第15話 RULER
「────と、いう訳で、今日はよろしくお願いしますね……ヒナタ先輩」
試合当日の朝、緊張で強ばる私とは裏腹に、ヒナタ先輩は相も変わらず緊張感の欠片もない笑顔を浮かべていた。
「そっかぁ、今日はアオイちゃんが受けてくれるのか〜。それは楽しみだなぁ」
「ニヤニヤしてないで、ちゃんとアップしてください! ケガしますよ」
どうも私には、試合が始まる前から先が思いやられる気がして仕方なかった。
「おはよう、津代さん。大丈夫? 緊張してる?」
「あ、凪紗先輩。おはようございます」
この上なく不安に陥っていた私の元へ、背後から普段と変わらぬ穏やかな声が訪れた。
「あんまり気負いすぎないようにな。困ったらアイツに頼ればいいから」
「……どちらかと言えばそっちのほうが不安ですけど」
その瞬間も、視線の先のヒナタ先輩は応援にきたらしい女子生徒たちと何やら楽しげに話し込んでいた。
「ま、まあ、そんなに心配しなくても平気だよ。普段はともかく、マウンドに上がればヒナは誰よりも頼りになる
別に、凪紗先輩の言葉を疑うつもりはなかった。けれど、それ以上に私は自分の能力にあまりに自信を持てなかったから。だから、どうにも呑気なあの人の態度が不安で仕方なかったんだ。
「そう……だといいんですけど」
そんな事、この時の私には言葉にできる程の自覚もなかったのだけれど。
「それではこれより、練習試合を始めます!両校、礼ッ!!」
「よろしくお願いします!」
結局、私が落ち着いて緊張を呑み込んでいる暇もなく、試合開始の時は訪れてしまった。
「それじゃあ、みんな!しまっていこうッ!」
その最後尾にいた私は、たどたどしい足取りでバッターボックスの後ろに向かった。
ここからなら打者のスイングに当たらないだろうか。防具のサイズが少し大きいような気がする。借り物のキャッチャーミットが手に馴染まない。これでちゃんと捕れるだろうか。
何もかも勝手が分からず戸惑っていた私へ、マウンドの上からヒナタ先輩が手を振っていた。
「おーい、アオイちゃん!投球練習しなきゃ」
「え、あぁ、はいっ! ごめんなさい……」
私が慌ててミットを構えると、ヒナタ先輩は軽く腕を振るった。緩やかな弧を描いた白球が私のミットの中に収まる。
大丈夫。捕れる。落ち着いてやれば平気なはず。
「ラスト1球です! ボールバック!」
最後の投球を捕球し、どこかぎこちないステップで2塁ベースへと白球を放る。そのボールは緩いワンバウンドながら、ベース上ちょうどに届いた。
よし。悪くない。大丈夫……大丈夫。
「それじゃあ皆さん!しまっていきましょう!!」
カラ元気のように声を張り上げて、本塁の後ろに腰を下ろす。
そこで呼吸を整えている間に、相手先頭打者が右打席に入った。
試合が、始まる。
「────プレイボール!!」
その初球。
ストレートのサインに頷いたヒナタ先輩がゆったりと投球モーションに入った。それに合わせて、私もまっすぐ前へキャッチャーミットを構える。
「……ほッ!!」
テンポのいいフォームから白球が放たれる。ボールが指先を離れた瞬間から、その1球はストライクゾーンの中心へまっすぐ軌道を描いていた。
いいコース!ちゃんと捕ればストライク。
私は迫りくる白球だけを見据え、まっすぐに手を伸ばす。前へ、少しでも前へと気持ちばかりが先走った。
────次の瞬間、私の視界の隅から鈍色のバットスイングが飛び出した。
「まッッ!?」
気づいた時には、もう遅かった。
ビチっ! という鈍い音を上げて、鋭いスイングに叩かれたキャッチャーミットがホームベースの前に落ちた。
「
前に伸ばし過ぎた私のキャッチャーミットが打者のスイングに当たってしまった。打撃妨害を宣告され、打者は悪びれもせず1塁へ歩き出した。
「────津代さん!! 大丈夫!?」
プレーが止まってすぐ、サードのポジションから凪紗先輩が飛んできた。
「大丈夫です。ミットに当たっただけですから」
「そうか、よかった」
間違いなく痛みはなかった。
けれど、左手に残る重たい衝撃は、私の脳裏に恐怖心を植えつけるには充分過ぎるものだった。
「このまま続けられそう?」
