蚊帳の外にミジンコ

池田蕉陽

1


 ピロン、と電子音が鳴った。延いて「受付番号42番のお客様、4番窓口にお越しください」とアナウンスが流れた。


 42という数字は照屋哲夫てるやてつおの脳内でこびり付くように刻み込まれている。なので哲夫は自分の番号を確認することなく立ち上がることができた。番号が書かれた紙は、既に彼のポケットの中でくしゃくしゃになっていた。


 4番窓口の椅子に座ると、男が対面した形で哲夫を迎えていた。髪を七三に分け、眼鏡をかけた、紺色の背広の、清潔感のある、若い男だ。銀行マンか市役所職員を哲夫は連想した。


 しかし、その男がどちらでもないことを彼は知っていた。だからといって、男を呼ぶのに的確な名称を知ってるわけでもない。そもそも哲夫は、ここがどういう場所なのかも、いまいち理解できていないのだ。唯一確実にわかっているのは、ただ一つなのである。


「ようこそ、来世選別輪廻支援センターへ。この度、照屋哲夫として天寿を全うされたことを心よりお祝い申し上げます」


 男は丁寧に頭を下げた。ジェルで固められた男の頭髪を見ながら、やはり俺は死んだのだと改めて哲夫は認識した。


「天寿を全うって、長生きした人に対して言うことでしょ? 俺はまだ38で、交通事故で死んだんです。しかも家族を残してね。何がお祝い申し上げる、ですか」


 哲夫の声は意識せずとも荒くなる。彼は長時間待たされたことで既に苛立っていた。本来哲夫は豪放磊落ごうほうらいらくな男である。哲夫を憤らせてるのは彼を轢いた運転手、そして現世に取り残された妻の愛理と5歳になる息子の翔悟の存在だった。


「そちらでは、天寿を全う、は生き尽くした時にも使うと聞いております。照屋様は不運にも轢かれたと思われでしょうが、実は照屋様が産まれた時から決まっていた事項なのです」


 哲夫の眉は真ん中に寄せられた。


「決まってただって?」


「はい。詳しいことをお教えすることはできないのですが、照屋様の前世が関係しているのです」


「俺の……前世?」


 哲夫は自分の額を何度も摩った。困った時にする彼の癖だった。


 哲夫は生前、スピリチュアルに関しては眉唾ものだとあしらってきた。対して妻の愛理は逆で、哲夫はよく手相占いの相手をされた。愛理に「てっちゃん生命線が短いから長生きできないかも」と言われたが、彼は耳を傾けなかった。


 それが死んだ今となっては、何故か意識があり体も動かせるし、市役所みたいではあるがあの世も存在した。それに――哲夫は自分の右手の掌を見つめる。哲夫は妻に教えてもらった生命線を探そうとした。だが、彼にはどれが生命線かわからなかった。


「どうかされましたか?」


 様子がおかしいと思ったのか、男が聞いてきた。


「こんなことなら妻の話をちゃんと聞いとくべきだったなって」


「と、いいますと?」


「妻の手相占いで、生命線が短いから長生きできないって言われたんですよ」


「はあ、手相占い。そんなものがあるんですか」


 哲夫は顔を上げた。「え、知らないんですか?」


「ご存知ないですね。でもそちらに出回ってる占いはたいてい眉唾ものですので、特に関係はないと思われますよ」


「え、あ、そうなんですか」途端に哲夫は恥ずかしくなった。


「まあ娯楽として楽しむのなら構わないかと。それですみません。こちらとしては時間があまりないので、話を進めてもよろしいですか?」


「あ、はい。どうぞ」さっきまでの怒りは消化していた。


「照屋様にはこれから、どのようなコースで来世を全うするか決めていただく必要があります」


「はあ、コースですか」


 生命保険に加入した際のことを哲夫は思い出していた。今の状況に酷似しているからだ。彼は書類に印鑑を押す時、こんな早くに役立つとは微塵も思わなかった。


「まず照屋様の場合、この2つからお選びすることができます」


 男はタブレットのようなものを取り出して、画面を哲夫に見せた。『脊椎動物』『無脊椎動物』と大文字が出ていて、その下に代表生物の絵が描かれていた。脊椎動物は人間で無脊椎動物はミジンコだった。


