第2話 木島尚之介 その二

 ふたりは城下の南、蓮馨寺れんけいじ門前町の旅籠でなにごともなく朝を迎えた。

 ひと悶着が起こったのは、宿を出ようとしたときだ。

「なんでも貸しがあるとかで、木島様が自分の分の代金を払ってくれるはずだと永井様がおっしゃいまして……」

 恐れ入ったようすで宿の主人がそう切り出してきたのだ。尚之介にしてみれば、身に覚えのない宿代を請求されたということになる。

「永井?」

「はい。こうなんというか。ひょろりとした印象の若いお侍様です」

「あいつか……」

 それは昨夜麻衣を助けてくれた侍にちがいなかった。

 踏み倒すこともできたが、あえてそうしなかったのは、主人に同情したということもあるし、二百文で麻衣の命を守れたのなら安いものだと考えなおしたということもある。

「まったくなんなんだ、あの男は……」

 尚之介はぼやきつつ麻衣の横顔を盗み見たが、麻衣も尚之介と同様、しきりに首をかしげているだけだった。

 ともあれ、尚之介はこのとき怪しい侍に目をつけられていることをはっきりと認識させられた。目的はおろか、どこの誰かさえまったくわからず、しかもあの剣の腕前である。ひとりならいざ知らず、十里以上ある陸路を女をかばいながら行くには少々荷が重かった。

 そういった事情もあって、ふたりは川越城下を出ると、新河岸かしへ向かった。つまり、尚之介は陸路を諦め、舟で江戸へ向かうことに決めたのだ。

 麻衣が苦しそうに肩で息をしていることに気づいたのは、一里の道程の半分を過ぎたころだった。船出は七つ(午後四時)頃だから急ぐ必要はなかったが、つい早足になってしまったらしい。ひとりで旅をすることに慣れ過ぎていたせいもあるだろう。

 尚之介は足を止めて背後をふり返った。ずっと先まで田園が広がるばかりの農村である。これ以上ないほどに見通しは良好だ。どんな腕利きの隠密でも尾行は不可能だろう。

 視線を転じ、農道に沿って流れる小川を見やると、中天に差しかかった陽の光を受け、水面がきらきらと波打っていた。ときおり聞こえてくる鶏の声は、川向うに立つ立派な茅葺屋根の農家からか。行楽日和とまではいかないが、真冬にしては比較的穏やかな日和だった。

「少し休むか」 

 乾いた草を踏みしめながら土手を下りはじめると、麻衣がおぼつかない足取りでそれにつづいた。

 一晩麻衣を見ていたが、その挙措は一貫してぎこちなく、なぜか幼児を見守っているような気分になった。現にいまも、平坦な道をほんの半里歩いただけで着物の裾を乱し、緩みつつある帯をしきりに手で押さえながら歩いている。とはいえ言動に愚鈍さはなく、むしろ高い教養さえ感じさせるものがあった。ふしぎな雰囲気の娘である。

 竹筒に水を汲んでから土手の中腹に腰を下ろすと、それにならって麻衣がとなりに座りこんだ。ひと息ついた頃合いを見計らって、尚之介が口を開く。

「いろいろと聞きたいことがある」

「はい、ですがひとつだけ先に聞かせてください」躊躇いがちだが、意思のつよい口調で麻衣は尋ねた。「木島様はどうして常夜燈を狙っているのですか?」

「俺は常夜燈とその発明者である久松時右衛門を守れと言われただけだ。それ以外のことはなにも聞かされていない。それより常夜燈とはいったい何だ? 大の大人が必死になって奪い合うほどの価値がある物なのか?」

「価値があることはたしかですが……、常夜燈のことについてはまだお教えすることはできません」そこでいったん口を閉ざしたが、逡巡しつつこうつけ加えた。「というより、言っても理解してもらえないと思います」

「それほど複雑なカラクリというわけか……?」

「……それもあります」

 納得のいく答えではなかったが、そもそもそのことについて知る必要はないと釘を刺されている。尚之介は、話題を変えることにした。

「では、時右衛門が獄に入れられていた理由を聞こうか」

「あの方はなにもしていません。運悪く蛮社の獄に巻き込まれただけです」

「そこで水野筑前守とつながるわけか……」

 納得はしたものの、口から出るのはため息だけだった。

 蛮社の獄とは、水野忠邦の腹心で目付の鳥居耀三の主導によって行われた言論弾圧事件のことである。きっかけは、日本人漂流民を乗せたアメリカ商船モリソン号を、日本側が異国船打払令に基づいて砲撃したことだった。

