第277話
夏でも湿気はないせいか、夜風が涼しい。
「高校の頃はテニスやってたんだけど、試合ではラケットを重たく感じたり……とか。誰だってそうよ。画家が絵を描けなくなったり、アスリートが走れなくなるのも」
杏が歌えずにいたのも同じ、か……。
「できないことができるようになって、またできなくなって……でも、それでいいんじゃないかしら? このロケに来てる役者だって、みんなそうよ」
「……蓮華さんも?」
「ええ。何なら一度、聞いてみたら?」
たとえ気休めに過ぎなくても、英梨香さんの言葉は胸に沁みた。
「それに悩むってことは、それだけ、この仕事に懸けてるってことでしょう? 本気だから苦しいんだと思うわ。きっと」
本気だから――。
絶対に映画を成功させたい、その気持ちだけは本物よ。
「そろそろ寝ましょ。明日も早いんだし」
「うん。も~遅刻は懲り懲り」
今日の分の疲れが眠気をもたらす。
☆
リカが海外ロケに出発してから、もう四日ね。
レッスンの休憩中も、わたしは仏頂面でケータイを握り締めていた。NOAHの結成当初からのメンバーとして、リカのライバルとして……やっぱり心配なのよ。
関心もなさげに奏は眉を顰める。
「珍しいわね。杏がケータイ弄ってばかりいるなんて」
咲哉はあらぬ誤解をした。
「まさか杏ちゃん、ジャガイモからのメッセージを待ってる、なんてこと……」
「違うったら。あと、男の子は芋じゃないでしょう」
リーダーの結依も一度はケータイを手に取るも、鞄へ仕舞いなおす。
「あっちは今、真夜中だもんね」
わたしも結依と同じことを考えてた。
リカからのメッセージがやけに少ないのよ。初日のうちはホテルに着いたとか、トウモロコシ畑を見たって、旅行気分のお気楽なコメントがひっきりなしだったのに。ここ数日は、こっちの明け方に『今日も撮影大変だったー』なんて一言があるだけ。
普段はあれだけ口数の多いリカが、この調子よ? 奏や咲哉も顔には出さないものの、心配してるに違いなかった。
でも、わたしなんかが発破を掛けても……という気持ちもあってね。
明松屋杏と玄武リカの相性があまりよくないこと、自覚はしてた。去年は衝突もして、よく結依に気を揉ませちゃったもの。
『ちゃんとしなさい』
『ちゃんとやってるってば』
いつだって平行線よ。
だから、わたしが応援しても、リカには逆効果じゃないかしら……って。
でも、相手がわたしだからこそ、リカも正直になれる部分はあると思うの。おこがましいようだけど、リカに対してのわたしが、まさにそうだから。
自分のスタンスを客観視できる――そんな感じ。
『杏ってばほんと、お堅いんだもん』
確かに堅物よね、わたし。
何でもかんでも理詰めで考えたがるせいで、感性で拾うべきものを見落とすわけ。
だからって、リカのすべてが正しいとは言わないわよ? あの子はやっぱり、もう少し……いいえ、もっと真面目に取り組むべきなの。
結依たちには悟られないように、リカにメールを送る。
☆
『時差ボケで寝坊なんて、してないでしょうね?』
杏はエスパーかっ。
杏からのメールなんて珍しいなーと思ったら、これよ。
おかげで今日は朝から大雨で、撮影スケジュールの変更を余儀なくされる。
ぜ~ったい、杏のせいだわ。
「降りましたねえ、監督」
「ああ。予報では明日も雨らしいな」
朝礼にて、大野監督からスケジュールの変更が通達された。
雨天だと当然、晴れのシーンは撮影できないでしょ。お城の中のシーンでも、窓から外が見えたりするから、こればっかりはどうしようもないんだよねー。
その一方で、今撮ってる映画には『夜+雨』のシーンもあった。雨はシャワーで代用できなくもないけど、やっぱ本物の雨で撮りたいじゃない? そこで撮影の順番を明後日以降と入れ替え、雨のシーンを一気に撮っちゃおうってワケ。
大野監督がちらっとアタシに目を向ける。
「玄武、今夜の撮影にサキのシーンはない。今日は休んでいいぞ」
「あ……はい」
蓮華さんもほかの役者と一緒に、今夜は撮影のため、お昼過ぎから仮眠だって。
暇になったのはアタシと英梨香さんくらいのもの。
「この雨じゃスタントの練習も無理ね……」
頭の上では厚い雨雲が垂れ込め、無限の雨を吐き出してる。
急に時間ができちゃったなあ。
今日だけならいいけど……この雨が何日も続くのはまずかった。撮影の進行は天候に左右されるんだもん。雨が長引けば、同じだけスケジュールも後ろへずれ込む。
その分、アタシの帰国も遅くなるわ。
全国ツアーは今に始まるっていう大事な時期なのに……。監督に休暇を言い渡されたのも、もどかしくって、アタシは焦りを募らせる。
呆然と雨を憂うだけのアタシに、英梨香さんが誘いを投げかけた。
「どう? リカ。あとで街の喫茶店でも覗いてみない?」
「……うん! 行く行くっ!」
ひとりで落ち込んでても、しょうがないもんね。
アタシは英梨香さんと一緒に雨の中、街へ出ることに。
ウェスター城の麓に広がるのは、素朴な街並みだった。カントリータウンってやつ?
どれも屋根は低めで、雨じゃなかったら、青々とした空が見渡せるのよ。
「そーいえば、英梨香さんは探偵のお仕事、いいの? 三週間も」
「こっちでギャラもらってるし。あんな助手でも、いないよりは……まあね」
探偵だけに、このロケのスタッフに真犯人が紛れ込んでたりして。
日中に外出するのはアタシと英梨香さんだけだったから、傘も余ってた。こっちは梅雨もなしに夏になるんだってねー。
アタシと英梨香さんとで、頭ひとつ分くらい背丈に差がある。
「スタントの仕事を探偵業の一環として引き受けた、というべきかしら」
「何でも屋さん?」
「それに近いわ。前の仕事では、マーベラスプロの社長から結構な謝礼もいただいたし」
ほんと、マーベラスプロでどんな事件があったんだか。
「蓮華さんって、推理モノで犯人の役、演ったことあるのよ」
「テレビで見るのと印象が全然違うのね、あのひと」
鳳蓮華は悪役専門の女優として名を馳せていた。
悪役は難しいのよ? 視聴者に嫌悪感を抱かれたら、作品のイメージも悪くなるから。悪役を演じるには、並々ならない演技力やアシスト性が要求されるワケ。
アタシを阻む壁の、向こう側にいるひと――。
「蓮華さんは目標でもあるの。アタシの」
「ふふっ。いいことね」
英梨香さんはアタシに傘を寄せつつ、はにかんだ。
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