第2話 少年シキ

 リヒトが暮らしている家へと帰ってきた。

 水場からも程近いその場所は、密に生えていた木々がぽっかりと無くなっており、その中心に家が建っている。

 白と灰色のレンガ造りの二階建てで、屋根の色はくすんだ赤銅色。前庭にはウッドデッキがあり、さらにその前には薬草園が広がっている。


 リヒトはエントランスのドアを開けると、入ってすぐの居室に入り、抱えていた子どもをベッドに優しく降ろした。

 暖炉に火を入れて、部屋を暖かくする。

 子どもの体温を測るために、リヒトは顔を覆い隠す髪の毛をかきあげ、額に手を当てた。人族の平温からするとかなり熱がある。

 本来ならまるみを帯びているであろう頬は痩け、眉は苦痛に歪んでいる。

 土気色の顔色を確認した後、一旦居室を後にしたリヒトは、居室の向かいにある部屋へと移動した。薬草の保管室兼研究室として使っている部屋だ。

 壁いっぱいの薬草棚と作業机にさらには書類に埋もれた執務机があるせいで、先程よりも手狭に感じてしまうが、居室と同じ広さの部屋になっている。薬草の香りと消毒剤の香りが独特である。

 手馴れた様子で解熱効果のある薬品を手に取り、水差しと椀と匙をトレーに乗せるとリヒトはまた再び居室へと戻ってきた。

 つい先日、日干しにしたクルコスの茎を煎じて作っていた解熱剤だ。寒期の手前に採れる薬草で、芽吹きの季節までの期間に起こる体調不良を助けてくれる薬草でもある。


「少し苦味のある飲み薬だけど、これは君の熱を下げる薬だ。ゆっくりと飲み干して」


 クルコスの解熱剤を椀にとり、少しだけ匙で掬うとリヒトは子どもの口内に少しずつ流し入れた。一口流し入れられた子どもは咳き込んでしまったが、二口目には落ち着いたようで、リヒトが差し出すままに薬をゆっくりと嚥下した。

 浅く早かった呼吸が少し落ち着きを取り戻した。土気色をしていた子どもの顔色が僅かばかり回復したのをみとめて、リヒトはもう一度部屋を後にした。

 今度は研究室ではなく廊下を少し歩いた先にあるキッチンやリビングのある部屋へと向い、保冷庫から果実水の瓶を取り出した。

 糖蜜を少量器に取り、果実水で溶かす。酸味と甘味のバランスを整えたら、リヒトはまた居室へと足を運んだ。

 うっすらと意識のある子どもに話しかける。


「リオの果実水と蜜を混ぜたものだよ。お腹が空いていると思うけど、とりあえずこれを飲んでしばらく休んで」


 こくりと子どもが頷くのをみとめて、リヒトは先程糖蜜と合わせた果実水を匙で掬い、子どもの口元に運んだ。解熱剤よりも口に合ったらしく、ごくり、ごくりと嚥下する。

 作った器分を飲み干したら満足したのか、子どもはすぅすぅと整った寝息を漏らし、眠りに落ちた。


「よっぽど疲れていたんだね。……ゆっくりおやすみ」




 日が暮れて、暖炉の光だけでは灯りが足りなくなったため、ランプに火を灯した。朝に子どもを拾ってきてから看病し始め、あっという間に時間が経ってしまった。

 何度か眠りの縁から意識を取り戻した子どもに甘い果実水を与え、夜になってからもう一度解熱剤を飲ませた。額に手を当てると、微熱程度まで熱は下がったようだった。

 あとは体力が回復すれば固形物の食事も採れるようになるはずだ。リヒトはひとまず安堵の息をつき、大きく伸びをした。


 どこからやって来たのか、何故一人で倒れていたのか。確認したいことはあるが、今は体調の回復が最優先である。

 リビングの振り子時計がゴーン、ゴーンと控えめに鐘の音を響かせ、日付が変わったことを告げる。カタカタと少しだけ風に揺られる窓ガラスの向こうは、黒々と塗り込めた闇が広がっている。

 今日はもう休もうと決めて、最後にもう一度子どもの顔を見つめた。整った寝息と穏やかそうな表情に一息つき、リヒトは居室を後にした。




 その日、リヒトは夢を見た。

 場所は樹海の中にぽつんと建つ拠点として生活している我が家だ。前庭で自分は薬草の手入れをしている。朝の日差しがやわらかく降り注ぐ、穏やかな時間を過ごしている。

 エントランス横にある寝椅子の上で竜人族の子ともが、楽しそうにカエルラウェスと戯れている。陽光に輝く黒髪を青色の小鳥が啄んで遊ぶのを、ご機嫌な様子できゃあきゃあと可愛らしい声をあげながら楽しんでいた。