「これ今、来世決めてるんですよね?」


 念の為、哲夫は確認したかったのだ。はいそうです、と男は答えた。


「植物はないんですね」


「ご希望なら承ります。他にもモネラ、原生、菌もございます。ただ余りにも人気がないので、ご希望がない限りは省かせてもらってるのです。前に一度あったのは、インフルエンザウイルスはないかと聞いてこられたお客様がいました」


 どういう人生を送ればそのような発想に至るのだろう。


「そういえば、あの世でもインフルエンザとかモネラとか使うんですね。どちらも人間が考えた名前じゃないですか」


「それをおっしゃるなら今こうして喋ってる言葉だってそうですけど、便利なのでお借りしてるだけです。話せないと進められないですからね」


 男は笑った。それもそうだ、と哲夫は納得した。


「それで、照屋様は植物をご希望ですか?」


「いや」彼は慌てて手を振った。「気になったから聞いてみただけなんです。んーそうだな」


 哲夫は迷う素振りを見せるが、それは本当にただの素振りに過ぎなかった。


「まあこっちだろうな」


 哲夫は脊椎動物をタッチした。タッチした後、代表生物としてミジンコが描かれていたら、誰も無脊椎動物を選ばないのでは、と哲夫は疑問に思った。そこでふと、男が口にしていたことを思い出した。


「さっきあなた、俺の場合はこの2つから選べると言いましたよね」


「はい、そうおっしゃいましたが」


「無脊椎動物しか選べないケースもあるってことですか」


 はい、と恐ろしいことに男は頷いた。


「現世で特に問題を起こさなかった照屋様は大丈夫なのですが、中には殺人などの非人道的な行為を犯した者に関してはそのようなケースもあります。また、それを積み重ねた者に限っては、強制的に大腸菌、納豆菌になる場合もございます」


 本当に恐ろしい話だった。さらに男は恐怖を煽るようなことをいった。


「明確な殺意を持って人1人殺したとなると、強制的にミジンコにされることがほとんどですね」


 小学生の理科の実験の時に顕微鏡で観察したあのミジンコは、前世で殺人犯だった可能性があるわけだ。


「人殺しした者は地獄に落ちるってのは、よく聞きましたけど」


「地獄は人間が創り上げた概念です。天国も然りです。あの世には天国も地獄もごさいません」


「そうだったのか」


 哲夫はあの世に終着してから、ここは天国だと勝手に決めつけていた。明らかに想像する地獄ではなかったからだ。だからといって、想像していた天国とも違うが。だがどうやら今ここにいるのはどちらでもないようだ。


「では、脊椎動物を選んだ照屋様は、次にこちらから選んでいただく必要があります」


 再びタブレットを渡された。画面には先程と異なって、より細かく分岐されていた。上から順に『哺乳類』『鳥類』『爬虫類』『両生類』『魚類』が並んでいる。また先程と同じように名前の横には、それぞれの代表生物の絵が描かれていた。


「んー、まあ、これだよな」


『哺乳類』と書かれたところに指を置いた。鳥になって空を飛び回りたいと一度考えたことはあるが、本気で鳥になりたいのかと問われれば哲夫は首を横に振るだろう。


「では次に……」


 また画面が切り替わる。画面中に哺乳類生物の名前が一覧になっている。人間、猫、犬、鼠……。


「んー猫か」


 哲夫は二十歳になるまでは猫を飼っていた。その二十年の間、呑気に眠るペットを見て、猫になれたらどれほど良いかと考えたのは数多に及ぶ。


 だがこれも実際、人間か猫かを選ぶ局面に出くわした時、哲夫は簡単に猫を選べなかった。猫になれたらいいのにという願望は、これから待ち受けている困難から逃れたいという心理が働いているだけに過ぎないのだ。つまるところ、彼は人として生きたかった。


