第45話 結実


「2アウト! このバッターで確実に切るわよ!」


 守る蘭華女子の扇の要、大矢優姫乃はチームメイトたちを鼓舞するように声を張り上げてからホームベースの後ろに腰を下ろした。

 慣れ親しんだポジションで小さく息を吐きながら打席に入る少女へと目をやる。


「プレイっ!」


 それは蘭華守備陣がタイムを取っている間、彼女が素振りもせずにベンチ内でチームメイトと何やら話し込んでいる姿を目にしていたからだった。

 前の打席はほとんど完璧に近い形で三振に切っている。同点、ひいては逆転にも繋がり得るこの局面で津代葵あの策士が無為に送り込んでくるとは思えない。


「……」


 場面は三度2アウト1、3塁。盗塁スティール☓バントもそれをエサにしたバスターも2度は通用しない奇策。残された作戦らしい作戦はもうひとつしかなかった。


「葵ちゃん! 戻れバック!!」

「……ッ!!」


 優姫乃のサインに従ってマウンド上の涼は1塁へ鋭い牽制球を投じた。


「……セーフ!」


 大してベースから離れていた訳でもないのにタイミングは間一髪。そのたった1度の牽制球で葵は自分の走力ではこの場面で盗塁を決めることが困難であると悟った。

 ランナーを絡めた作戦はもう使えない。そうなればまた、ブラフとなるサインを送って少しでも相手を陽動する他ない……のだか、


「ちょっ……シオリちゃん! こっち見て!」


 肝心の栞李打者が一向に葵のほうへ視線を向けようとしなかった。


「ストライーク! ワン!」


 葵が塁上から気を引こうとしている間にあっさりとファーストストライクを稼がれてしまった。


「審判。ランナーが捕手こちらのサインを盗み見てる可能性があります」

「1塁ランナー! 塁上から疑わしいサインを送らないように!」

「……すみません」


 陽動どころか、その状況を優姫乃に利用され球審から釘を刺されてしまった。これでもう、葵から手助けはできない。


「……はぁぁ」


 先の言葉にウソがあった訳ではない。

 ベンチの選手たちやその他全ての選択肢を考えてもこの場面は末永栞李に打席を与えるのが最適だっただろう。

 しかしそれは、有り合わせの手札の中で比べたらの話。相手バッテリーとの実力差を鑑みれば決して高いとは言えない確率の中での最善だった。

 その実力差を埋めるために立ててきた策も、今しがた底を尽きた。


 あとはもう、一握の可能性に縋る他ない。


「ほんっと、イヤになっちゃうなぁ……」


 初めて顔を合わせた日から、津代葵の目にはその少女が過去の自分と重なって見えていた。

 卑屈で、後ろ向き。何をやるにも予め予防線を張ってしまったり、誰と接するにも適度な距離を取っておかなければ落ち着かなかったり……そのほとんどが皮肉なほど似通っていたのに、ただひとつ、決定的に異なっていたのは彼女が洗練された技術と勝ち上がった経験を持っていたことだった。


 自分が望んでも手に入れられなかったものを持っていたから、この夏を勝ち上がるために必要不可欠な戦力になると見込んでいたからこそ、その忌々しい個性を殺してやりたかった。


