第30話 原石 vs 結晶


「やー、珍しいね。ヒメちゃんが相手の球種も引き出せずにあっさりアウトになっちゃうなんて」

「う、うるさいわね。打てイケると思ったのよ」


 たった1球であっさり凡退してしまった優姫乃をベンチ前で出迎えたのは次打者の藤宮柚希。細身長身の彼女は口では悪態をついているようだったが、その表情には悪意の欠片も見当たらない。むしろ本人には悪態をついているという自覚すらないのだから、優姫乃もいちいち突っかったりもしなかった。


「相当ノビてくるわよ、あの速球ストレート。それにシュート成分も少ない。ワタシもかなりそれを意識して振ったのに、それでもまだとらえきれなかった。あんなボール、全国大会上の大会でも中々見た事ないわね」

「おっけー。わかったよ、ヒメちゃん」

「ずいぶん軽いわね……というかヒメちゃん言うな」


 藤宮柚希は普段、見ず知らずの人間に容姿や人格を貶されても10分後にはすっかり忘れてしまうような呑気な性格をしていた。勉強もさほど得意ではなかったし、オシャレや流行なんて気にしたこともなかった。



 それでも、彼女はただ圧倒的に“強打者スラッガーの才”に恵まれていた。



 細身ながらしなやかに動く恵まれた肢体、相手の投球を瞬時に見極める動体視力、そして、初見の変化球でも軌道を正確に予想イメージできる瞬発的想像力。それら強打者として必要とされる能力全てを生まれながらに兼ね備えており、彼女自身もその能力を遺憾なく発揮できる野球が大好きだった。


 加えて、彼女のマイペースな性格も蘭華のような強豪チームでプレーするにはもってこいだった。

 周りにどれだけ名のあるチームメイトや実績のある先輩がいても、自分を見失わず愚直に自分の強みを磨くことができた。どんな大舞台に立とうと、1年生で責任あるポジションを任されようと、緊張や重圧で縮こまることもなかった。


 藤宮柚希はまさに生まれるべくして生まれた天才スラッガー。技術・精神ともに揺るがない世代最高クラスの傑物。

 明姫月バッテリーがこれから相手にしようとしているのは、そんな選手だった。


「さて、いよいよな訳だけど……」


 世代屈指の強打者との対戦を前に、莉緒菜と葵のバッテリーもマウンドの上で最終確認を行っていた。


「配球とか攻め方は昨日話した通りで行くけど、問題はメンタルのほうだよね〜。強気に攻めなきゃいけないとこでヒヨられると致命傷食らう相手だけど、覚悟できてる?」


 葵はわざと煽るような声をかけたが、今の莉緒菜にはもう必要のないものだった。


「平気です。覚悟はもとより、今日の私は打たれる気がしません」


 その瞳はこれまでの他人を寄せ付けないようなソレとは違い、熱したガラスのように赤く、そして優しく輝いていた。


「今の私は、私を見ていてくれる誰かの期待も背負って戦えるから」


 熱を帯びたその瞳がにふと3塁方向へ向いたのを見て、葵も静かに目を細めた。


「おっけー。それじゃあワタシもひとまず信じるからね! リオナちゃんのこと」


 その言葉を最後に葵は本塁の後ろへと帰っていった。1人マウンドに残った莉緒菜は小さく息を吐き左打席に立つ“天才”と相対した。


「プレイ!!」


 球審のコールがかかり、再びグランドに緊張感が蘇る。

 大歓声を浴びながら打席に入った彼女はホームベースの端をバットで触るルーティンから、ほとんど直立のまま顔近くに墨色のバットを立てた。

 昨夜のミーティングで何度も目にした藤宮柚希独特の打撃フォーム。高い位置から弓を引くようにかがみ込み強く鋭いスイングを繰り出す。下から振り上げるようなスイングで打球に角度を付けるのが上手く、グランドの全方位に長打を飛ばすことができる生粋のスラッガー。

 何より、長身の彼女が打席の中にまっすぐ立っているだけで得も言えぬ威圧感があった。胸の奥を締め付けられるような心理的緊張感プレッシャーが。


「ふぅ……」


 けれども精神的強さソレは倭田莉緒菜が投手として最も優れている部分の1つであった。



「────んッ!!」



 藤宮柚希への初球。莉緒菜は臆することなくアウトコース低めいっぱいにストレートを投げ込んだ。


「ストライク! ワン!!」


 藤宮柚希も初球の厳しいコースを余裕を持って見逃した。それは審判のストライクゾーンや莉緒菜の球種をじっくり見極めているかのようなひどく不気味な静けさだった。

 とはいえ、初球でストライクを取れたことでカウントに1つ余裕が生まれた。ここで容易にストライクを取りにいくと通打を食らう可能性が高い。そのことを考慮して、明姫月バッテリーは2球目に選択したのは腰付近へのストレートだった。


「ボール! ワン!!」


 これにも反応はない。

 打席の彼女は自分の身体に近いコースへの1球も悠然と見送ると、何事もなかったかのように足場を均していた。

 彼女もまたメイと同じく身体の近くにボールを通された程度で腰が引けるような打者ではないことは葵も重々承知していた。

 本当の勝負は、次の1球。


「んっ!!」


 渾身の力を持って投じられたその1球は、初球と同じようにアウトコースへ。しかし、初球よりわずかボール2つ分ほど高く浮いた。

 藤宮柚希は、それを見逃さなかった。



 ────キィィイイインン!!



