夜と紅の夜明け

馬籠セイ

第1話 初めてと始まり

 あの半年間のことを1年以上経った今で思い出す。最高に楽しかったはずの彼女との思い出があんな風に終わってしまうなんてことはあの時の僕には想像出来なかった。今思えば、全てが美しく、刺激的な、極彩色の夢の中にいるような日々だった。きっとあの頃の僕は狭苦しい田舎で育った、ありもしない普通を夢想した少年だったのだろう。空の狭い都会の方が大空の広がる生まれ故郷よりも自由なんだと誤解していたんだと思う。

 2年前の4月、長く辛い大学受験を乗り越えて僕は大学生になった。友達は出来るだろうか。都会は恐ろしいものではないだろうか。電車も通っていないような田舎から上京したばかりの僕は、そんな不安を抱えながらも新天地での生活に胸躍らせていた。

 引っ越した部屋の片付けなんかをしながら講義が始まるまでの一週間は未知の大都会の探索に終始していた。「これが山手線だ」とか「あれがスカイツリーか」とかよくある東京初心者みたいなことを言っているうちに、そんな日々はあっという間に過ぎていった。

 4月7日、今日は待ちに待った入学式の日だ。田舎から両親も昨日から来ていて、今日をとても楽しみにしているみたいだった。朝8時、両親と電車に乗って会場となるホールに向かう。途中道に迷ったりしてしまったものの同じようにスーツを着た「いかにも」な人たちについて行ってやっとの事で会場にたどり着いた。でも結局、入学式で覚えているのは偉い人の話が長かったとか人がたくさんいたとかそんなつまらないことばかりだ。

 そんななかでも、隣に座った人と仲良くなった。千尋といって東京の出身の男の子で、一浪して今年入学したらしい。明るいスポーツマンみたいな感じで好青年を絵に描いたような人だった。同じ文学部らしく、高校の国語の先生に憧れていて将来は先生になりたいと言っていった。何となく都会に出たくて、本が好きだという理由で入学した僕とは大違いで、少し赤面してしまった。

 入学式の次の日からは授業が始まる。名残惜しそうな両親を空港で見送った後、帰りの電車の中で、同級生にはどんな人がいるんだろうかなんて考えながらウキウキとした気持ちでいた。家についても高揚感の抜けない僕は、遠足の前の小学生みたいに早めに布団に入った。そうすると思ったよりも疲れていたのかあっという間に寝てしまって、気づくと朝の8時30分。一限まであと30分である。大学の近くに住んでいるので急げば十分間に合う時間だ。急いで着替えて、髪のセットもそこそこに僕はアパートを出て、なんとかギリギリ間に合った。早めに教室にいた千尋はニタニタしながらこちらを見ている。友を救う勇者でもなく、ただ共に笑われる僕は今日もまた赤面してしまった。

 荒れた息を整えながら教室を何の気なしに見ていると、ある一人の女性に目がとまった。黒いシャツに黒いスキニーパンツ、真っ黒なベリーショートで、その大きい瞳は何もかも見透かされそうな力強さを持っていた。こんな綺麗な人いるんだなあ、なんて思いながら彼女から目が離せずにいると、それに気づいた千尋は、

「あの人、俺と同じ予備校通ってた山岡さん。同じ大学だったんだね。あの人ならもっと難しい大学受けてたと思ったんだけど。」

と彼女について教えてくれた。そうなんだと思っていると講義が始まった。

 一回目のガイダンスだったからその日の講義は全部すぐに終わってしまって、夕方からはサークルの新歓という名の飲み会に行った。話すのが苦手な僕は、本当はあまり乗り気ではなかったけど、千尋がどうしてもというものだから仕方なく行くしかなかった。サークルについての一通りの軽い説明が終わった後に始まった、大学生独特の意味があるのかないのか分からない話ばかりする宴会は正直受験勉強よりも退屈だった。対称的に、千尋とか他の一年生は楽しそうなもんだから、おかしいのは僕なんだと思って変な疎外感を感じてしまった。そんな宴会が終わって、奢ってもらった先輩に形式張ったお礼を行って僕はアパートに帰った。

 「僕はちゃんと大学生になれるのだろうか?」、そんな不当な憂鬱にとらわれながらその日は眠りについた。

 それからは講義を受けて、サークルに行って、バイトをしての繰り返しが始まった。典型的な大学生のような日々を過ごしていた。4月に抱えていた不安など嘘みたいに僕は「普通」の大学生活を謳歌していた。サークルは文芸研究会に入り、バイトは近所の本屋でしていた。国文学専攻だった僕は、講義では文学を学び、サークルでは本を読みながら感想を語り合い、バイト先では本に囲まれて働くという、文学少年にとっては理想的な生活を送っていた。文芸研究会では、新歓に行ったあのサークルと違って、本のこと以外語らなくてよかったのが僕の性分に合ったのだろう。

 そんな日々が一ヶ月ほど続いた7月、僕にとって忘れられない日々が始まろうとしていた。山岡さんが僕がアルバイトしている書店に新しいバイトとして入社したのである。

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