 とても優しい夢だった。


 ふっ、と浮上する意識とともに直前に見ていた夢も霧散した。ベッドから起き上がったリヒトは簡単に身支度を済ませると、自身の居室にしている二階から降りて、客室のドアをノックした。


 こんもりと盛り上がったベッドが規則正しく上下していることから、未だにベッドの主は夢の中のようだ。

 枕元にしゃがみ、顔を覗き込む。頬が赤く上気した様子もなく、顔色は良くなっていた。

 そっと額に手を当てて熱を測ると、人族の平熱ほどまで下がったようだった。

 ふるりと閉じられていた睫毛が揺れ、ぱちぱちと何度か瞬いたのち、子どもが目を覚ました。


「おはよう、気分はどうだい?」


 ぱちり、とこちらを見て琥珀色の瞳をまん丸にしており、夢の中から覚醒したようだ。


 そこからの行動は異常に早かった。

 サッと身を起こそうとしたのか、身体に力が入らなかったようで、ベッドを寄せてある壁にごちりと頭部をぶつけてしまった。

 ゴンという鈍い音と、無言で痛みに耐える様子から、大丈夫かと手を伸ばそうとしたら、子どもはその手をガチリと噛もうとしてきた。

 人族とは異なる子どもながらに鋭い牙のような歯が口腔に覗く。リヒトは伸ばしかけた手をぴたりと止め、ゆっくりと手を引いた。

 先ほどまで良かった顔色は青くなり、ぶるぶると震えているが、目はキッと瞳孔を細くさせ、威嚇の体勢をとっている。


「驚かせて悪かったね、君を怖がらせるつもりは無いよ。どうか話を訊いてほしい」


 看病中、きちんとリヒトのことを認識出来たわけではなかった様子の子どもに、ひらひらと両の手を上げた状態で、敵意がないことを伝えた。


「私はリヒト。ここはシンハ樹海の南東側で、この家は私が薬を研究したり、薬草を育てたりするために建てた家なんだ。いつもは商人から依頼を受けた薬を納品しながら暮らしているよ」


 牙を剥き、瞳孔を細めていた子どもはリヒトの言葉を受けて、少しだけ威嚇の体勢を緩めた。


「君が何処から来たのかとか、どうして一人なのかは、話したいと思ったときに教えてくれたらいいよ。一先ずは体力を回復させるために、食事をして、そしてもう少し休むべきだ」


 緊張から逆立てていた子どもの黒い髪の毛が次第に落ち着きを取り戻す。人語はきちんと伝わっているはずだが、警戒心からか、口をきこうとはしなかった。

 昨日は生きるのに必死で、解熱剤や果実水を与えられるがままに飲み干していたのだろう。まるでその光景が幻だったのではないかと思うほどの警戒のしようだった。


「軽々しく信じて欲しいとはいわないけど、せめて君の体調や体力の回復に協力したいと思っている。朝食を用意してくるから、もう少しここで横になっていてくれないかい?」

「……僕を助けたら――」


 これまで口を開かなかった子どもが、ようやく言葉を発した。声変わり前だろう、少し掠れているが軽やかな音が耳朶を打つ。王都の教会で幼年合唱団の歌声を聴いたことがあるが、この子どもの声はその合唱団に混じっていても問題ないほど軽やかに澄んだ声をしていた。


「僕を助けたら、どうするつもり……?」


 壁側ににじり寄ってはいるが、いつでもリヒトの脇を通り抜け、逃げ出せる体勢でいる子どもが投げかけてきた疑問。なんの義理もない、ただ道中で行き倒れていた珍しい竜人族の子ども。

 悪知恵の働く大人であれば、ある筋では高値で取引できるだろう。良心が根絶やしになっているのであれば、呼吸をするように簡単なことだ。

 この子どもは、それが当たり前の世界で生きてきたのだ。助けて、恩を売りつけ、それを理由に対価を要求することが、当たり前の世界で。


 リヒトは息が詰まりそうになった。世界はもっと優しさもあると、伝えたくなった。リヒト自身、大したことをしてきた訳でもないし、正義ばかりを振りかざして、罪を働いたことがない潔白な者だとは言い張らないが、無垢に生きられる世界をこの子どもに教えたかった。


「何も考えてなかったよ」


 使命感に駆られた訳でもない。ただ、救う術を知っていて、その手段を実行できたから、そうしただけだ。

 ひゅ、と呼吸をする音が子どもから聞こえる。


「君が苦しそうだったから、手を差し伸べただけ。他に理由なんてはないよ。それに元気になったあとのことは、君が決めるべきで私がどうこうすることでもない。これでは、答えにならないかな……?」


