第43話 末永栞李
今でも、あの日見た景色を忘れたことはない。
生まれて初めて入った地元の
その時の私はスポーツなんてまるで興味はなくて、ただ親に誘われたから何となく付いていっただけだった。
けれど、試合が始まるとすぐに彼女たちのプレーに釘付けになった。
遠目から見ていても変化がわかる程鋭い変化球を投げる投手に、それをこともなげに打ち返す打者たち。ヒット性の当たりをファインプレーでアウトにしたかと思えば、外野の頭を越す長打であっという間に得点が入る。
何より、プレーしてる選手も応援してる生徒たちもみんな、その場にいる全員が目の前の結果に一喜一憂し、渾然一体となって野球というスポーツに熱中していた。
自分と十個ほどしか歳の離れていない女の子たちが夏空の下、一球一瞬に白熱する姿は輝いて見えた。無意識のうちに、いつの日か同じ舞台に立つ自分の姿を思い描いてしまうほどに。
「ねぇ、おかーさん。私も
その帰り道、真新しい熱に心浮かされていた私は、気づけばそう口にしていた。
今思うと、始めからそれが狙いだったのかもしれないけど、その時私は初めて自分から何かに打ち込みたいと思った。
それからはあっという間だった。
バカみたいにソワソワしながら親とグローブを買いに行って、あの日見た選手と同じグラブを買ってもらって、またバカみたいにはしゃいで。
それからすぐに近所の野球チームに入った。
初めてボールに触れた日は、投げるのも打つのもまるで思い通りにならなくて。それもまた新鮮で、楽しくて。毎日毎日、日が暮れるまで練習してた。
チームの練習がない日はおかーさんにバッティングピッチャーをしてもらったりもして。それで爪が割れたって嘆いてた時はさすがに悪いことしたかなと思ったけど。
そんな毎日を過ごしてたら、いつの間にか私はチームで1番の選手になっていた。
「────ねぇシオリちゃん。アナタ、クラブチームに入ってみない?」
初めてその選択肢を勧めてくれたのは、当時の監督さんだった。
「クラブチーム……って、なんですか?」
近所の公立中学への進学を控えていた私は、すっかりそのまま学校の野球部に入る気でいた。
「学校の部活とは違ってね、放課後とか土日に色んな学校の子が集まってくるチームなんだ。大抵の公立野球部は軟式だけど、クラブチームなら硬式使ってるとこも多いし、活躍すれば有名な高校からスカウトしてもらえるかもよ〜?」
その監督は私の能力や練習態度を見て、純粋に私に期待してくれていたんだと思う。
「シオリちゃん家の近所にあるチームなんか結構な強豪チームだし、もし高校で全国目指したいっていうなら間違いなく近道になると思うんだけど……どうかな?」
自分の進む先のことなんてまだロクに考えてもなかった私は、その期待が嬉しくてほとんど二つ返事で頷いていた。
「うん。私、そっちに行ってみたいかも」
結局、私は中学の野球部には入らず、より厳しい競争の場に身を置くことにした。
「末永栞李です! 前のチームではサードを守ってました! よ、よろしくお願いしますっ!!」
そこは私の幼稚な想像を遥かに上回る場所だった。
整備された専用のグランドを保有しており、前のチームでは見たこともないようなバッティングマシーンやピカピカのトレーニング器具も揃っていた。
選手の数も3学年合わせて100人に超える勢いで、その数に囲まれるだけで緊張で身震いがした。
そこで初めて、あの子と出会った。
「
第一印象は背の高い子。
中学1年の時点で既に私よりひと回り背が高く、体格に恵まれた子だった。
「えーーっ!! タカモリさん、ココが強豪チームだって知らずに入ってきたのぉ!?」
「うん。ウチのばあちゃんが近所にいいチームあるよって教えてくれたから」
彼女は家から歩いて来れる距離にグランドがあったからというだけの理由で強豪チームに入部してしまうような子だった。
