第9話 木島尚之介 その五
自分を呼びとめる声に気づいたのは、通町十軒店の辺りだった。声で麻衣だとわかる。
立ちどまってふり返ると、馬乗り提灯の火がゆらゆらと左右に揺れているのが見えた。
尚之介が眉を寄せたのは、そのうしろにつき従う永井春平太の存在に気づいたからだ。
永井は、いったいどういうつもりで麻衣にくっついているのだろう。
その思惑はわからないが、とはいえ、相手は自称隠密、ろくなものではないはずだ。自身の経験から、そう高を括っていた。
「あの、ちょっとお話したいことがあるのですが……」
連れだって歩きはじめると、麻衣は躊躇いがちに切り出した。数日前の口論のせいか、ばつの悪そうな表情を浮かべている。
「どうした。なにか用か?」
春平太の存在を気にしつつ、尚之介は応じた。
「用っていうか、木島様が江戸をたたれると聞いたので……」
「そうか……」
数日前に捕まった一本木忠太が本物だという話を聞いたのは昨日の昼間だった。半信半疑ながらも、それを信じたのは他ならぬ犬養からの報告だったからだ。
その時点で尚之介は江戸をたつ決意をかため、百地百軒に麻衣のことを頼む旨の文を蔵六に届けさせたのだった。
「それでよく考えたら、あなたにちゃんとお礼をしてたことなかったなって……。だから、あの、あのとき川越で途方に暮れていた私を助けて―――たとえお金のためだったとしても、江戸まで連れて来てくれたことは心から感謝してます。ほんとうに、ほんとうにありがとうございました」
麻衣はそう言って頭を下げた。
―――が、その声はすでに尚之介の耳に届いていなかった。麻衣が謝礼の言葉を口にしている途中から、意識はまったく別の事象に向かっていたのだ。
「おい、永井、気づいてるな?」
尚之介は、しきりに背後を気にしながら切り出した。
「もちろん」
心得たようすで、春平太がうなずく。
「俺の客か、お前の客か」
「さあ。でもこの際おなじことでしょ」
「裏切る気ではないだろうな」
「いくらなんでもこの流れであなたに斬りかかるつもりはありませんよ」
いかにも心外だといわんばかりに、春平太が抗議する。
「あの、ちょっと、いったいなんの話を―――」
そう尋ねる麻衣の息が切れていた。いつの間にか歩調が速くなっていたらしい。
背後をふり返りつつ、尚之介は答えた。
「つけられてる。あの様子では、いつ斬りかかってきてもおかしくない」
「うそぉ……」
血の気が引いたのか、麻衣の足下がふらりとよろめいた。
尚之介は、そんな麻衣の腕を掴み、ぐいぐいと引っ張っていった。早足で歩きながら、淡々と命じた。
「次の辻まで行ったら、その角を左に曲がって思いっきり走れ。ふり返らず、そのまま八ツ小路の番小屋に駆け込むんだ。わかったな」
「え、じゃあ尚之介様たちは?」
「俺たちはあいつを路地に誘い込んで迎え撃つ」
「え、ちょっと待ってください、ひとりにしないでくださいよ。逃げるなら一緒に―――」
辻の手前で立ち止まると、尚之介は麻衣の懇願を遮って言った。
「たしか、代わりに死んでやると言えば、命令を聞くんだったな?」
「え……?」
麻衣の顔を覗きこんで、つづける。
「ここは代わりに死んでやるから俺の言うことを聞いておけ」
たしか麻衣は数日前、「自分の代わりに死んでくれとは言わないから命令するな」と言った。裏を返せば、つまりこういうことだろう。尚之介にしてみれば、麻衣に言うことを聞かせるために手っ取り早い手段だと思ったまでのことだ。
しかし、真意はすぐに伝わらなかった。麻衣はしばし視線を宙に泳がせ、やがてハッとしたように眼を見開いたかと思うと、しばらくぼんやりと尚之介の顔を眺めていた。
