第1話 門出の日
────心が折れる時はもっと軽い音がするものだと思っていた。
「あ、いた! おーい! 栞李ちゃん!」
「良かった。まだ帰ってなかった」
飴菓子を割った時のような、そんな軽快な心持ちですぐ諦めがつくものだと勘違いしていた。
「聞いたよ〜栞李ちゃん。県外の高校行くんだって?」
「しかも“アキヅキ”って確か結構偏差値高いとこだよね?」
「へー! スゴいね! おめでとう!」
「あ、ありがと……」
実際は若い枝葉のようだった。潔く折れてはくれないし、曲げても捻っても容易くちぎれてはくれなかった。
「でも少し残念だなぁ。高校でもまた一緒に野球できると思ってたのに」
「……ごめん」
「別に謝ることじゃないよ。高校行っても続けるんでしょ? 野球」
「え、まあ……多分」
ホンモノの痛みは深く鋭く、じくじくと胸に染み入るようなモノだった。
「そういえば聞いた? タカモリさん、あの静真中央に推薦もらったんだって!」
「聞いたよ! 全国大会でも大活躍だったし、さすがだよね〜」
「ね〜。
「そうかも! 今度会ったら私、一緒に写真撮ってもらお〜っと」
「えー、気が早いよぉ。けど、写真はワタシも撮りたいかも」
中学3年の夏、私は初めてその痛みを知った。
それがどれだけ惨めで、恥ずかしいものか嫌という程思い知った。
他人の言葉はどれも腑に落ちないくせに、自分の経験だけは酷く身に染みる。人間という生き物はつくづく自分本意に設計されていると思う。
「あ……で、でも栞李ちゃんだってスゴかったよ。あと少しでレギュラー取れそうだったんだし」
この世には『怖がりな子供』と『痛み知らずな大人』は存在しないらしい。
「そう。そうだよ! あのケガさえなければきっと……」
「別にいいよ、気を使わなくて。私じゃどうせあの娘には適わなかっただろうから……」
あるいは痛みを知らない人間を『子供』と呼んでいて、怖がりな人間を『大人』と呼んでいるだけなのかもしれない。
「きっとあの娘が、ホンモノの天才なんだよ」
いずれにせよ、私は今のところ、あまりにも順調に『怖がりな大人』への道を歩んでいるようだ。
*****************
「あっつ……」
その日は季節が早ったような夏日で、少女の額にはじっと汗が滲んでいた。
「寒いよりいいじゃない! せっかくの門出なんだから!」
「あーもーおかーさん! ただでさえ暑いんだからひっつかないでよ」
桃色の花弁が舞う校舎の前は、彼女たちのような親子で溢れかえっていた。
ここ
そんな学校の入学式を終えた少女、
「も〜ぅ! せっかく受かったんだからアナタももう少し喜びなさいよ! 第一志望だったんでしょ!?」
「じゅーぶん喜んでるよ。おかーさんがはしゃぎ過ぎてて分かんないだけだって」
その少女の髪はすっきりした黒髪のボブに切りそろえられていたが、毛先にはまだいつかの栗色が残ったままだった。それをわざわざ染め直さない辺りに、彼女の性格が垣間見える。
「いや〜、ホントによく頑張ったよ! 初めての模試の時なんてかすりもしなかったのに」
「おかーさん! その話はもういいから」
彼女の母親は娘にどれだけ邪険に扱われようと、裏のない笑顔で栞李の頭を撫で続けていた。
「あー、ほら! 私もそろそろ行かないと。みんないなくなっちゃう」
「ああ! ちょっと!?」
半ば強引にその場を抜け出そうとする娘の手を、慌てて母が握り直した。
「もー、なに!?」
照れ臭さに焦りも加わって思わず荒らっぽい声を上げてしまう栞李だったが、振り向いたそこにいた母の瞳は春の陽ざしを吸って小粒の水晶のように優しく輝いていた。
「おめでとう、栞李。1度しかない高校生活なんだから、自分の意思でちゃんと楽しみなさいよ」
「……」
風が吹いた。
夏日とはいえ、その南風はまだ僅かに春の香りを残していた。
「ほら、笑って!」
中学までは近所の公立校に通っていた栞李にとって、
生まれてこの方、家族4人で暮らしてきた家からも遠すぎてここへは通えない。