「だ、大丈夫? ココ結構厳しいチームだけど……タカモリさん、確かさっきあんまり野球経験ないって言ってたよね?」
「多分、大丈夫。何とかなると思う」
その上、彼女はどんな時も周りのほうが心配になるくらい楽観的だった。誰に何度心配されてもまるで意に介さず、表情ひとつ崩さない豪胆な子に見えた。
「お……っとと」
「高杜! まずは捕ることから意識しろ! 投げるのはその後だ」
最初は何をやってもダメだった。
それもそのはず。彼女が野球を始めたのはほんの数ヶ月前で、まだ試合にも出たことがないような状態だったらしい。
そんな状態ではもちろん、打撃も守備も走塁も、何をやらせてもチームで1番下手くそだった。それも、ぶっちぎりで。
「もう一本! お願いしますっ!!」
それでも、彼女は持ち前の前向きさで腐ることなく練習に取り組んでいた。
その性格は大半のチームメイトには好意的に受け取られていたが、一部の子たちからは『練習の邪魔』『時間のムダ』と疎まれることもあった。
「ねー、さすがにタカモリさんちょっとカワイソーだよね〜」
「さすがにね〜。野球は好きそうだし、もっと気楽にできる環境だったらね〜」
私も最初は、さすがに少し気の毒だと思った。
初心者には優しくないこの
────あの日、あの瞬間に出会うまでは。
「やばっ、水筒忘れた!」
その日は、新緑の香り舞う爽やかな気候だった。
練習終わりの帰り道で面倒な忘れ物に気づいた私は足早にグランドまで引き返した。
「あーあったあった。はぁーもう、日暮れそうじゃん」
更衣室で無事忘れ物を回収した私は、影の落ちてきたグランドから足速に立ち去ろうとしていた。が、その時、不意にどこからか風を切るような音が耳に飛び込んできた。
「な、なに? なんの音……?」
その音は1回のみならず、2回3回と一定のリズムで繰り返されていた。それに混じって時折すんすんと少女がすすり泣くような声も聞こえてくる。
もうすっかり日も傾いてグランドには誰も残っていないはず。それなのに、その音は絶えず私の耳に流れ込み続けている。
脳裏でふと、昨晩見た心霊特番のナレーションが再生された。
「いやぁ、まさかね……」
念のために近くにあった金属バットを握りしめながら、私はその声のする方を覗き込んだ。
「もしも〜し、誰かいますかぁ……」
「な、誰っ!?」
「ひぃぇっ!! なに!??」
頓狂な声を上げながら私がそこで鉢合わせたのは、涙で目元をぐしゃぐしゃにした長身少女だった。
「たっ、高杜さん?」
「っっ、アナタ……」
彼女もこちらの存在に気づいていなかったらしく、私の顔を見るなりまつ毛が全部抜けるんじゃないかという勢いで目元を拭った。
「あの、どうしたの? 大丈夫?」
「……なにが?」
「なにがって、泣いてたみたいだから……」
「デリカシーないわね。聞かれたくないって言ってんの!」
「あ、ごめん」
私がおずおずと視線を外すと、彼女は大きなため息をついてから細々と口を割った。
「……別に、ただムカついてただけ」
「えっ、ムカついてたの?」
「他に何があるの!? 毎日毎日みんなから笑われてばっかりの自分にムカついてただけ! 死ぬほどダサい自分にも腹が立つし、ワタシを見て笑ってたアイツらも心底ムカつく!!」
てっきり辛さか苦しさからくるものだと思っていた
「アイツら全員、いつか見返してやる。最後にはワタシが1番になってアイツらを笑い返してやるんだ。必ず……絶対!」
執念を通り越して怨念すら感じる表情に、自然と私の肌は波打っていた。
知らなかった。彼女がこれ程気が強く、意固地で、負けず嫌いな性格だったなんて。
その豹変っぷりに圧倒されていた私に向かって、不意に彼女がバットを突き立てた。
「アナタも例外じゃないから」
「え、私?」
「当たり前でしょ? 同い年の、同じポジションの先頭にいる選手なんだから」