「行け!」
業を煮やした尚之介がその背中を強く押すと、麻衣はやっと走り出した。
尚之介が目を転じ、春平太を見やる。
「武士に二言はないな?」
裏切らないという前言に対して念を押したつもりだ。自称隠密とはいえ、春平太はすがたかたち、物腰にいたるまで武家の出である。武士という言葉を出されれば、無視することはできまい。
「大丈夫ですよ、そんなに警戒しなくても。あなたを斬って私になんの得があるんです?」
つい慎重になってしまったのは、川越ではじめて会ったときの太刀筋を思いだしたからに他ならない。
「挟み込むぞ」
「了解」
互いに頷き合い、二手に分かれた。
尚之介は複雑に入り組む町割と闇を利用して尾行を撒き、身をひそめた。紺屋町三丁目の角、藍染橋の袂である。呼吸を整えつつ、刀の鯉口を切った。
曲者はほどなくしてすがたをあらわしたが、橋の向こうで足を止めたようだった。気配を察したのなら、それなりの使い手なのかもしれない。
不意打ちの失敗を覚ると、尚之介は物陰から出て曲者の正面に立ちはだかった。それに応えるように、相手もゆっくりと影から歩み出る。
「お久しぶりです、木島さん」
「お前か……」
月明かりの下にあらわれたのは旧知の男だった。しかし、醸し出す雰囲気は記憶のなかのそれとは少し違った。着物は上等になり、一糸乱れぬ鬢は月明かりに照らされテカテカと輝いている。肌の色つやも数年分は若返っているようだ。すぐにピンと来たのは、左頬をひきつらせたように笑うクセがおなじだったからだ。
互いに間合いを保ちつつ、会話はつづいた。
「おや、もっと驚いてくれると思っていたんですが……少々拍子抜けです」
「いや、驚いたよ。斬られるとわかっていてわざわざ会いに来るやつがいるのかと思ってな、花井虎一……」
尚之介は言うなり、草履を脱いで背後に蹴り飛ばした。
花井はほんの一瞬、その顔から薄ら笑いを消したものの、またすぐに余裕ぶった笑みを浮かべた。
「いやいや。あんたが性懲りもなく江戸にもどってるって聞いて、居てもたってもいられなくなりましてね……」
「おおかた小普請入りでも命じられて焦ったってところか……」
小普請入りとは、職務上の失態や病気、老衰などで職を免ぜられた旗本や御家人が最後に行きつく場所である。むろん出世など望むべくもない。
花井を取り立てた鳥居は失脚しているし、蜜月関係はとうに破綻していしまっているが、その上にいた水野でさえ天保の改革の失敗や不正が明るみになったことなどで、権勢は風前の灯火といった状況である。花井が無事でいられるわけはないのだ。
尚之介の仮説があながち的外れでないことは、花井の反応からうかがい知ることができた。
「つまり、手柄が欲しくてつけ狙っていたわけか。追放のくせに江戸に舞い戻った俺を捕えれば、鳥居ならあるいは褒美のひとつももらえたかもな」
花井は目じりをヒクヒクさせながらも、口もとの笑みだけは崩さずに皮肉を口にした。
「さっきからその口の利き方はないんじゃないですかね、木島さん。俺はいまや与力様、片やあんたは重追放の浪人風情。旧知の仲だからと思って見逃してやってはいたが、少々調子に乗り過ぎでは? そもそもさっきからえらく余裕ありげだが―――」
「おしゃべりはもういい。どうせ斬り合うつもりだろう」
尚之介が刀を抜いたのはそのときだった。
踏み込むと同時に振りかぶった刀身が、月明かりを受けてかがやく。切先が、躊躇なく花井の側頭部に牙をむいた。
その太刀を物打ちで受け、花井が吼えた。もはやその表情には余裕はない。
「馬鹿が! 仲間の到着を待たずに打ちこんでくるとは、俺を見くびり過ぎなんだよ!」