 ボールがバットに触れた瞬間、ガラスが爆ぜたかのような甲高い音が響き渡った。

 ボールが高々と舞い上がるのを見て観客席からは大歓声が沸き起こる。

 打球は芝原あやめの守るレフトへ。客席の反応とは裏腹にあやめは早々に打球を追う足を緩めていた。

 高く上がり過ぎている。この飛球には追いつける。そう確信しながらゆっくりとした足取りで打球は追っていた。


「あ……れ…?」


 しかし、空高く上がった打球は途中で傾くことなく宙を舞い続けた。

 一歩、また一歩と下がっていき、ついにその右肩が外野フェンスにぶつかった。


「た……ッ!?」


 それでもまだ、打球はあやめの元へは落ちてこない。あやめは地に足をついたまま、フェンスの向こう側へと落ちていく飛球を愕然とした表情で見送ることしかできなかった。


「ファール! ファールボール!!」


 先制ホームランかと思われたその打球は、間一髪のところで風に流されファールポールの外側へと切れていった。

 そのコールが鳴り響くと、客席から大きなため息が漏れた。


「んー、まだちょっとだったかぁ」


 そう。葵の目に映っていたバットは完全に白球の下に潜っていた。打ち損じの外野フライ。そう見えた打球がまったく垂れることなくフェンスの向こう側まで飛んでいったのだ。

 いくら飛びやすいボールとはいえ、高校生でフェンスオーバーのホームランを打てる選手は限られた才能ある打者だけ。それも狙った球種をきちんとした形でとらえた場合のみ、フェンスを越える一打を繰り出すことが出来た。

 けれど、藤宮柚希は明らかにその理から外れていた。狙いを外しても、想定を上回るような1球を投じても、一度ひとたびバットにかすってしまえばフェンスの外まで運ばれる。そんな理不尽極まりない剣先プレッシャーを投手の喉元に突きつけることを天から許されているようだった。


「おっけーリオナちゃん! ファールは気にしなくていい。これで追い込んだよ!」


 明姫月ベンチが一様に青ざめて声も出せない状況下でも、葵は決して勝機を見失っていなかった。


 根拠は2つ。1つ目は莉緒菜の“ストレート”が蘭華相手にも通用していること。ファストボールですら小さく動かすのが主流のこの時代においては、莉緒菜のストレートは打者にとっては見慣れない絶滅危惧種の“クセ球”であった。その“クセ球”が蘭華の打者に通用するかは、葵も実際に対戦してみるまで確信は持てなかった。けれど、その心配はもう既に晴れた。


 2つ目は莉緒菜のコントロールが葵の想定以上に安定していたこと。というのも、葵はこれまでテキトーにど真ん中に構え続けていたため気づいていなかったが、倭田莉緒菜という投手はストライクゾーンの四隅に狙って投げきれる制球力コマンド能力を持っていた。それは彼女がこれまで投球フォームを他人に指導された経験がなく、ただ1人で築き上げてきた“再現性”のなせる技であった。

 まるで日本刀のように何度も叩いて重ねて磨き抜かれたそれは、いつしか誰もが憧れる美しいフォームに仕上がっていた。


 藤宮柚希が生まれるべくして生まれた“才能の原石”ならば、倭田莉緒菜は孤独な環境が生んだ“異能の結晶”。日の目を見ることなく、埋もれてきた輝きが今、心強い翼を得て大きく羽ばたこうとしていた。