先頭……そう表現されたことは本来嬉しいこと、誇らしいことなはずなのに、どうしてかその瞬間はこれっぽっちも喜べる気がしなかった。
「覚えてなさい。その笑顔……」
その言葉で私を突き放すと、彼女はまたスイングを始めた。
身を焼くような競争心と、揺るぎない自信。どれもこれも私が持っていないモノばかりで。他人の持つソレは、碧く輝いて見えた。
思えばこの
「よしっ……!」
ふと思い立って、私は手にしていたバットを握り直した。
「……ちょっと、アナタ何してるの?」
「いや、私ももう少し練習していこうかなって」
「それじゃ意味ないでしょ。ワタシが1番練習しないといけないの! 家族が心配するだろうし、アナタはもう帰りなさい」
「私の家割とすぐそこだから平気だよ。高杜さんこそ良いの? もう暗くなってきたけど」
「ワタシのほうが家近いから平気」
「え、何その意地。高杜さん、私の家知らないでしょ」
「…………」
その日はお互いに意地の張り合いで遅くまで素振りして、私はおかーさんにみっちり叱られた。
この日を境に、私たちは時折彼女と同じように居残り練習をするようになった。
愚直に努力する彼女に対して、時に私が基礎的な技術を教えてみたり、意地っ張りな彼女に何かと反発されたり。ただ、意固地になりながらも彼女は常人の数倍呑み込みが速く、ひとつ、またひとつと驚くようなスピードで技術を習得していった。
私も、そんな彼女に負けじと張り合ってみたりもした。
思えば、私が純粋に野球を楽しめていたのはこの頃が最後だったかもしれない。
「次の大会からは末永を
先にポジションを得たのは私のほうだった。
2つ上の上級生が引退した直後の秋の大会から、私はチームの正三塁手を任されることになった。
「栞李ちゃん、スゴーイ! 1年生なのにもうレギュラー!?」
「すごいね。おめでと!」
「う、うん。みんな、ありがと」
もちろん、初めて聞いた時は嬉しかった。
同学年の子たちもその決定を笑顔で祝ってくれたけど、私からすればたまたま
「実力でしょ。アナタの」
そんな不安も、彼女は一声で吹き飛ばしてしまった。
「結局アナタに先越されたわね。ホントならワタシが先にそっちに行くつもりだったのに」
「まー、高杜さんはまず人並みに守備できるようにならないとね」
「ワタシはもうヒトナミよ。明日にはフタナミになってるかも」
「……よくノータイムで知らない言葉使えるよね」
こんな時ばかりは彼女の楽観的な性格が羨ましかった。
「何にせよ、今はアナタが選ばれて、ワタシは選ばれなかった。それは変えられない」
そう呟いた彼女の声は少しだけ寂しそうだった。
「けど、ワタシの目標は変わらない。いつか必ずアナタに追いつくから。来年と言わず来月、来週……明日にでも! 絶対」
力強いその言葉を最後に、彼女は私へ背中を向けた。その背中が遠ざかっていく景色を何故か鮮明に覚えている。
湿気を含んだ秋風が、私の後ろ髪をそっと揺らした。
その翌日から、私はより過酷な競争の日々に浸かることとなった。
「末永! 今のケースは無理せず1塁でいい。焦って送球してもオールセーフになるぞ」
「はいッ! すみません」
全国区の強豪チームなだけあって、そこはやはり厳しい場所だった。
「もっと試合の状況と展開に気を配れ! 常にチームにとって最善のプレーを選択しろ!」
「判断が遅い! プレーが始まる前に想定される動きを頭に入れてないから遅れるんだ!」
「選手1人のツメの甘さがチーム全体の足を引っ張るんだぞ!!」
レギュラーに選ばれる前はある程度自由にプレーさせてもらえたが、上のチームでは常に勝利が優先された。
いついかなる場面でも個人の技量ではなく、チームの勝利のために必要なプレーだけが求められた。