「馬鹿はお前だ。あいつが来たら一瞬で片がつく。そんなことも見抜けんとは、やはり所詮は俄侍というわけか」
挑発はてきめんに花井に利いた。眉は吊り上がり、頬はみるみる赤黒く染まっていく。だが、それで判断を誤るほど馬鹿ではなかった。刀が噛み合ってしまう前に逃げの一手に転じ、背後に飛びのいた。軽輩の出とはいえ、剣術の勘はなかなかのものだと認めざるを得ない。
囚獄の物々しい塀とそれを取り囲む冬柳が風に揺れているのが視界の端に見えた。いつの間にか伝馬町まで移動していたらしい。
互いに呼吸をはかりながら睨み合っているふちに、ふたりはじりじりと左へ左へと回転の動きをとりはじめていた。
「花井、なんで俺を裏切った。なんで罪のない人々を陥れて死に追いやるようなことをした。弁明があるなら最期に訊いておいてやる」
中段に構えつつ、尚之介が切り出した。
「弁明だァ⁉ どこまでひとをコケにすりゃ気が済むんだテメエは!」花井はいまにも噛みつかんばかりに、犬歯をむき出しにして喚いた。「ああそうかい。わかってねえってんなら教えてやるよ。お前の利口ぶったそのスカした態度が気に入らねえんだよ。この俺をさんざんコケにしやがって。こちとらいつか仕返ししてやろうと、ずっと機会をうかがってたんだ!」
「なるほど。お前の考えそうなことだ。だが、無関係のひと達を巻き込んだ理由にはなるまい」
尚之介が冷静に応じれば応じるほど、花井は怒りをみなぎらせ、多弁になった。
「理由? そんなもん、あの渡航計画をでっち上げれば俺の出世が約束されていたからに決まってんだろう」
「やはり出世か、理解できんな……」
「当然だ、お前にこの気持ちがわかるわけねえ! 侍ってだけで、どんなに無能だろうが百俵五人扶持を約束されてるお前らになんかな! それに引き換え俺たちの俸禄なんざどんなに頑張っても十五表一人扶持。この気持ちがお前らにわかるわけねえんだ!」
「もういい、よくわかった。いまお前の首をとって、かの者たちの墓前に供えてやる」
その言葉が終わらぬうちに、花井が高笑いに笑いはじめた。
声が路地に響き渡っている。どこからともなく聞こえるてくる犬の遠吠えがそれにつづき、やがて部屋の明かりがちらほらと点りはじめた。だが、外に顔を出す者はおらず、部屋のなかからじっと外のようすを窺っているようだった。
花井は辺りを憚ることなく、まくし立てた。
「こいつは傑作だ! やつらを陥れるための偽の復命書をはじめに書いたのがだれだったのか、よもや忘れたとは言わないだろうな、木島さんよォ」
挑発的な花井の態度に、しかし尚之介はあくまで冷静だった。
「俺だ。だからこそ、いまここで責任をもってお前を討ってやろうと言っているんだ」
「自分のことを棚に上げてよくも言えたもんだな……」
「俺は俺で責任をとるさ」
「そうかい、それは殊勝な心掛けだな。ひとりでやってろ!」
花井が一歩を踏み込んできた。その大ぶりな一太刀目を落ち着いて躱すと、さらに繰り出された横なぎの一撃を物打ちで弾き返した。花井はさらに攻撃をつづけたが、その動きにはすでに先ほどの精彩はなく、太刀筋は恐れるほどのものではなかった。
尚之介が確実に仕留められる反撃の機会を窺っていたときである。いつの間に回り込んだのか、春平太が路地の陰からひょいと顔を出した。呑気な声でこなんことを言った。
「おふたりさん、盛り上がってるところ申し訳ないんですけど、ちょっと聞いてほしいことがあるのですが……」
「遅かったな。裏切ったかと思ったぞ……」
視線を花井に向けたまま応じると、さらに、お前は手を出すなよ、と言い添えた。