 日増しに高まる蘭学者たちの鎖国批判に危機感を抱いた公儀は、その中心的人物だった渡辺崋山や高野長英ら十数名を捕縛した。多くが入牢や押込に処され、獄中死や切腹などの死者を出した。

 麻衣によると、久松時右衛門はそのとき入牢に処された者のひとりだったらしい。

「去年の火事で脱獄したと聞いたときもしやと思ったが、あの事件が水野と時右衛門と俺を繋げる鍵だったが……」

「それはどういう意味ですか?」

「俺は六年前まで鳥居の配下だった、と言えばわかるか?」

 目付の支配下には、徒目付かちめつけ小人目付こびとめつけなどの役職があり、そのなかでも、尚之介は常御用じょうごようと呼ばれる隠密を専門とする徒目付のひとりだった。

「それはつまり……」喉を鳴らしてから、麻衣はつづけた。「時右衛門様たちの捕縛に協力したということですか……?」

「そうだ。だが、時右衛門のことを知らなかったのはほんとうだ。あのときの捕縛者全員を俺ひとりで密偵していたわけではないのでな」

「そうだとしても、時右衛門様があなたに常夜燈を託した理由がわかりません」

「おそらく、俺が鳥居の命に逆らって重追放の身となったことを知っていたのだろう」

「そう言えば、あのときに難を逃れた蘭学者たちが、のちに事件の情報を独自に集めていたと聞いたことがあります。そのときに木島様の名前を知ったのかもしれません」

「あるいはそうかもしれん。だが、いま大事なのは、俺たちは政争に巻き込まれたということだ」

「政争……ですか?」

「ああ。つまりこういうことだ。時右衛門が奉行所に拘引されたとき、水野は偶然常夜燈の存在を知った。関係者から噂を聞いたか、あるいは押収品のなかに常夜燈へとつながる証拠品があったのかはわからんがな。だが、現物はそこになかった。……いや、まだなかったと言うべきかもしれんが……」

「時右衛門様が常夜燈の作成に取りかかったのは脱獄後だと聞いています」

 その言葉にうなずき返してから、尚之介はつづけた。

「当初、水野は現物がなかったことで油断していたのだろう。だが、時右衛門に脱獄されて危機感を覚え、あわてて回収に乗り出した。その不穏な動きを、やつと対立する左衛門少尉様が嗅ぎつけた。常夜燈を確保するために選ばれたのが俺だったということだ。むろん、俺の経歴を知れば時右衛門が気を許すと踏んでのことだろう。そう考えればすべての辻褄が合う」

「やっぱり、目的は常夜燈というわけですね……」麻衣はしばし沈思してから、こうつづけた。「だったら、ここはひとまず協力しませんか?」

「この状況でお前になにができる?」

「木島様の知らない情報があります」

「なぜ俺が知らないとわかる?」

「知りようがないからです」

「ほう……」

 つい曖昧な返事をしてしまったのは、浪人とは言え、侍に向かってこれほどの見栄を切れる二十そこそこの女に会ったことがなかったからだ。だが、同時に、ここで安易に提案に乗るほど自分を過小評価しているわけでもなかった。

 腰を上げつつ、尚之介が返したのはこんな言葉だった。

「とりあえず、その話はいったん保留だ。いまは時右衛門との約束を優先する」

「……わかりました。よろしくお願いします」

 ふたりは連れ立って歩きはじめた。何度もふり返って尾行を確認したが、つけられている様子はなく、半時もせずに新河岸に到着した。

 舟に乗り込んだのは七つごろである。尚之介は、ともに同乗した三十人ほどの客と四人の船頭をしばし観察したが、いずれも不審な点はなかった。

 間もなく岸を離れ、川を下りはじめた。屋根付きとはいえ、冬の船旅の寒さは厳しく、なかなか寝付くことができなかった。やっと眠りに落ちたのは、夜も更けてからのことである。


 舟が御府内に入ったことに気づいたのは、翌正午ごろだった。

 帆を張った高瀬舟や猪牙舟、川の両岸を往復する渡し舟の数が増えはじめていた。東の岸の長閑な田畑の風景も、いつの間にか見覚えのあるものへと変わっていて、三囲神社の鳥居や長命寺の瓦屋根が寒々とした桜並木の向こうに見え隠れしていた。