「明日の試合の結果如何でレギュラーメンバーを入れ替える。試合に出るものはこのチャンスを活かせるよう励め」
「『はいっ!!』」
また、チーム内でのレギュラー争いも激しく、些細な
打撃・走塁・守備の基礎能力のみならず普段の練習態度やプレー中の表情まで……何から何まで徹底的に比較され、グランドに立っているだけで容赦なくプレッシャーに晒された。
「ホント、末永は良いよなぁ。まだ2年だし」
「私たち3年は今年結果を出さないと強い
「まったく。自信が無いならウチらにポジション譲ってよ! アンタ見てるとイライラするのよね」
「悪いけど、
オマケに、唯一の下級生だった私は人間関係でもなかなかチームに馴染めなかった。
3年の先輩たちはみんなチームの勝利のため、そしてより良い
「ただいまぁ……」
「おかえりなさい。晩ご飯できてるけど、どうする?」
「先お風呂入る〜。ご飯は後でいいや」
プレー以外の面で日々ストレスを抱えるようになり、家に帰る頃にはいつも心が擦り切れていた。心が落ち着かないせいで身体も休めず、しっかり寝たつもりでも毎朝全身が重かった。
そんな日々を過ごしていたら、いつの間にか、あまりにも自然に野球が楽しめなくなっていた。
「────ようやく、追いついた」
そうして私がふと顔を上げた時には、あの子がもうすぐ目の前に立っていた。
「高杜さん? どうしてここに……」
「どうしてって、いきなり失礼ね。ワタシも呼ばれたの。
最初はただ、驚かされた。
競争の激しいこのチームでは選手の入れ替え自体は頻繁に起こる。が、つい数ヶ月前までほとんど初心者だった彼女がこれほど早く上のチームに上がってくる姿は誰も想像できなかったはずだ。
「驚いたって顔ね」
「いや、別にそういう訳じゃ……」
「言ったでしょ? ワタシはここでアナタと競いに来たの。今のワタシはあの日泣いてた惨めなアイツとはもう違うから」
時が経って、環境が変わってもその眼に宿る自信は変わらず。
「見てなさい。今日の試合で、全部証明してみせるから」
その言葉に偽りはなく、久しぶりに同じグランドに立った彼女は見違えるほど成長していた。
あれだけ苦手だった守備や走塁も無難にこなすようになり、試合の定石や戦略も理解してプレーできるようになっていた。
────キィィンっ!!
「スゴーい……またヒットだ」
「ナイバッチ〜! これで今日3安打目!」
そして、その何より飛び抜けて成長していたのは打撃能力。
コンタクト能力、飛距離、選球眼、メンタルにいたるまで、打席の中で必要とされる能力全てが中学生離れしたレベルまで研ぎ澄まされており、上級生たちも苦戦する投手を相手にしても、1人難なく長打を放ってみせた。
「それにしてもタカモリさん、いつの間にあんなにバッティング上手くなったんだろ。まるで別人みたい」
「ね〜! 初めての
彼女が涙を流しながら振っていたバットはもはや空を切ることはなく、打ち出の小槌のように安打を生み出すようになっていた。
いったい、どれだけの時間と情熱を傾ければこの短期間にこれだけの能力を得られるのだろう。その一端を垣間見ていた私でも、その全容は計り知れなかった。
きっとそれが彼女の生まれ持った才能だったんだと思う。
私がどれだけ鍛えても、きっと彼女のような打球は飛ばせない。彼女のように鋭いスイングはできないし、打席の中であれほど余裕綽々に振る舞うこともできない。
彼女が過ごしたたった数ヶ月の時間は、私がこれまで積み重ねてきた何年という時間を容易く凌駕していった。
紛れもなく、彼女は“天才”だった。
「────栞李! おつかれ様」
「あ、高杜さん。お疲れ〜」
試合後、注目の的となっていた彼女は真っ先に私の元へ駆け寄ってきた。
「どう? アナタが見てない間にワタシも“ヒトナミ”になったでしょ?」
「……そうだね。正直、結構驚いたかも」