「……はい。平気です」
それでも、今このチームに私の代わりはいない。このくらいのことでみんなに迷惑はかけたくない。
そんな“責任感”と呼ぶにはあまりに自分本位な感情ばかりを背負って、私はそっと土の上に落ちたミットを拾い直す。
「それじゃあ一旦切り替えていこう! 落ち着いて1つずつアウトを取ろう」
「はい。わかりました」
仕切り直してもう一度、プレイがかかる。
ノーアウト、ランナーは1塁。初回のこの場面で送りバントをしてくるだろうか。
ここはひとまず、速いボールで様子を見ようとファストボールのサインを送る。
今度こそ、打者から安全な距離をとってミット構える。
「ふうっ!!」
素直な軌道で真ん中付近に入ったストレートに対して、相手打者は一度バントの構えを見せてからバットを引いた。
「ストライーク!!ワン!」
よし!まずひとつ、ストライクが取れた。
この試合初めてのストライクを奪い、安堵から小さく息を吐く。
打者がバントの構えをしていたことを思い出し、もう一度速いボールのサインを出す。
続く、2球目。
セットポジションからヒナタ先輩が左脚を上げた瞬間、1塁から鋭い声が飛んだ。
「────ランナー走ったぁ!!」
「……ッッ!?」
キャッチャーマスクで狭まった視界の端に、全速力で
完全に不意をつかれた形になった私は、ボールを捕球してから慌てて腰を上げる。
しかし、私が送球体勢に入った時にはもう、ランナーはセカンドベース手前にまで進んでいた。
「間に、合わなッ……!?」
焦りから余計な力が入った。
指先に引っかかった送球は、カバーに入ろうとしていた
「うッ! 逆!」
「センター! カバー!!」
「ランナー
ショートのグラブを弾いたボールが外野の前を転々としている間に、ランナーは悠々3塁を陥れていた。
「ドンマイ! 津代さん! 切り替えて! 落ち着いていこう!」
こんな時でも、凪紗先輩は必死に励ましの声をかけてくれていた。
けれど、そんな声が耳に入らないほど、その時の私は強い自責の念に追い詰められていた。
──完全に私のミスだ。
打者に気をとられすぎてランナーが頭に入ってなかった。試合開始から私1人がずっと足を引っ張ってる。
これ以上、チームに迷惑をかけられない……!
そんなことを考えながらふと、ミットを構えた瞬間だった。
視野の四隅が白く弾けた。
頭の中が真っ白になって、その場に崩れ落ちてしまいそうだった。
あれ、私いま……なんのサイン出したっけ?
「あ……」
ぼんやりとしたままの視界の中で、ヒナタ先輩が投じた白球は空中で大きく軌道を変え曲がり落ちた。
「キャッチャー、
私のミットを弾いたボールは大きく横へ逸れた。
その間に、3塁ランナーは楽々ホームへ。その1球で空振り三振に倒れていた打者は振り逃げで1塁へ進塁していた。
「……っ。また、私のせいで」
ろくな言葉も出ず、ボールを手に取ったまま立ち上がれずにいた私に真っ先に声をかけてくれたのは、一連のプレーで誰よりも頭にきてるはずの
「大丈夫? アオイちゃん」
「ヒナタ先輩……ごめんなさい私、先輩にもみんなにも迷惑ばっかりかけて」
顔が、上がらなかった。
ヒナタ先輩は、チームのみんなは一体、どんな表情をしているだろう。どんな眼をして私を見つめているだろう。
脳裏に描くだけで、身が凍る心地がした。
「……っ」
怯え震える私の頬にふと、麗らかな春の陽射しのような暖かい指先が触れた。
「────そんな顔しないでよ。葵」
それはまるで、彼女のほうが泣いているかのような優しい優しい声だった。
「ぇ……」
ふと顔を上げると、ヒナタ先輩は私の乱れた前髪をそっと整えてくれた。
「そんな顔してたら嫌いになっちゃうよ。野球も、自分自身のこともさ」
ヒナタ先輩は、抱えきれるはずもない痛恨に責め立てられ、立ち上がることさえできずにいた私へ、何度も何度もその手を振り払った私へ、変わらないあの笑顔でまた、まっすぐに手を差し伸べてくれた。
「あとはわたしに任せてよ。代わりに全部、私が背負ってみせるから」
そう言って力強く私の腕を引き上げると、ヒナタ先輩はひとり静かにマウンドの上へ帰っていった。
「キャッチャー!大丈夫なら戻ってください。試合を再開します」