 苦笑をこぼす。本当にこれ以上、伝えようが無いことだった。こんな者もいるのだと、子どもに知って欲しかった。


「……お腹、すいた」

「うん、わかった。食事を持ってこよう」

「まだ、頭がずきずきするんだ」

「微熱程度には下がったけど、もう少し解熱剤を飲んでおいた方が良さそうだね」

「……もう、怖いことおきない?」

「君がここに居る間は安心して過ごせるようにするよ」

「……うん、うん」


 するすると力が抜けたのか、子どもはくったりとまたベッドへと横になった。

 くぅくぅという寝息が聞こえてきて、リヒトはにこりと微笑んだ。ひとまずは信頼してもらえたようだった。

 暖炉に追加の薪を入れ、部屋を温かく保つ。窓の向こうは今日も少し霧がかかり、うっすらの針葉樹の木立が並んで見える。時刻はまだ午前。リヒト自身の朝食と子どもの食事を用意するために、リヒトはそっと居室を後にした。


 野菜を柔らかく煮たスープと果実水を盆に乗せて、リヒトはまた居室へとやってきた。

 子どもはうっすらと目を覚まし、鼻をくんくんとさせている。食欲が湧いてきたのか、毛布の中からぐぅ、という腹の音まで聞こえてきた。

 くすくすと笑いながら、リヒトはサイドテーブルに盆を置く。


「自分で食べられそう?」

「……うん」


 ベッドから身を起こした子どもは嬉しそうにリヒトから差し出されたスープ皿とスプーンを手に取ると、最初は様子を伺うようにゆっくりと口に運んでいたが、何口目かには食欲が抑えきれなかったようでガツガツとスープを美味そうに飲み干してくれた。

 体調を考えて柔らかく煮た野菜しか入れていなかったが、これなら獣肉の腸詰や燻した肉も問題なく食べられるだろうと思った。昼ご飯にはもう少し体力回復できるものを出そうと、リヒトは頭の中で献立をつくった。




 意識がはっきりとして落ち着いた頃に子どもの名前を訊いた。

 『シキ』、と名乗ってくれた。街道にあるエトルーク村からやってきたらしい。


 朝食後もぐっすりと眠りに落ちた子どもを気にかけつつ、リヒトは追加で解熱剤や鎮痛剤を作っていた。

 温かいスープを飲み、薬を飲んだお陰で子どもの体調はだいぶ回復したようだった。あとは水分を取りつつ、休息をしっかりとればすぐにでも自由に動き回れることだろう。


 薬をいくつか作り終えたあと、リヒトはカエルラウェスに手紙を持たせた。

 領都の古い友人宛にエトルーク村の亜人の子どもが攫われ、それを自分が保護したこと、名前、見た目の年齢、容姿などを書き記した手紙を送ることにした。領都に尋ね人の報せが出ていないか、確認してもらうためだ。

 大人しく窓辺で待ってくれていた鳥の足に結わえる。


「少し長旅になるけど領都まで頼むよ。またベリーを用意しておくからね」


 ピルピルと機嫌良く鳴いた魔鳥の頭を人差し指で優しく撫で、窓から飛び立つのを見送った。


 問い合せた手紙には、竜人族、とは書かずに、亜人の子ども、とだけ記した。

 今朝の子どもの警戒した姿を思い出し、リヒトはこめかみを指でとんとんと叩く。


「噂は本当だったんだね……」


 竜の鱗や角、爪や牙などを加工して精製する宝飾品が貴族の間でかなりの高値で取引されているという話を聞いたことがある。

 純血種の竜は絶滅したが、その理由の一端が狩猟で減らされた、という考察もあるぐらいだ。

 今世の竜人族が襲われない、という理由はない。恐らく純血種の竜よりも遥かに狩りやすいだろう、人型の際の女や子どもを狙えば。


 それに元々、亜人の子どもも攫われやすい。厳しく規制されているがそれでも奴隷として亜人が売買されることもある。人族が大半を占めるこの大陸では、魔力持ちの亜人は希少だ。王都や領都の貴族が下働きとして隠れて亜人を買っては役人に捕縛され、罪に問われているとも聞く。

 純血種からすると亜人は劣ると言われても、人族は魔力すら保有しないのだ。希少な力を手中に納め、他者より優れた功績を収めたいのか。欲の類はわからないが、反吐が出る。


 嫌な想像にリヒトは苦虫を噛み潰したよう顔になるが、あの子の警戒心はそういった場面に出くわしたからこそ現れた面だろう。

 見知らぬ男を警戒するのは致し方ないことだとはいえ、せめて此処で過ごす時間は安心してほしかった。


 あとはどうにかエトルーク村の責任者とも連絡を取る手段を考えなくてはならない。ただ、ぽっと出てきた謎の男からいきなり「そちらの村の子どもを保護しました」と連絡が来ても驚かせてしまうかもしれない。

 信頼できる筋から情報を伝達してもらう方がいいか、悩むところである。


「うーん、とりあえず昼食は少し精のつくものを作ろうかな」


 具体的なこの後の話はせめて子どもが回復してからにしようと、リヒトは少し伸びをして調理場へと向かった。

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