「いやあ、もちろんそんな野暮なマネはいたしません。ただ、ちょっと逃げる前にこれだけは伝えておいたほうがいいかと思いまして……」
「逃げる?」
十分な間合いを確かめ、尚之介はチラリと春平太の指先を追った。
八ツ小路のほうから
その反応を見届けるやいなや春平太は、「では、私はこれにて失礼します」とだけ言い残し、ひとり闇の奥へと消え失せた。さすがは隠密といった早業である。
「まったく、何なんだあいつはッ!」
尚之介の声が合図になり、ふたりは一歩あとじさった。しばし対峙したが、申し合わせたように刀を収めると、同時に背を向け、別の方角へと向かって走りだした。
追手と尾行がいないことを確認するため、そして荒ぶった気持ちを落ち着けるため、尚之介はしばし夜の町を徘徊した。両国の辺りまで足を延ばし、神田に戻ったのは木戸が閉じられる寸前の時間だった。
春平太が合流してきたのはその道すがら、横にならんで歩きだしたかと思うと、なに食わぬ顔で話しかけてきた。
「いやあ、無事でなにより。木島殿ならちゃんと逃げきれると信じていましたよ」
「調子のいいやつだな」
視線も合わせずに、尚之介が切り返す。
「まあいいじゃないですか、無事だったんだから。そんなことより―――」先ほどの事件に幕を下ろすと、さっと話題を変えてきた。「いいんですか? 麻衣殿にあんなこと言って」
「あんなこと?」
しばし考えてみたが、尚之介には思い当たる節がなかった。
「お前の代わりに死んでやる、とかなんとか。聞いてるこっちまで恥ずかしくなってしまいましたよ、まったく……」
「それがどうかしたか?」
「あのねえ……」呆れたように、首をふりながらつづける。「あれどう見ても、あなたに恋しちゃったって感じでしたよ? もしかしてほんとうに気づかなかったのですか?」
「まさか、あり得んだろう。なんでいきなりそんな話になるんだ?」
「ほんと、朴念仁……」珍しいものでも見るかのように、春平太はしばし尚之介の顔を覗きこんでいたが、やがて「ま、私にはなんの関係もありませんけど……」と言い残し、またふらりとすがたを消した。
花井に再会したせいで、長いあいだ蓋をして閉じこめてきた記憶がよみがえっていた。自らの決断と、それによって起こった騒動を思いだすだけで、胸がそわそわと騒ぎだす。
尚之介は両手で顔をこすってから、顔を上げた。
春風に誘われて川辺に繰り出した老若男女が、通りを往来している。江戸橋の二八蕎麦屋は、つい先日、犬養と落ち合った場所だ。賑やかな広小路の風景はいまも六年前も変わらない。
犬養を待つうち、あの事件の記憶がよみがって、尚之介を悩ませていた。
いま考えれば、渡辺崋山に近づきすぎたことが失敗だったのかもしれない。
鳥居の命令は尚歯会を潰すだけの証拠を探し出すことだった。密偵として、会の最重要人物である崋山に直接会うことが必須だったというわけではない。直接会って話すことが、より早く、確実な成果を上げられると考えただけのことだ。
蘭学に興味があると言って面会を求めると、崋山はこころよくそれに応じた。当時、蘭学は幕臣のあいだでも流行しており、怪しまれるということはなかった。
崋山は崋山で啓蒙活動に余念がなく、すぐに警戒心を解くと、尚之介に向かって持論を展開しはじめた。
主張は明快だった。
「排外的な海防政策をやめて海外の文物を積極的に取り入れ、国の発展を促すべき」
尚之介にとっては新鮮で、しだいに、その言い分が正しいのではないかと思うようになっていった。少なくとも、国の行く末を真に憂いていることだけははっきりとわかった。
