第26話 同じ方向


「ふぅぅ、長かった……」


 1時間以上に渡って行われたミーティングを終えた私は重たい足取りで広い廊下を進んでいた。

 ミーティングが始まる前に買ったスポーツドリンクもすっかり飲み干してしまい、今や開いた缶だけをその手に持て余していた。

 消灯まではまだ少し時間があるものの、今日はもうくたびれたので、早めに部屋に戻ってゆっくりしよう。


「みんなお疲れ〜」


 何気ない心持ちで部屋の戸を開けた次の瞬間、私は無防備な自分の行動を後悔することとなる。


「おつかれ、栞李」

「りっ、緒菜ちゃん……アハハ、オツカレサマ〜」


 5人ほどが泊まれる畳の大部屋に1人腰を下ろしていたのは、見紛うこともない倭田莉緒菜その人だった。


「えっとぉ、他のみんなは?」

「わからない。けど多分、みんなまだ外で自主練してると思う」

「へ、へー。みんな殊勝だなぁ〜」


 為す術もなく、あっという間に話題が尽きてしまった。

 あまりに都合よく2人きりにされてしまったため、これも葵先輩の謀略なのではと疑いたくなる。むしろ、そうであってもいいから今すぐにこの場に顔を出してほしかった。

 の後で2人きりになるのは非常に良くない。まだ気持ちの整理も何もできていないし、何を話せばいいかもわからない。それなのにいきなりこんな事態になるなんて……とてもじゃないが身も心ももたない。


 よし。ここから逃げよう。

 私も自主練に……っていうのは何だか今更ウソくさいし、ミーティング会場に忘れ物……もしてないけど。えっとぉ……


「ねぇ、栞李」

「はいッ!?」


 まるで私を引き留めるかのようなタイミングで名前を呼ばれ、無様に声が裏返ってしまった。

 気恥ずかしさで一気に顔に熱が昇る私に向かって、彼女は振り向きもせず変わらない声色で続けた。


「寝る前のストレッチ、付き合ってほしい」

「…………うん」


 どうやら彼女は私を逃がすつもりはないらしい。私もいよいよ観念して、莉緒菜ちゃんの背後に静かに腰を下ろした。


 こうなったらもう、思い切って謝るしかないだろう。みんなの前で勝手に感情的になってごめんって。結果が出なくて1番辛いのは莉緒菜ちゃんだって分かってたはずなのに。

 そんなことを考えながら莉緒菜ちゃんの背中に手を当てた瞬間、想像もしていなかったような言葉が返ってきた。



「────さっきはありがとう。嬉しかった」



「ぇ……」


 一瞬、言葉の意味を見失った。

 これまでの人生で何度も聞いてきたはずの言葉だったのに、その一声でこれまで築き上げてきた輪郭が飴細工のように砕け散ってしまった。


「ありがとうって……何が?」


 気づけば私はそんなことを呟いていた。

 莉緒菜ちゃんは悠々と身体を伸ばしながら、淡々と自分の抱えてきたものを吐き出し始めた。


「私はこれまでずっと、誰にも期待されずに過ごしてきたから」


 その内容は私にとって本当に思いもよらぬもので。


「私には親も兄妹もいなかったから、傍にいて私の背中を押してくれる人はいなかった。私の境遇に同情してくれる人や理解しようとしてくれる人はいたけど、私の“未来”に期待してくれる人は1人もいなかった」


 喉を握り潰されたような勢いで、言葉を失くした。

 莉緒菜ちゃんの口からぽろりとこぼれる言葉たちは甚だ現実味を帯びていないのに、どれひとつ嘘のようには思えなかった。だからこそ、何も、言葉を挟めなかった。


「だから私は、私だけは私を疑わないよう生きてきた。それを疑ってしまえば、もう何も信じられるものが失くなってしまうから」


 ふと思い出す彼女の表情はどれも少しだけ寂しそうに映っていた。笑っていても、真剣な表情をしていても、私の知る“倭田莉緒菜”はいつだってどこか満ち足りない悲しげな色の瞳を揺らしていた。