「がんばれ……栞李ちゃん」


 例えこの1打席のせいで試合に敗れようとも、彼女が殻を破るその瞬間を期待せずにはいられなかった。


「誰に背中を押されようと、自分を変えるのは結局自分だよ」


 グランドの隅で細々と吐き出した声援エールが、塁間を隔てた彼女に届くはずもなく。


「ストライク! ツー!!」


 続く2球目であっさり2ストライクに追い込まれてしまった。

 このカウントを作った時点で、マスクを被る大矢優姫乃はこの打席の勝利を確信していた。


 この回に入ってからいずれの打席も2ストライク前のカウント球を強打されていただけに、この打席は初球から厳しいコースを攻め続け、いずれも見逃し。

 2ストライクに追い込んでしまえば、そこから先は陽野涼の独壇場。これまでも緩急自在の変化球と正確無比なコントロールで並み居る全国の強打者たちを翻弄してきた。


 それに、この打者のは既に掴んでいる。


「……ボール! ワン」


 続く1球、ボールゾーンへ曲がるカーブでスイングを誘ってみるが、まるで反応なし。

 やはりこの打者は前の打席と同じ。こんな決定的な場面でも自分が決めたいという欲が欠如している。それさえ理解していれば、恐れる必要もない。


 1塁ランナー津代葵の動きも既に封じた。それ以降、ベンチの選手が代わりにサインを送るような素振りもない。おおよそ、チームとして打者を支援する策もいよいよ底を尽きたのだろう。


 次の1球、前の打席と同じ見逃し狙いのチェンジアップ。ここで確実に仕留める。

 そう決心して、優姫乃は手早く決め球のサインを送った。


「栞李……」


 その横顔を、倭田莉緒菜はベンチから固唾を呑んで見守っていた。


 彼女から見た末永栞李の第一印象は、決して良いものではなかった。

 中途半端な笑顔と、ウソだかホントだか分からない言葉で煙のように本音を隠している子。わざわざ目に留めることもない変わらぬ他人けしき


 そんな印象が一変したのは、初めて彼女のプレーを目にした瞬間だった。

 ボールに対する一挙一動が自分や他の新入生たちとは比べものにならないほど洗練されていて、意識せずとも目を奪われた。それはまるで、彼女の過ごしてきた時間を映す鏡のようで。


 同い年の選手とプレーしたことがなかった莉緒菜にとって彼女は、その時から生まれて初めての目標となり、ある瞬間から生活を分け合う友人となり、気がつけば結果を共有する仲間になっていた。


 これまで出会った誰よりも身近な立場から、誰よりも強く“倭田莉緒菜わたし”を信じてくれた彼女だったから、自分と同じようにその眼に映る“末永栞李”を信じたいと思った。そして彼女にも自分自身のことを信じてほしかった。


 この眼に映るものなんて、所詮虚像でしかないのだから。



「大丈夫。! 栞李っっ!!」



 莉緒菜が懸命に張り上げた声援も、彼女にはもう届いていなかった。


 その瞬間、彼女の脳内は仲間の声援とも打席の行方とも関係のないもので埋め尽くされていた。



 “────本気で自分に期待してみてほしい”



 それは、直前に貰ったあの子の言葉。

 その言葉に導かれて、少女はふと自分が野球を始めた頃のことを思い出していた。



 そうだった。あの頃は失敗するかもなんて微塵も考えてなくて。今日は初めてホームランを打てるかもしれない。プロの選手みたいなファインプレーができるかもしれない。チームを勝利に導く大活躍で、みんなから褒めてもらえるかもしれない。試合前の夜は、いつもそんな幼稚な期待で胸をいっぱいにしていた。


 だけど大抵、“夢見た明日”が実現することなんかなくて。


 自分で自分の期待を裏切っては、その度に肩を丸めて落胆して、現実はこんなモノだと薬を塗り込むように言い聞かせて……そんな“現実”を何度も繰り返していく内に、誰しもが皆“期待”を恐れ、“不安”や“逃避”に安寧を覚えるようになるのだろう。