彼女の活躍は否が応でも自分との差を突きつけられているようで、目を逸らしたくなるほど胸が苦しかった。
「バッティングも守備もこんなに上手くなってるとは思わなかったよ。前見た時とは別人みたいだった」
きっと彼女は、この短い間にショーケースに並べられるほどの“自信”を獲得してきたのだろう。
私の心は恥ずかしげもなくガラスの向こうで輝くソレを羨んでいた。
「やっぱりスゴいね、高杜さんは。呑み込みも早いし、メンタルも強いし……羨ましいよ。私にはない“才能”があってさ」
私はそのちっぽけな感情ひとつ制御できず、気づけば彼女を突き放すような言葉を口走っていた。
「なにそれ。ムカつく」
その瞬間、失望の音が聞こえた。ガラスを割るような清々しいものではなく、風化した土壁が崩落するような空虚で乾いた音が。
それ以上、何か言葉をかけてくれることはなく。彼女は黙って私に背を向けた。
その背中はいつか見たソレより、確かに小さくなっていた。
「次の大会から高杜をメインの三塁手として起用していく。末永は今後サードだけでなくショートの守備練習もしておいてくれ」
それから程なくして、私たちの立場はいとも容易く逆転した。
その圧倒的な打撃能力と伸び代を買われ、2年の夏からは彼女がチームのレギュラーサードになった。
いつかこんな日が来ることは分かっていたはずなのにやっぱりまだ心のどこかに悔しさが残っていて。これまで以上に自分を厳しく追い詰めるようになった。彼女を意識するあまり、結果ではなく完璧な動きに囚われるようになった。ほんの些細な無駄も許せず、毎日毎日小さな不安を潰すように練習していた。
「タカモリさん、今日も大活躍だったね〜」
「二塁打2本で打点も3。もうすっかり打線の中心ね」
「ねー。最近は何ならもうウチで1番頼もしいくらいだもんね〜」
それでも、足腰が筋肉痛になったり手がマメだらけになるまで練習しても、彼女との差が縮まることはなかった。
私は学年が上がりレベルの上がった投手たちのストレートに対応できず、打撃で全くといっていいほどチームに貢献できなくなっていた。
彼女がレギュラーからチームの主力へと名を上げていく一方で、私の出番はせいぜい代走か守備固めくらい。
チームが苦しい時、追い詰められた時は誰もが決まって彼女に縋った。彼女もその期待を裏切ることなく、決定的な場面では尽く結果を残した。
彼女がチームの
「ねぇ、末永さん。まだ残って練習してるよ」
「頑張ってるアピしたいんじゃない? ほらあの子、ちょっと前まで初心者だった高杜さんにレギュラー取られちゃったから」
「あー。確かに練習量でも負けてたらもう何も敵わないもんね〜」
────そして、その頃にはもう誰も私になんか期待してなかった。
それに気づいた瞬間から、努力が苦痛になった。
まるでパンクした自転車に乗っているかのように、重いペダルをいくら漕いでも息が切れるばかりで前に進んでいる気がしない。その不安をこなそうと躍起になるあまり、知らず知らずのうちに自分から打撃フォームを崩していたのだろう。
練習すればするほど自分が下手になっている気がして、グランドに立っている時間が息苦しくて仕方なかった。
いつの間にか成功することより失敗しないことばかりに執着していた。打席に立つだけで足が震えて、守備につく度肺呼吸を忘れてしまったかのように息が上がった。
頭が熱く、口が渇く。腹も重い。
そんな
「ねぇ栞李。アナタ最近何かあった?」
今にも崩れそうな私に真っ先に目を向けてくれたのは、やっぱり家族だった。
「いやー、別にぃ。おかーさんが気にしすぎなだけじゃない?」
「そう? 最近のアナタ、何だかずっと暗い顔してるから」
「……」
「もし何かあるならおかーさんが話聞くよ? 口にしちゃったほうが楽になるかもしれないし」
こんな時、誰かに縋って全部吐き出せるような性格だったらどれだけ楽だっただろう。
