第21話
これで今日の給料はエルのものになるのか……。
いかんいかん。最近金のことばっかり考えるな。落ち着け俺。
全く、貧乏な暮らしをしてるからこういうことになるんだ。心が貧しくなっている。
だけど、もうその生活もおさらばだ。
おっさんの店も繁盛し始めて俺の給料が増えてきた。そして演奏会を成功させればすごい額の金が転がり込んでくる。
まあ油断は出来ないな。自分が演奏を成功させるのもそうだけど、エルの演奏も成功させてあげないといけないし。
入る金が大きい分、責任も重大だ。
「ただいま戻りましたー」
店の中は、いつも通り賑わっている。流石、前の楽して働ける店とはもう違うな。
俺らも気合いを入れないと。
「お、なんだよ。別に今日くらい休んでも良かったのによ」
「ちょっと、エルにピアニストデビューさせようと思って」
「お、遂に弾かせるのか。て、ことは2人に給料払うのか……これはますます削られるな……」
「別に良いですよね。前ならともかく、最近儲かってんですから気にしても無駄ですよ」
「ま、それもそうか。って絶対それお前が言うセリフじゃないよな」
「えっと……私別にまだお金なんて」
「遠慮すんなよ。仕事なんだからお金もらうのは当たり前だろ。ほれ、準備準備」
エルを催促してピアノへ向かわせた。ここから俺は裏に戻ってひたすら譜面に起こす作業だ。
オリジナルの曲を作っていた頃と比べると、ただ譜面をコピーするだけなのは少し退屈な作業だが、これもエルの為だ。
俺は、ポロポロと流れてくるピアノの音を耳にしながら。筆を進めた。
エルはまだ小さな手をしているが、それを言い訳にしないくらい、綺麗な演奏をする。繊細なタッチでなめらかに進む演奏は、果たして別れの曲をどう表現するのだろう。
エルはピアノを弾く時に抱く感情が、ピアノに分かりやすく現れる。今の演奏は、緊張しながらも楽しそうにピアノを弾いていた。
果たして演奏会でピアノを弾く時、エルの抱くものはなんなんだろうか。
音楽を続けたいという切実な願いか、それとも大勢の観客を手の前にする緊張感か、もしかしたら父に対する怒りなのかもしれない。
それなら、俺はどんな気持ちでピアノを奏でればいいんだろう。
シンゴーソングライターをしていた時とか参考になるだろうか。ライブハウスで歌ってた時って、どんな気持ちを込めてたんだっけか?
俺が先にプロになってやるとか、めちゃくちゃガツガツしてたのは覚えてるけど、ライブしてる時に何を思って弾いてたか覚えてない。考えても考えても思い出せない。
もしかしたら、無機質な音の正体と何か関わってくるのかもしれない。
「――師匠、今大丈夫ですか?」
「ああ、どうした?」
「師匠のピアノを聞きたいって人が来たんで、1度交代して欲しいんですけど……うわぁ! これ、私の楽譜ですか?」
「ああ。まだ最初しか書いてないけどな」
机の上に置いてある楽譜を見て、エルは目を輝かせた。
「ふんふーんふふふーん……本当だ。別れの曲そのままですね。よく何も無いのに書けますよね。凄いです」
「いや、これくらいなら慣れれば誰でも出来る。その内エルにもコツを教えてあげるよ。――さて、じゃあちょっと行ってくる」
全く。エルが弾いてたのに、なんで俺を指名するんだよ。普通に考えてエルに失礼だろ。
まあでも、言われたからには行くしかないし、エル自体そんな気に病んでるように見えないし構わないか。
「んで、その俺を指名したやつって誰なんだ?」
「師匠の知り合いのビーストが来ました」
「……なにそれ」
「ビーストです。野獣です」
「野獣……そんなやつ知り合いにいたかな? 本当にビーストなのか?」
「そうです。ビーストなんです」
「――ごちゃごちゃうるさいわね」
ああ、なるほどそういうことだったか。
「ったく誰が野獣よ。全く、この子の敵意はなんなの?」
多分初対面の頃のやつが効いてるんだろうな。でもそろそろ慣れてもいいと思うんだけど、ダメなのかな。
「ユーリ、なんで態々俺の曲なんだ?」
「だって、ここの音楽はクラシックばかりでつまんないだもん。ここならなんだって聞けるでしょう? あんた、シンガーソングライターやってたって言ってたし、弾き語りとか良いんじゃない?」
