第308話
月曜からレッスンを再開する。
懸念されていた『蒼き海のストラトス』も、ひとまず声は出るようになったわ。
「おそらく一時的なショック状態だったんでしょう」
とは聡子さんの言よ。
色々と気負いすぎてたせいで、混乱しちゃったわけね。
だけど喜んではいられなかった。同じことがステージの上で起こらない、とは限らないでしょう? そうなれば、NOAHのコンサートは台無しになる。
そのため『蒼き海のストラトス』は保留という扱いに。レッスンの経過を見たうえで、全国ツアーへの投入を判断することになった。
わたしの実力不足がみんなに迷惑を掛けてるのよ。
今日も放課後はレッスン場へ直行し、ダンスの振り付けを復習してた。夏樹さんのおかげで、フルメンバーのダンスも納得いくまで練習できるの、助かるわ。
「みんな、休憩にしよっ」
リーダーの結依はメンバーの体力に気を配ってくれてる。
「御前~、私はちょっと小春に電話してくっからさ」
「うん。いってらっしゃーい」
ママの歌の話になると、珍しく咲哉が声を荒らげた。
「わたしは反対よ。杏ちゃんが明松屋千夜さんの歌を歌うなんて……」
「ど、どうして?」
「だって、だって! その歌の衣装は用意してないんだものっ!」
わたしたちは『はあ』と気のない返事を一にする。
「実は『湖の瑠璃』も悩みの種なのよ……。衣装はダンス用ばかりだから、ああいう、えぇーと……ジャズ? に合わせるものがなくって」
「無理に音楽用語、使わなくていいから」
『湖の瑠璃』はジャズではないとはいえ、バラードをヒップホップと言ってた頃に比べたら、成長したものね。
結依は咲哉のフォローにまわった。
「あの曲だと、杏さんがひとりで歌うんですよね?」
「そうね。わたしもみんながいるのに、ひとりで歌うのはちょっと……」
デビューコンサートでも、明松屋杏が『湖の瑠璃』をソロで歌う場面はあったわ。
だけど、あれは結依が放心しちゃったせいよ。リカがMCでなんとか繋いで、わたしが時間稼ぎの一環として『湖の瑠璃』を歌ったの。
でも――あの時は気持ちよかった。
『湖の瑠璃』という曲のほうが、わたしに力を貸してくれたみたいで。
咲哉がぽつりと呟いた。
「本当はね……反対というより疑問なの。杏ちゃんがお母さんの歌を歌うこと」
その声の重々しさがわたしを困惑させる。
「……どうして?」
「親と同じことをするなんて、わたしだったら絶対、我慢できないわ。お母さんはまだしも……わたし、お父さんとはもう一年以上、口を利いてないから」
結依も奏も慄然とした。
「咲哉ちゃん……お父さんと仲、悪いの?」
「あたしも音楽活動、親には反対されまくったクチだけど……穏やかじゃないわね」
あの柔和な咲哉が、お父さんとの親子関係を破綻させてたんだもの。
「わたしが怪我で引退の憂き目に遭った時、『それ見たことか』って、鼻で笑われて……もう大喧嘩だったわ」
「――酷いっ!」
結依は沈痛な面持ちで怒った。
「咲哉ちゃんが一番つらかった時に、そんなこと……」
「落ち着きなさいったら、結依。そういうバカはどこにでもいるのよ」
奏も歯に衣着せず、咲哉のお父さんを一刀両断。
咲哉は少し後悔の色を含めた、自嘲の笑みを浮かべる。
「わたし、親に子どものことは理解できない、と思ってるの。だから……杏ちゃんが『蒼き海のストラトス』を一生懸命歌っても、本当に伝わるのかしら、って……」
これもまた、わたしは考えたことすらなかった。
「杏さんのお母さんも歌手だもん。ちゃんと伝わるよ、きっと」
「ううん、あたしは咲哉の言うこともわかるわ。そりゃあ明松屋千夜は偉大な歌手でしょうけど、あのレベルの目線でNOAHの楽曲を評価されたら、たまらないもの」
思うところがあるらしい奏は、徐々にトーンをあげる。
「あたし自身、昔はそう思ってたけど……伝統あるオペラ歌手の第一人者が、ちゃらちゃらしたアイドルの歌を聴いて、褒めると思う?」
その言葉にわたしははっとした。
咲哉も口を揃え、わたしの弱い部分をこじ開けに掛かる。
「娘が『蒼き海のストラトス』を歌った時だけ褒める……なんていうのは、認めるのとは違うんじゃないかしら」
NOAHのコンサートに来ても、ママが聴いてくれるのは『自分の歌』だけ……?
これ以上は考えたくないのと、メンバーで紛糾するのを避けたくて、わたしは強引に話題を変えた。
「と、ところで……そう、聡子さんは?」
わたしがレッスン場を見渡すと、奏も首を傾げた。
「なんか最近、忙しいみたいね」
「夏が近いせいよ、きっと。むしろバックアップのほうが忙しいと思うわ」
咲哉の読みは当たってるでしょうね。
それは今までのわたしが意識さえしていなかったこと。でも咲哉は、ちゃんと『縁の下の力持ち』の存在を理解し、敬意を払ってた。
わたしだって聡子さんを信じてる。
「夏を大成功で締め括って、聡子さんにデートくらいさせてあげないと」
「おっ? 言うようになったじゃな~い、杏先輩も」
「あはは! 奏ちゃんってば」
結依も奏くらい、わたしに遠慮がなくなってくれると……ねえ?
こんなメンバーがいて、スタッフがいて。多分、明松屋杏は恵まれていた。
ママのためだけじゃない。NOAHのみんなのためにも歌いたい。その気持ちは日に日に強くなって、わたしを駆り立てる。
じゃあ、曲は……?
ママひとりのために歌うなら『蒼き海のストラトス』よ。明松屋千夜の娘として、成長したんだってところを、ママに見せてあげたい。
だけど、奏と作ってる『サンプルA』も存在感を増しつつあった。わたしが作曲家と二人三脚で手掛ける、初めての曲だもの。歌詞だって、できることなら――。
そしてもうひとつ、『湖の瑠璃』もあった。ドラマの版権が絡んで、なかなか使いづらい曲ではあるんだけど、やっぱり好きなのよ。
この夏、わたしはどれを歌うべきなのかしら……?
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