「さて……」


 カウントは1ボール2ストライク。投手が勝負を決めるには理想のボールカウント。満を持して、葵はここまで隠してきた勝負球ウィニングショットのサインを出した。

 迷いのない彼女の表情を目にして、倭田莉緒菜はふと昨夕のブルペンでの会話を思い起こしていた。




『────今のリオナちゃんじゃ、蘭華女子明日の相手には通用しないよ』


 栞李に想いをぶつけられた直後の莉緒菜にとって、その言葉はとても聞き流せるようなものではなかった。


『そのまま未完成の変化球ソレを投げ続けてても、逆に今すぐ諦めたとしても、蘭華は誤魔化しきれるような相手じゃない。リオナちゃんもそれはわかってるでしょ?』

『……けど、明日の私はそれじゃダメなんです。この腕にかえてでも応えたい期待おもいができたから』


 想いを言葉に乗せて吐き出す莉緒菜の瞳は、ほのかに熱を帯びていた。


『初めてだったから。自分以外の誰かに励まされたことも、誰かが私のためにあれだけ感情的になってくれたことも。だから……!!』


 必死に自分の心の内を曝け出す後輩の姿を、葵はどこか懐かしむような眼で見つめていた。


『おっけー。それじゃあワタシがリオナちゃんの悪いとこ教えてあげるよ! 具体的な解決策も含めて全部ね』

『ホントですか!?』

『ただその代わり、明日はちゃんとワタシの言うことに従ってね。どれだけ気持ちが前のめったって、逆らうことは許さないから』




「ふぅぅぅ……」


 振りかぶる前に大きく息を吹き出して、静かに葵のアドバイスに思考を巡らせる。


『リオナちゃんは“スライダー”を横に曲げようとし過ぎてるんだよ。そのせいで腕の振りが下がってバッターにも見分けられるし、ストレートのフォームも崩れてきてる。はっきり言って、リオナちゃんの投げ方フォームは横の変化を表現するのには向いてないと思うよ』

『けど、それじゃ何も……』

『もちろん。だから諦めろなんて言うつもりなら最初からこんな提案はしてないよ。大事なのはこっから』


 莉緒菜の反論を適当にいなしながら、葵は足元のボールを拾い上げ見本を示すように手元でスルスルと回して見せた。


『横に滑らせるんじゃなくて、縦に切るようなイメージでリリースしてみなよ。リオナちゃんのストレートを活かすなら、大きく曲げるよりほうが打者は嫌がるはずだよ』

『同じ軌道に……?』

『そう。変化球は投手ピッチャーからどう見えるかより、打者バッターがどう見るかのほうがよっぽど大切だからね』




「腕は強く、上から切るように……」


 葵から得た助言を小さく呟いてから莉緒菜はプレートに足をかけた。


「……」


 両腕を振り上げる前に、視界の隅にそっと栞李の顔を映す。

 その瞳は溢れそうになる不安を必死に堪えて、まっすぐ莉緒菜の背中だけを見つめていた。

 脅迫めいたその期待に応えたい、報いたいから、倭田莉緒菜は一片の迷いなく力いっぱい左腕を振りきった。



「────んんッッ!!」



 強く、高い腕の振りから放たれた1球は、まっすぐと同じ軌道でストライクゾーンの真ん中低めに入った。藤宮柚希は3球目前の球の軌道をイメージして、より強く鋭くバットを走らせた。彼女がスイングを始めても白球はまっすぐ走ったまま、変化する兆しすら見えなかった。


 ──捕まえた。


 柚希の胸の内には確かにその確信があった。白球がバットに吸い付くようなイメージを脳裏に描いていた。

 しかし次の瞬間、その1球はストレートの軌道から静かに姿を消した。


「……ッ!?」


 それに気づいた時にはもう、彼女のバットは空を切っていた。


「スイング!!」


 ワンバウンドで捕球した葵はすかさず打席の中の柚希をタッチした。彼女はそれを躱そうともしなかった。


「バッターアウト! チェンジ」


 球審のコールを聞いて、マウンド上の彼女は左拳を小さく握った。


「よしっ……!」


 莉緒菜が控えめなガッツポーズを見せたのを機に、グランド中の緊張と興奮が一気に弾けた。


「やった、やったよ! 莉緒菜ちゃん! ナイスボール」

「スゴいスゴ〜い!! 倭田さん! ナイスボールだったよぉ!!」

「ナイスピッチ。莉緒菜」


 明姫月ベンチだけでなく、観客席にも蘭華の主砲を打ち取った1球への賞賛が伝播していた。

 倭田莉緒菜と藤宮柚希との初対戦は、名もなき左腕が堂々たる投球で三振に打ち取ってみせた。


「……栞李」


 興奮冷めぬままマウンドを降りる莉緒菜を、3塁ラインの上で見慣れた控えめな笑顔が待ち構えていた。


「その、ナイスボールだったよ。莉緒菜ちゃん」

「栞李のおかげだよ。貴方のおかげでより強く自分を信じられたから。だから、ありがとう」

「それは莉緒菜ちゃんが今まで一生懸命積み重ねてきたものがあったからだよ。私なんて別に大したことは何も……」

「それは……」



「────ナイスピッチ!! 莉緒菜ちゃん!」



 栞李が差し出された感情を受け入れられずにいる間に、このイニングの主役だった莉緒菜はベンチからの盛大な祝福に迎え入れられた。


「わたし、ライト守っててドキドキしちゃったもん! 狙い通りの空振り三振! やったね!」

「スゴいぞ! 倭田ちゃん! 藤宮柚希から三振とっちゃうなんて!」

「ナイスピッチ倭田さん! ワタシ、感動したよぉ!」

「あ、ありがとう……」


 彼女を覆い包むその声援に身を隠すように、末永栞李はいつの間にか莉緒菜の傍らから姿を消していた。


「皆さん、聞いてください」


 浮かれ調子のベンチの中で、マスクを脱いだ幼顔の少女が落ち着いた声音で注目を集めた。


「初回は何とか三者凡退に抑えられた事ですし、この勢いのままこの回まず先制点取りましょう!」



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