 進行方向に目を転じると、武家屋敷の巨大な白い屛も確認できる。久しぶりに見る江戸の光景だった。

 尚之介の乗る舟は、西の岸から突き出る桟橋のひとつに舳先を着けた。

 陸に上がると、まず手足を伸ばして体をほぐした。手足がしびれ、体中が痛い。そのうえ一晩中川風に晒されていたせいで全身凍えそうだった。

 しかめ面でとなりを見やると、麻衣も同様らしかった。顔は青白く、ふらふらとおぼつかない足取りで桟橋を歩いている。一歩まちがえれば真冬の大川に転落しそうなほどだった。

 ふたりは茶屋で一服してから花川戸をたつことにした。目的の両国広小路にたどり着いたのは、およそ半時後である。

 大川に掛かるこの両国橋の西岸はもともと火除地として設置された広小路で、交通の要所だったためにすぐに盛り場として発展した。江戸有数の繁華街である。夏の賑わいとまではいかないが、橋の上には俸手振りから旅人、武士、町人の老若男女まで多種多様な人々が行きかい、水際には茶屋やよしず張りの見世物小屋などがひしめくように建ち並んでいた。

 目的の出床(小屋掛けの髪結床)は記憶どおり、両国橋の袂にあった。

 出床の主人―――蔵六は本来客を座らせるための腰掛けに手持ち無沙汰に座り、ぼんやりと往来を眺めていた。

「お前がまだここに居てくれてよかったよ、蔵六」

 唐突に声をかけられ、蔵六はびくっと肩をすくめた。顔を上げたとたん、その顔がさっと青ざめた。細い双眸をいっぱいに広げ、口をぱくぱくさせたあと、やっとのことで言葉を発した。

「だ、だ、だ、旦那じゃないですか! どうしてここに⁉」予想外に声が大きくなってしまったらしく、蔵六はハッと口を両手で押さえた。あたりをきょろきょろと見渡してから、小声でつづけた。「もしや重追放が解かれたんで?」

「残念ながらそういうわけじゃない」

「じゃあなんで?」

「野暮用でな。お前の協力が必要だ」

「野暮用って……まずいですよ、お上に見つかりゃただじゃ済まねえ」

「とある筋からの正式な下知だ」

「とある筋? いったいどういうことか、さっぱり話が見えませんぜ、ちゃんと説明してくだせえ」

「そうだな、場所を変えて話そう」

 蔵六は急いで店を仕舞うと、商売道具一式を入れた鬢盥びんだらいだけを持って出てきた。このときはじめて麻衣の存在に気づいたらしく、困惑の表情を尚之介に向けた。

「旦那、そちらは……?」

「この女は今回の件の参考人と思ってくれていい」

 尚之介に促され、麻衣がぺこりと頭を下げる。

「あの、麻衣と言います。よろしくお願いします」

「は、はあ……あっしは蔵六って言いやす。旦那とは、まあ古い付き合いでして……」

 簡単な挨拶を済ませると、三人は連れ立って歩きだした。馬喰町から長屋の密集する町人町に入り、神田方面へ向かって進む。道中、怪訝そうな表情で麻衣を見つめる蔵六に、尚之介が耳打ちした。

「あの女のことは気にしなくていい」

「もしや旦那の新しいこれですかい?」

 小指を立てて囁く蔵六に、尚之介は眉間にしわを寄せつつ反論した。

「参考人と言っただろう。変な勘ぐりをするな」

「参考人ねえ……」

 いかにも腑に落ちないといった顔つきだったが、自分自身、それ以上説明する言葉を持っていないのだからどうしようもない。

 三人が蔵六行きつけの煮売り酒屋の座敷に腰を落ち着けたのは、八つ過ぎだった。ちょうど昼どきを過ぎた時間帯で、客の数はまばらである。

 座るなり、蔵六は熱燗を手酌であおりはじめた。手に持ったちろりを放そうともせず、ぐいぐいと杯を重ねる。この調子だと話ができなくなるのも時間の問題だろう。蔵六の頭がまともに働いているうちに用件を済ませてしまったほうがよさそうだ。

 尚之介は注文した料理がそろったのを見計らい、さっそく話を切りだした。

 一昨日からの経緯を簡潔に話し終えると、蔵六はしばらく「うん、うん」と唸り、「まったく酷え話だ」などとつぶやきはじめた。やがて顔を上げると、尚之介を見据えて尋ねた。