「いや、他の客もいるしな……弾き語りはキツイ。まあ……ジャズくらいなら良いけど」
弾き語りとか論外だよ。俺の作ってたのは今どきのポップにジャズっぽい雰囲気やクラシックのフレーズを混ぜたような曲。そんなのしたら音楽への冒涜だとか言われかねない。
正直、ジャズでさえ少し考えてるんだ。ジャズも人種差別による迫害っていう歴史もあるし。
「ジャズ! ここの雰囲気にピッタリじゃない。なんで弾かないの?」
「ああ……いきなりジャズなんか弾くと批判する人は多いだろうからな。音楽への冒涜だなんて言われたら怖い」
「……そんなことあるの? だって音楽よ?」
「有り得なくはない。今の時代にジャズはあまりにも自由すぎるし、アメリカのヒップホップなんてギャングの抗争とかにも発展してたし。でもまあ、今日は客も少ないから、モードとかじゃない初期のジャズとかなら……少しくらい弾いても大丈夫かな」
音楽家に喧嘩売られると色々めんどくさいからな。だから、今日だけだ。
エルもいる訳だからな。
「師匠。ジャズってなんですか?」
「聞いたら分かるよ。今まであるクラシックみたいな雰囲気に加えて、自由度が増えていて面白い曲だよ」
シンガーソングライター時代は、初めの頃はかなりジャズ調の曲によせて何曲か作ったことがある。まあ、どれも不発だったけど。だから、勉強がてら有名な曲はいくつか暗譜してる。
まあこれも、覚えているっていっても探り探り弾かないといけないわけだが。
いやー。記憶力あってまじ助かるわ。
「うし。じゃあ弾くか」
エルがすんごいキラキラした目で俺を見ている。
そんな綺麗な目で見るほどかね。いや、曲自体は凄いんだけどね?
取り敢えず、比較的クラシックから影響を受けている曲を選んだ。
ビル・エバンスのWalts for Debbyなら、多分ユーリも聞いたことあるだろう。
日本で大ヒットした曲で、静かでゆったりとしたバラードの曲だ。
最近はクラシック尽くしだったし、たまにこうやって別のジャンルを弾くのもリフレッシュになる。
ジャズはアメリカ発祥の音楽で、ヨーロッパで発展したクラシックと、アメリカ独特の音楽のリズム感が合わさった新しいジャンルの曲だ。ビル・エバンスは、そのジャズが生まれた少し経ってから生まれた人だ。
本当なら他の楽器も欲しいところだが、ドラムはないだろうし全員揃えるのは無理だな。
「…………」
おかしい。まただ。無機質なピアノの音が店内の壁に吸い込まれていく。しかも、今回は練習じゃないのに。
だが誰も、誰も気付かない。誰も俺のピアノの音に気付かない。
いや、違う。これはピアノが悪いんじゃないし、表現力とかそういうものでもない。
単純に、心の問題だ。何故か、演奏と心が交わらない。何処か遠くを見ているような気分になる。
それでも、演奏は続ける。出来うる限り曲の雰囲気を思い出して弾き通す。
曲を弾き終わり、店内は不思議な雰囲気に包まれていた。
「師匠……今の曲は」
「これ、タブーだったか?」
「いえ、そういう事じゃなくて……。なんて言うんでしょうか、この気持ちは」
「音、つまらなかったりしなかったか?」
「い、いえ! 全然そんなこと無かったです。それどころか、感動しました。全く新しい物に出会えたような気がしました」
……やっぱり心の問題なのか?
ともかく早く何とかしないと不味い。今は誤魔化せてる。でもいつかボロが出る。
特に、この後やって来る演奏会では絶対逃れられない。
エルからは心配そうな顔で見られている。
師匠として心配させる訳にはいかない。
「よし、エル。取り敢えず、演奏を続けててくれ。俺は裏に戻るから」
「あ、はい。分かりました」
「奏太」
「ユーリ?」
「あんた。悩みがあるなら相談したさなさいよ。私だって、何か役に立てると思うから」
「……ああ、ありがとう」
俺は軽く手を挙げて返事をして、裏へ戻って譜面の続きを書き始めた。
結局、あの無機質な音がなんなのか今も分からないままだ。
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