その結果、尚之介の提出した復命書が、「尚歯会は公儀にとって脅威にあらず」という内容になってしまったのは必然であった。いまになって思えば、開国論がどれほど幕府の脅威になるのか、というところまで頭がまわっていなかったのだ。
案の定、鳥居はその内容に満足せず、尚歯会が幕府の脅威だという確たる証拠を要求してきた。
花井虎一が尚之介のもとへとやって来たのは、要求どおりに書き直した復命書を提出できずに悶々と過ごしていたころだった。
たしかあのとき、花井は尚之介の耳元で、こんなことを言った。
「密航計画の証拠は十分、すぐにでもやつらを捕らえられますよ」
むろん、尚之介はその証拠とやらを疑った。証拠の真偽を問い詰めると、花井はあまりにもあっけらかんとこう言い放った。
「証拠が本物か偽物か、それが重要なことですか? 僧侶や商人のひとりやふたり、どうなったって関係ないでしょう。それより大事なのはご自身の身の上では? なんていっても長英や崋山は大物ですから。やつらを捕らえ、尚歯会を潰すことができれば出世はまちがいなし。組頭にでも抜擢されれば……いや、もっと上だって夢じゃあありません」花井は興奮したようすでしゃべりつづけた。「もしもそのようなことになれば、ぜひこの花井虎一もご一緒させていただきたく……」
「消えろ」尚之介は、目の前の男をこころの底から軽蔑していた。それを隠そうともせずに、こう吐き捨てた。「たとえ出世するようなことがあっても、貴様だけは取り立てるわけにはいかん。侍の面汚しだ」
定かではないが、もっと辛辣な言葉を浴びせかけたかもしれない。とにかく翌日、花井は鳥居に、「尚之介が尚歯会をかばっている」などの虚偽の報告をした。
結果、尚之介はこの事件から外されることになり、鳥居からも遠ざけられることになった。尚歯会を無害だとした最初の復命書が、鳥居の讒言に真実味を与えてしまったのかもしれない。
もともと苦手としていた男だったのはたしかだが、あれほどに嫌悪をあらわにしたのは八つ当たりとしか言いようがない。花井の行動はたしかに極端だが、そんな極端な行動に走らせた一因は自分にあったのだろう。
乱暴な音を立てて、犬養がとなりに腰を下ろした。影のように背後に控えるクマも、不機嫌そうな表情もいつもとおなじ。つまり、機嫌は良くも悪くもないということだ。
尚之介はそう判断し、切り出した。
「花井が江戸に戻っている」
「お前にちょっかいをかけてきたか?」
「俺を斬るつもりらしい。あの事件の真相を隠しておきたい誰かの差し金だろう……」
犬養は眉をひそめ、嫌悪感をあらわにした。尚之介同様、犬養にとっても花井は因縁浅からぬ存在なのだ。
苛立たしげな舌打ちを数回繰り出してから、言った。
「放っておけ。どうせ水野の権勢は風前の灯火、そうなれば花井もただでは済まん」
「放っておけと言われてもな……」尚之介の顔に、苦笑が浮かぶ。「あっちから斬りかかってくるのはどうにもならん」
犬養は煙を吐き出し、それを返事とした。
「お前は……」と、尚之介がふいに切り出す。自分でもなにを言いたいのかよくわからないまま、口からつい漏れてしまったのだ。咳払をひとつはさんで、こう言い繕った。「よく上と折り合いをつけているな」
「折り合いだと?」小馬鹿にしたように、鼻で笑った。「互いに譲歩し合っているわけじゃねえ。俺が全面的に折れてやってるんだ。だいたい俺がお前のように逃げ出したら、この江戸はどうなる」
犬養は大まじめに、吐き捨てた。
尚之介は思わず苦笑したが、その心境を想像すると、居たたまれない気持ちになった。
最初にこの事件に犬養、および北町奉行所を巻き込んだのはほかならぬ自分だったからだ。