だからこれが、栞李にとって初めての門出で、母にとっては初めての見送りだった。
「ありがとう、お母さん。いってきます」
「うん。いってらっしゃい」
栞李はぎこちなく、それでも精一杯微笑んで、母親の元を離れた。
生暖かい春風が優しく彼女の背中を押してくれているようだった。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
「……ここかな」
栞李が校舎の入口で受け取ったプリントに記された通りの座席に着くと、間髪入れず隣の席に座っていた女子生徒が椅子ごとその身を寄せてきた。
「おはよう! えっと確か、末永栞李ちゃん……だよね?」
真夏の水しぶきを思わせる溌剌とした声を投げかけてきたのは、見事なポニーテールを頭上に高々と掲げた明朗快活な少女だった。
「どうして、私の名前を?」
「どうしてって……クラス全員の名前、このプリントに書いてあるから」
「ああ……」
言われて目を落とせば、そのプリントには彼女の名前もきちんと記されていた。
「えっと、
「
「はは……じゃあ実乃梨ちゃん」
「うん! これからよろしくね! 栞李!」
彼女の情け容赦のない笑顔を前にしていると、次第に初対面で緊張していた自分のほうがバカバカしく思えてきた。
「そうだ! 栞李はもう入る部活は決まってたりする?」
「え、まあ候補ぐらいなら」
「ホント!? なになに~?」
「えっ? えと、文化部なら吹部とか、合唱とか? 運動部ならバスケとかバレーとか、あとは野球……」
「────ヤキュウっっッ!!?」
栞李がそれを最後まで言い終える前に、さんさんと目を輝かせたポニテ少女が栞李の両肩に掴みかかった。
「ホントに!? ホントに野球部!? いいな~スゴいな~! もしかして経験者だったり!?」
「え? まあ、一応?」
「ホントッ!? ワタシこないだ中学の友達に誘われて高校野球の全国大会見に行ったんだけどさ! 試合すっごい面白くて、応援団もとっても盛り上がってて! ワタシ、球場行くの初めてだったけどすっごい感動したんだよ!!」
「あ、そう……」
栞李の眼前で鼻息を荒くする彼女は余程野球好きの人と出会えたのが嬉しかったのか、尚も勢い収まらずにまくし立てた。
「その日からずっとプロの選手のプレー動画とかも見てて、もーすっかりハマっちゃったよ!」
「そうだったんだ……」
「そうそう! しかも女子高校野球って、全国大会はプロの球場で試合できるんでしょ!? あんなキレーなグランドに立てるなんて、考えるだけでワクワクするよ〜!」
その笑顔には覚えがある。
いつかの栞李と同じような『憧れの景色』を、彼女は確かにその胸の内に温めているようだった。
「だからワタシ、高校に入ったら絶対ヤキュウ部に入って全国目指すって決めてたんだ!」
「そうなんだ……」
「そう! それで一番近くのこの学校なら野球部あるって聞いたから、受験勉強ガンバったんだよ〜!」
「それは、よく頑張ったね」
「まあ、割とすぐ合格点には乗ったんだけどね〜」
「……」
別に、栞李は悔し紛れにその笑顔に水を差したい訳でも明確な悪意があった訳でもなかった。
「でもここの野球部、そんなに強くないよ?」
「えっ……」
けれど、栞李の口からその事実を聞いた途端、それまで膨らみ続けていた実乃梨の笑顔がみるみるうちにしぼんでしまった。
「そう……なの?」
「うん。何年か前にできたばっかりだし、去年も確か2回戦か3回戦で負けてたし」
「……」
「まさか、知らなかった……とか?」
あまりに唐突に黙りこくる実乃梨に対して、少しばかりの申し訳なさを抱き始めていた栞李だったが、
「────それってつまり、始めたばっかりのワタシでも試合に出れるかもしれないってこと!?」
その立ち直りもまた、あまりに突発的で自己完結的なものだった。
「これはきっと運命に導かれてるんだよ! もう入部待ったナシだね!」
その有り余るまでのポジティブ
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