「本当に何でもないって。ただちょっと疲れてるだけだから……」
そうやって誰にも見えないよう、毎秒毎秒砂時計のように積み上げてきた劣等感は、ある日音を立ててはち切れた。
「────痛ッ!!」
中学3年の夏、中学最後の大会まで1週間をきった頃だった。
「っっ…………」
試合直前に指先の怪我。満足に守備もできない私じゃもう、中学最後の大会も出番はもらえないだろう。
ソレは、間違いなくこれまで積み上げてきたモノ全てを私から取り上げる残酷な傷だった。そのはずなのに、私の心は寄り道もなしに安堵していた。
失望も悔恨も差し置いて、恥ずかしげもなくただ心を弛ませていたのだ。
これでもう、彼女と見比べられずに済む。苦しいだけのこの場所にこれ以上居続けなくても、毎分毎秒自分の惨めさを思い知らなくても良いんだって。
そんな心境を、彼女には見透かされていたのだろうか。
「ケガ、大丈夫?」
日陰で止血していた私に、彼女は真上から声を投げかけてきた。
「……大丈夫だよ。指のマメ潰しただけだから」
「そう」
「けど、この時期にこんなケガしてたらきっともう試合には出れないかな。情けないよね、次が最後の大会なのにさ……」
ベンチに腰を下ろしていた私は言葉を交わしてる間も顔を上げられなかった。頭上の彼女がどんな表情をしているか見れなかった。見たくなかった。
彼女もまた、わざわざ屈んでまで私と目線を合わせようとはしなかった。
「アナタ、いつからそんな風になったの……」
そんなわざとらしい独り言に吊られて私が目を上げた瞬間だった。その言葉は刃物より鋭く、私の顎を切り落とす勢いで叩きつけられた。
「────もうヤメたら? 野球」
その言葉を合図に、全身を巡る血が一時足を止めた気がした。
「なに、どうして?」
「別に意地悪で言ってるわけじゃない。ただ、今のアナタはもう見てられないから」
その瞳は、私の眉間に拳銃を構えているかのような堅く差し迫った色をしていた。
「もう好きじゃいられないんでしょ? 上手くなりたいとも思えない、グランドに立ってても楽しくない。今更ワタシからレギュラー奪い返すような気概もなさそうだし……アナタはただ長い時間練習して、手にマメ作って、四六時中苦しそうな顔して、そうやって自分を納得させようとしてるだけ。そうでしょう?」
崖の上から投げ下ろされるような言葉たちは、どれもあまりにも的確で。瞬間的に凍っていたはずの血液が、今度は脳を擦り切る勢いでじんじんと巡り始めた。
何一つ言い返せずにいる私を哀れむような優しい声色で、続く言葉が振り下ろされた。
「もう、自分に期待してあげられないんでしょ?」
その一言が、あまりにも強烈に胸を絞めて。ほとんど反射的に声が飛び出していった。
「ちがう! ちがうよ。私は、全然、そんなことなくて……野球が嫌いになった訳じゃないし、ポジション争いだって、諦めたつもりじゃなくて……もっといいプレーして、みんなに認めてもらえるようにって」
ぽろり、ぽろりと。
自分の心が折れないよう、丁寧に言葉を選びながら。目を潤ませた子どもに優しく言い聞かせるように……
「────ソレ、誰に言い聞かせてるの?」
それが、トドメだった。
何か言い返さなければいけないはずだったのに、もう何も言葉が浮かんでこない。それどころか、それまでに浴びた彼女の言葉がひとつずつ腑に落ちていって。
それはまるで白かった盤上が黒く染まっていくような、道に溜まった落ち葉を吹き飛ばすかのような。
滑らかに、鮮明になってゆく。
「もう一度言うわ。アナタもう、そんな顔してまでグランドに立たなくていいわよ」
その瞬間、はっきり自覚した。
ああ、私はもうとっくに自分になんか期待してなかったんだなぁ。
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