「これから先もずっとそうやって生きていくんだと思っていた。そうすることでしか、私は私の未来を描けないんだって思ってた。けど、それは違った」


 その瞬間も莉緒菜ちゃんは私に背を向け粛々とストレッチを続けていたけれど、彼女の心はまっすぐこちら側を向いたような気がした。

 誰かが開けていた窓の向こう側から、涼やかな夜風が吹き込む。


「アナタは私以上に私に期待してくれた。私にはない言葉で、私の背中を押してくれた」

「いやっ……あれは、ついムキになって声を荒らげちゃっただけで……」

「それでも、私にとっては初めてのことだったから。気づいたら、手が震えてた。誰かの期待を背負うことがこんなに心を奮わせてくれるなんて、知らなかった」


 あの時はただ自分の感情に驚くばかりで気づけなかったけれど、ようやく呑み込めた気がする。

 初めはただ、彼女の描く美しい軌道に目を奪われていただけだった。けれど、隣室で生活するようになって、倭田莉緒菜という少女に触れる機会が増えたせいで彼女の余計な顔まで知ってしまった。近くから見た彼女は驚くほど純粋で、心配になるほど無防備で、自分の目標に向かってまっすぐ懸命に日々を尽くせる子だった。そんな彼女がいつかの自分と重なって見えて、いつの間にか莉緒菜ちゃんの活躍が自分のことのように嬉しくなっていた。



 そうだ。私はずっと“倭田莉緒菜”の背中に、勝手に自分の夢を預けていたんだ。



「アナタの言葉で、これまでの孤独じかんが報われた気がした。私はこの瞬間のためにこれまで尽くしてきたんだって、そう思えたから。だから私もその想いに報いたい。栞李の思い描く倭田莉緒菜も背負いたい。もう二度とアナタを失望させたりしないから」


 まっすぐ面と面を向き合わせていた訳じゃなかったけど、莉緒菜ちゃんは誠実に自分の想いを言葉にしてくれた。


「だから明日の試合、また私を見てて。栞李」


 誇るわけじゃない。奢るわけでもない。何度挫かれても、彼女はいつまでも少年少女のように無邪気な未来を描けるんだ。


「勝って必ず、アナタの想いに報いてみせるから」


 手のひらで触れる彼女の背中は棘のない温もりに満ちていて、つい身を預けてみたくもなったけどそんなものは結局私のワガママでしかなくて。


「気持ちは嬉しい……けど、ただでさえ明日の相手はあの蘭華なんだから。莉緒菜ちゃんにはこれまで通り自分のために投げて欲しいよ。私の気持ちなんて余計なものまで背負わないでさ」


 言葉を返すよりも先に、莉緒菜ちゃんは私をそっとその背中に抱き寄せた。


「大丈夫。どうせ投手はグランドの1番高いところに登るんだから。期待をの投手、のエースでしょ」


 自信と確信に満ちた彼女の声が、どうしようもなく私の心を震わせた。今、私が触れているこの背中を、無茶なこと無謀なことだと分かっていても今だけは彼女の言葉を盲信していたかった。


「……わかった。ちゃんと見てるから、最後まで目を逸らさないから、だからもう情けないピッチングしないでよ」

「もちろん。まかせて」


 その時不意に、先の沙月先輩の言葉を思い起こした。

 何を目標に明日の試合を戦うか。その心がチームにも自分のプレーにも多大な影響を及ぼす、と。

 正直、私には莉緒菜ちゃんみたいな確固たる自信なんてないし、葵先輩の作戦ゲームプランを聞いた今でも私たちが蘭華に打ち勝つ未来なんてとても想像ができない。


 けど、それでもきっと明日の私はに戦うのだろう。

 たったひとつ、信じた未来けしきを叶えるために。マウンドに登る彼女と、同じ方向を向いて。

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