 哲夫は人間を選択した。それから次に性別を選ばなければならなかった。選択肢は三つあった。男か女かランダムの三つだ。これに関しても彼は即決した。次に生まれ変わるとしても男でありたいという考えは頑として持っていたことだ。女は色々と面倒くさそうだからだ。生理やら妊娠やら。特に出産の痛みを耐えれそうになかった。


「照屋様は来世も人間の男、ということでよろしいですか?」


「はい。あ、ちょっと気になったんですけど、いいですか?」


「なんでしょう」


「人間以外を選択する人って、どれくらいいるんですか?」


 哲夫としては、それを選択する人は少ないだろうと踏んでいた。生前では次に生まれ変わるなら……と想像を巡したりもするが、いざ来世を決めるとなると結局生きていた頃の楽しい記憶が蘇って人間を選んでしまう。事実哲夫がそうだった。


「あまりいませんね」


 男の回答は哲夫の予想通りであった。


「やっぱりそうですよね。バランスとか大丈夫なんですか? 植物とか菌とかマイナー動物とか絶滅危惧種になるんじゃ」


 すると男は口元を綻ばせた。


「よく聞かれます。でもご安心ください。さっき申したのは、人、の場合です。ここは人専門のセンターですが、他にも猫や犬、もちろん菌や植物、全ての生物のセンターがございます。そしてだいたいの方が、現状の姿を来世でも希望なされます。やはり生前の時の楽しい思い出を忘れられないのでしょう。そこは人と同じなのです」


 なるほど、と哲夫を何度も首を縦に動かしていた。植物や菌の楽しい思い出というのはよくわからないが、どの生物も現状の姿を来世でも選ぶことには納得できた。


「では、次に進んでもよろしいですか?」


 まだあるのか、と哲夫は肩を落とした。男は彼の心境を察したのか「次で最後ですよ」と微笑んだ。


「照屋様には、両親プランを決めていただきます」


「両親プラン?」


「簡単に言えば、来世でお世話になるご両親を選んでいただきます」


 それには驚いた。


「え、こっちで両親選べるんですか?」


「はい。実は照屋様のお母様とお父様も、前世の照屋様がご自身でお選びになったのですよ」


「へぇ、そうだったのか」


 俄に信じられなかったが、この男が言うのなら本当なのだろう。


 哲夫はごくありふれた一般の夫婦の元に生まれたが、家庭は間違いなく幸せで満ち溢れていた。それは哲夫と愛理と翔吾の3人でも同じく言えることだ。両親は共に健全で余生をのんびりと過ごしている。息子である自分が先に逝ってしまったことは二人に申し訳なかったと思ってる。


「では、こちらからお選びください」男がタブレットを渡してきた。「スライドすると、別の両親の情報に切り替わります」


 画面には男と女と子供の写真が映っていた。無論、夫婦とその子供なのだろう。子供は三歳くらいでふっくらとした男の子だ。旦那の方は中肉中背で平凡そうな顔をしている。ただ、奥さんの方はまさに絶世の美女だった。写真の下に書いてある情報を読んでみると、「うむ、なるほど」と得心した。どうやら逆玉らしい。


 幸先いいぞ、と興奮していると、一番下の方に『プレミアム会員限定』と書いているのが目についた。


「あの、プレミアム会員ってなんですか?」


 男は「あっ」と声を出した。「申し訳ございません。お伝えするのを忘れてました。そちらプレミアム会員は、100種類以上の生物で天寿を全うしたお客様のみとなっております」


「あ、そうなんですか。そういうのもあるんですね」


「はい。ちなみに照屋様はただいま52種類以上でゴールド会員となってます」


 52種類も経験してたのかと驚いたが、地球の歴史を考えてみると案外普通なのかもしれなかった。


 哲夫は次のページに移った。すると、今度は写真は一枚しかなかった。女だった。どういうことだろうと彼は説明を読んだ。分かったのは、この女は18歳で腹の中にいる父親は援交していた中の誰かだという事実だった。非嫡出子の場合、どうやら写真は片親だけしか載せてないらしい。ちなみにこちらは会員限定ではない。