 平凡で順当な私なんかがその例から漏れるはずもなく。怖がりで痛がりな自分とは、もう随分長く付き合ってきた。


「ふぅぅぅぅぅ……」


 今更まっさらな自分に戻れるわけじゃないけれど、今だけはあの子が許してくれたから。私に足りない1歩目をくれたから。


 今この打席この一球この一瞬だけ、私は……ううん、私を疑わない。


「…………ふぅっ」


 マウンド上の陽野涼が足を上げた瞬間、少女の世界が白んだ。周囲の音も届かない。

 ただゆっくりと振り下ろされる指先から白球が離れた瞬間、なぜか自然と母の顔が浮かんだ。


『もー、おかーさん! ちゃんと投げてよぉ。おかーさんの球打ちにくいよぉ!』

『えー、だってまたツメ割れるの怖いんだもん。どうせ私手小さいから二本指じゃ上手く投げられないし』


 それはいつかの夕暮れの記憶。その頃の私は毎日仕事終わりの母親を連れ出して近所のスポーツ施設で気が済むまでバッティング練習に励んでいた。


『あー! また落ちたぁ! これじゃチェンジアップだよぉ』

『もー許してよ〜。むしろその練習になったりするんじゃない?』

『……中学までは変化球禁止だもん』

『そっかぁ。じゃあこれは────』


 その軌道が、目の前の白球と重なって見えた。




『大きくなった栞李への“贈り物”ってことで』




「……っっ!!」


 何も意識せずとも手に握ったバットが白球目掛けて飛び出していった。身体に染み付いたごく自然なスイングは、相手自慢のウイニングショットを真っ向から捕らえた。




 ────キィィィンッッッ!!




 甲高い産声を上げて飛び出した打球は、低く鋭い弾道でショートの頭上を襲った。


「よしっ!」

「いい当たりっ!!」


「『抜けろ────ッッ!!』」


 チームメイトたちの声援に後押しされたかのように、白球は遊撃手が伸ばしたグラブのわずか上をすり抜けた。


「抜けたぁああああ!!」

「回れ回れ──っ!!」


 その打球は地に着いてからも勢い衰えることなく、左中間を真っ二つに割っていった。


「葵ちゃん! ホーム! 帰ってこれるよ!!」

「突っ込めぇえ!! 葵ぃぃッッ!!」


 栞李がスイングを始めた瞬間にスタートを切っていた津代葵は、打球の行方に一切目をやることなく一心不乱に脚を回していた。

 イニングはもう6回の表、2アウト。この試合、これ以上のチャンスはきっと来ない。おそらくこれが最初で最後のチャンス。

 チームの中でも決して脚の速いほうではない葵が、ヘルメットを飛ばしながら決死の思いで3塁を蹴った。


「バックホ────ムっ!!」


 一時は外野の最深部を転がっていた白球は流れるような中継プレーによってあっという間に内野手の手元にまで戻ってきていた。

 間一髪、アウトにできるタイミングだった。あとワンスローで逆転のピンチを封殺できるはずだった。しかし、この局面でここまで鉄壁を誇ってきた蘭華の守備に僅かな綻びが生じた。


「……っっ!!」


 最後の中継に入った二塁手の送球が1塁ランナーとは反対側に逸れた。

 これによって1歩、走者にアドバンテージが生まれる。葵はその隙を見逃さず本塁に突っ込んだ。


「んンぅッッ!!」


 走者の左手と、優姫乃捕手のミットが交差するように五角形のホームベースを叩いた。

 判定は、一瞬のうちに下された。



「────セーフ! セーーーッフ!!」



 球審が両の手を広げてコールする姿を、末永栞李は白んだ世界の中からぼんやり眺めていた。


「はぁ……はぁ……」


 最初に開けたのは、音だった。

 キンと張った無音の世界から、蛇口を回したように生暖かい声がゆっくり耳の内へ流れ込んできた。


「はぁ……はぁ……っっはっはっ」


 その歓声は心地よい温もりに満ちていて。後を追うようにして、世界にじんわりと色が戻った。


「しおりぃ〜〜!! ナイバッチぃぃ!!」

「よく打ったッ!! スゴいぞルーキー!」

「栞李ちゃんナイスーー! やったね!! 良かったねぇっ!!」

「ナイバッチ! シオリちゃん」

「栞李っ! ありがと──ッ!!」


 そこでは、満面の笑みを浮かべたチームメイトたちが彼女に向かって手を振っていた。実乃梨も、伊織も、菜月も、葵でさえも、もちろん、莉緒菜も。言葉と表情と全身を使って少女を祝福してくれていた。

 その光景が身震いするほど誇らしくて、思慮も理性も介さずただ感情のままに拳を振るった。



「────ッッっっっしゃ!!」



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