天保十年五月十四日、花井の証言を採用した鳥居が渡辺崋山以下、密航を企てた商人たちを告発。北町奉行所は田原藩藩邸から渡辺崋山を連行した。
そのことを知った尚之介は、これまでの経緯のすべてを北町奉行同心犬養に告白したのだ。むろん、自分にも類がおよぶのを覚悟したうえでのことである。
おなじ剣道場の同輩でその人となりを多少は把握していたこと、正義感が強く、そのぶん同僚に疎まれているという噂を聞きおよんでいたことが、犬養を選んだ直接の理由だった。
北町奉行大草高好が、尚之介の告発を信じたのは、取り調べの段階でこの事件に不信感を抱いていたからだ。吟味での花井の偽証や、鳥居による証拠のねつ造、捜査の介入に奉行所は辟易していたらしい。
しかし、水野や鳥居にも彼らなりの正義はあった。彼らがそうまでして鎖国破り事件をでっち上げたのは、それを断罪することで、町人たちへの見せしめとしたかったのだ。
背景にあるのは、西洋・西洋人に対する警戒心の希薄化や、鎖国の弛緩に対する危機感である。裏を返せば、鎖国が徳川政権を守る要だということを、誰よりも理解していたということでもある。その点だけは、尚之介も認めざるを得なかった。
当然の成り行きとして、告発した鳥居と取り調べをした大草のあいだには、深刻な対立が生まれた。
尚之介が汚職の罪を着せられて重追放となったのはこの頃だった。覚悟していた展開であったため、抗弁もしなかったが、本心を言えば、うんざりしていたという気持ちが大きかった。
事件から約八カ月後の翌一月、大草が病死したため、南町奉行が急遽その役宅において判決を言い渡すことになった。処罰を受けたのは、藩士、商人、坊主など十数名。永牢という重いものから、過料という軽いものまでさまざまだった。
尚之介はその話を瓦版で知った。だが、内容を鵜呑みにしていたわけではない。
「お前も、大草様の死が偶然だとは思っていないのだろう?」
犬養に対し、この話題を振るのははじめてのことだ。わずに声がうわずったのを、尚之介は自覚していた。
もったいぶっているかのように、犬養は煙をくゆらした。
「当然だ。そもそもあのお方が亡くなったのは、公儀発表のひと月もまえだ。原因もよくわからないまま、病死とされたんだ。病気をお持ちだという話も聞いたことがなかったのにな……」
「やはりそうか……」
沈痛な面持ちを浮かべる尚之介に、犬養が冷ややかな視線を向けた。
「だがな、お前が罪悪感を抱いているのなら、それは見当違いだ。あの密告がなくても、あの方は真相にたどりついていただろうからな。どのみち殺されていたはずだ」
犬養は気休めや、おべんちゃらを言う男ではない。本心からの言葉だろう。とはいえ、それで尚之介の気持ちが軽くなるということはなかった。
その後、遠山左衛門少尉景元が北町奉行に就任、さらに三年後、大目付となった。
犬養が思いだしたように、こうつけ加えた。
「水野が辞職して左衛門少尉様の時代がくれば、お前の罪が許される可能性もあるだろうな……」
「それも、どうだかな……」
興味なさげに、尚之介が応える。
「これからどうする?」
「花井を見つけ出す。あいつに寝首を掻かれるのはごめんだからな」
「斬るつもりか?」
「……止めるなら、いまのうちだ」
「なんで俺が止めるんだ?」
吐き捨てると、犬養は腰を上げた。こちらに背を向ける寸前、一瞬目が合った。なにか言いたげなようにも見えたが、気のせいかもしれない。
「それが同心の台詞か……」
立ち去る背を見送りながらひとりごちると、尚之介は足早に歩きだした。
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