 哲夫はさらに次のページに移った。こちらも、あまり良い家庭ではなさそうだった。彼はまた画面をスライドする。情報を少し読んでからまた次へ。その速度が徐々に速くなっていった。これだ、というのが見つからないのだ。


 哲夫の指がぴたりと制止したのは、かれこれ10分が経過した時だった。体に電流が流れるような感覚が哲夫を襲った。彼は無意識にタブレットの画面に顔を近づけていた。


「良さそうなのが見つかりましたか?」


 男は聞いた。哲夫はすぐにそれには答えれなかった。耳には入っていたが、全神経は目に招集がかかっていたからだ。見間違えでないことを確認する必要があった。


「愛理……妻が母親になることだってあるんですか?」


 画面の写真は、紛れもなく愛理だった。翔吾の写真もあった。父親の写真はなかった。哲夫が死んでしまったからだろう。


「珍しいことではありますが……奥さんを見つけられましたか」


 哲夫は無言で頷いた。頷きながら写真の下の情報を読んでいた。哲夫に関することが書かれていないか探しているのだ。だが、それらしき情報はなかった。なかったが、必要もなかった。哲夫としては確証を得たかっただけで、本当は何が起きているのか分かってるつもりでいた。


 最近、愛理との夜の営みでは避妊をしていなかった。二人目を作ろうとなったからだ。目の前の画面に愛理と翔吾がいるのは、妻のお腹に哲夫の子が宿ることを意味していた。この上なく歓喜に満ちたが、何より彼を舞い上がらせたのは、もう一度愛理と翔吾と人生を送れることだった。


「決めました。これでお願いします」


 哲夫は男にタブレットを返した。嬉しさが声にも出てしまっている。


「かしこまりました。では来世の家族を現世から引き継ぐ際の特別プランを今からご紹介させていただきます」


「特別プラン?」


「はい。こういった特殊な場合に限るプランです。どういった内容か申し上げますと、照屋様次第ではありますが、今世の記憶をある程度維持したまま来世に移ることが可能になります」


「え?」


「テレビなどでご覧になったこともあるかと思います。前世の記憶を持つ子供、聞いたことありませんか?」


 聞いたことがあった。世界のニュースを取り上げる番組で家族と見たことだってある。その子は、この特殊プランを利用したようだ。


「ただし、期間は生まれてから5年です」


「5年ですか」


「はい。それに、ある程度の記憶維持と申しましたが、こちらも曖昧でして自分で選べるわけではないのです。もしかしたらどうでもいい日常の一部かもしれませんし、深く印象に残ってる出来事かもしれませんし、はたまた今ここでしてる会話が来世に移るかもしれません」


 何故そんな中途半端なのだろうと尋ねようとしたが、話が長くなりそうなので哲夫はやめた。彼は早く来世に行って、愛する家族と再会したかったのだ。


「なら、一応やっときます」


「かしこまりました。では照屋様、これにて来世の選別を終了致します。ご苦労さまでした」


「こちらこそありがとうございました」


「ここをタップしていただくと、自動的に来世に出発しますので、ご準備が出来次第、お願いします」


 哲夫はタブレットに触れようとした。その時、「あっ」と指を止めた。危ないところだった。哲夫は重要なことを忘れていた。何故今まで忘れていたのか、彼は自分を殴りたくなった。


「すみません。一部変更できないですか?」


「変更……ですか? やはり植物に?」


「違います。性別を男から女にしたいんです」


「あ、それなら問題ございません。こちらで変更してもよろしいですか?」


「お願いします」


 男は馴れた手つきでタブレットを操作した。忙しそうだったが、哲夫はどうしても誰かにいいたかった。


「息子が、弟か妹なら、妹が欲しいと言ったんです」


 哲夫は満面の笑みでいった。男もそれに優しい笑顔で返してくれた。


「では改めまして、こちらにタッチをお願いします」


 哲夫は一つ大きく深呼吸した。それからタブレットに触れる。


 男が「ご武運を」と告げた。しかし哲夫は途中で消えてしまったので、彼の耳に届いたのかは不明であった。























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