細い人差し指は、彼女の足元を差していた。

 有無を言わせぬ圧に屈したベルトリウスは言われた通り前に出て、すらりと伸びた足の先で罪人のように両膝をつき、頭を下げた。


「私の名はエカノダ。ベルトリウス、私のために死ぬ覚悟をなさい」


 後頭部に手を乗せられた次の瞬間、身体が急激に沸騰ふっとうしたように熱くなった。加えて頭の中を掻き混ぜられているような、味わったことのない不快感が襲ってくる。

 目を開いているはずなのに視界は真っ黒な”光”で埋め尽くされ、まばたきも呼吸も忘れて全身の感覚という感覚を起動させられるような、形容しがたい衝動が巡り巡る。


 巡り巡って……。

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