「あ、はい!すみません……」
その背中がこれまでにないほど頼もしくて、つい目を奪われてしまった。
「プレイ!」
私がポジションに戻ると間もなく試合が再開された。
視界の端に1塁ベースからリードを取るランナーが映る。
同じ過ちは繰り返せない。今度はちゃんと、ランナーもケアしながら配球を考えなきゃいけない。
また盗塁された時、すぐ投げられるように速い球から入ったほうがいいだろうか。いや、あんまり安直にいって長打を打たれたら元も子もない。考えなきゃいけないことが多くて全然まとまらない。
そんなことを考えながらふと私がヒナタ先輩へ視線を向けた、その瞬間だった。
「────
走者が1歩、リードを広げようとしたその瞬間、ひと息の間にも満たない素早い動きでファーストへ牽制球を投じた。
「……ッ!?」
ランナーも慌てて帰塁を試みたが、ベース上ぴったりにコントロールされたボールの方がほんの数センチ速かった。
「アウトッ!!」
その判定がコールされた瞬間、イマイチ元気のなかった守備陣が一斉に沸き立った。
「ヒナ! ナイス牽制!!」
「ナイスプレーです!陽葵先輩っ!!」
私以外にも今日が初めての試合となる新入生も多かったチームにとって、その1つのアウトは普段のそれ以上の大きな意味を持っていた。
「あの人、いつの間にあんな練習を……」
そのワンプレーはセンスや才能だけでは到底説明できないような、とてつもなく洗練された動きだった。
けれどヒナタ先輩が牽制の練習をしている所なんて、見たことがないどころか想像さえ出来ない。
私が入部してから投球練習さえまともにしていなかったあの人が。
「葵〜!!」
未だぼんやりしたままの私に、マウンドの上からヒナタ先輩がにっと笑いかけていた。
「ランナー、いない方がいいでしょ?」
その笑顔を目にして、私は思わずいつかの凪紗先輩の言葉を思い出していた。
『────陽葵は誰よりも頼りになるエースだから』
確信に繋がる何かを見つけた訳じゃない。けれど確かに、私はその片鱗を垣間見ていた。
「ワンナウト〜!打たせていくから、みんなよろしくね〜」
その言葉の通り、続く打者への2球目、真ん中低めの速球を弾き返した打球は平凡なゴロとなって二塁手の前に飛んだ。
「セカンド! 落ち着いて」
「はいっ!!」
私と同じ新入生の彼女が、途中固さの残る動きを見せながらも何とか一塁へ送球すると、一拍置いて一塁審がアウトを宣告した。
「ナイスプレー! マホちゃん!」
「あ、ありがとうございます!」
不思議と、あのワンプレーから何もかもが好転していた。ひとつ、ひとつとチームの中に笑顔が増えていった。
その中心にいたのは、やっぱりあの人だった。
「ストライーク!ワン!!」
1球1球、全てヒナタ先輩が意図した通りに試合が進んでいく。
「ストライク!ツー!!」
それはまるで涼しい
「ファールボール!!」
速球を3球続けて、カウント0ボール2ストライク。ここで不意にヒナタ先輩が私のサインに首を振った。
彼女が何を要求しているかは、その
「……ふぅっ」
わかってる。
ヒナタ先輩はあのプレーの後でも、私のことを信じてくれてるんだ。
私だけ、いつまでも後ろ向きではいられない!
意を決して、サインの指を1本増やす。
試合前に2人で決めた『カーブ』のサイン。速いスピードで大きく曲がる、ヒナタ先輩の
「……ふっ!」
────もう絶対に、後ろにはやらない!
「ッッ!!」
ストライクゾーンを割って大きく変化する球を何とかプロテクターに当て前に落とした。
「スイング!!」
狙い通りの空振り三振。
目の前に転がる白球を拾い、打者にタッチしてスリーアウト。
「やったぁ! これでスリーアウト!」
「ヒナ先輩、ナイスピー!!」
これ以上ない味方の歓声の中、ヒナタ先輩はマウンドから私の元へ、曇りのない笑みを浮かべて歩み寄った。
「ナイスキャッチ。葵」
その
「……ヒナタ先輩こそ。ナイスピッチングでした」
お互いの右拳で交わしたタッチは、穏やかな誇らしさに満ちていた。
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