「つまり、あっしに越前守を探ってほしいってことですかい?」

「そういうことだ。さすがに話が早いな」

「みなまで聞かずともそのくらいのことがわからねえ蔵六じゃあござあせん」

 得意げな意味を浮かべ、蔵六が応じる。

「やってくれるか?」

「ま、旦那の頼みじゃあしょうがねえ、いっちょやってやりますか。圧政に苦しめられた江戸っ子の恨み、晴らしてやりましょう」

「そうだな」

 それだけで話はついた。ほっと胸をなでおろして目をやると、麻衣は腰高窓の窓枠にもたれかって、そのまま寝入ってしまっていた。いつの間にか膝元には空になったちろりが横たわっていて、顔が蔵六のそれとおなじ色に火照っていた。

「こいつ、いつの間に……」

 尚之介は、やれやれといったふうにため息を吐きだした。

 気づけば障子に差す日が淡い朱色に染まっている。七つを告げる鐘の音とともに、印半纏を羽織った大工の一団ががやがやと入ってきて尚之介たちのそばに円座になって腰を下ろした。そろそろ密談は控えるべきだろう。

「なんだかおもしろくなってきやがったぜ、ねえ、旦那」

 声に目をやると、蔵六がちろりを差し出していた。

「まったくお前は頼もしいやつだよ」

 応えつつ酌を受けると、尚之介はそれを一気に飲み干した。


 翌日、尚之介は蔵六の長屋で目を覚ました。

 枕屏風の向こうからはまだ麻衣の寝息が聞こえているが、一番飲んだはずの蔵六はすでに起きだし、こざっぱりした顔でみずから淹れた茶をすすっていた。

 酒は弱いほうではないが、久しぶりの深酒で気分がすこぶる悪かった。尚之介は流しで顔を洗ってから出された茶をがぶがぶ飲み、なんとか頭をたたき起こした。

 ふたりは簡単に段取りを確認しあうと、それぞれ準備に取り掛かった。

「じゃあ、あっしは先に出かけますんで」

 蔵六がそう言って長屋を出たのが五つ半ごろ。その背中を見届けてから、やっと起きだした寝ぼけまなこの麻衣に身支度をさせ、百地百軒ももちひゃっけんのもとへとむかった。時右衛門から麻衣を届けるようにと託されたカラクリ師である。

 話によれば、百軒の店は本町二丁目と室町三丁目の木戸の近くにあるらしい。蔵六の家から目と鼻の先の場所であると同時に、言わずと知れた江戸一番の繁華街でもある。

 日本橋に着くと、大通りはすでに本格的な賑わいを見せていた。景気のいい掛け声とともに脇をすり抜ける駕籠かき、路傍で団子を売る団子売りとそれを物欲しそうに眺める子供、長屋木戸から出てくる俸手振り、供連れの侍や丁稚でっちを連れた大店の女将、そして両側に軒を連ねる立派な瓦屋根の大店の数々。

 百軒の店は木戸より少し先、つまり室町側にあった。向かって右が漆器屋で、左手は薬種問屋、さらにとなりが仏具屋だった。

 尚之介は木戸脇にある自身番小屋を横目に見ながら店のまえに立った。屋号は『猫屋』。三間ほどの間口は全面が障子戸で閉め切られていて、紺地に猫の顔を染め抜いた暖簾が軒先にさがっていた。

「御免」

 声をかけながら戸を引くと、尚之介は広い土間に足を踏み入れた。

 店内は奥半分が板敷になっていて、つくりかけと思われるカラクリや、なんだかよくわからない道具や部品、蘭書などがあちらこちらにうずたかく積み上げられていた。

 そのなかに、こちらに背を向けて座る男の背中があった。作務衣越しに見える肩の線はたくましく、白髪まじりの小さな鬢を頭にちょこんと乗せている。

 一番奥の大きな作業台に向かって何やら手を動かしているようだったが、声をかけるまでもなく、男はふり返った。

 顔には人の良さそうな笑みを浮かべているが、その丸眼鏡の奥の目にはいささかの緩みもない。商人と言うよりは、やはり職人といった雰囲気の人物だった。

「いらっしゃい。お侍様、今日はどういったものをお探しで?」

 鋭い眼光に似つかわしくない物腰のやわらかい初老の男である。男は手で框に座るように促したが、尚之介は立ったまま切りだした。

「百地百軒殿とお見受けするが?」

「いかにも。江戸一のカラクリ技師、猫屋百軒とは私のことですが……」

「なら、久松時右衛門を知っているな?」

 尚之介がその名前を口にしたとたん、百軒の目にさっと敵意が宿った。

 考えてみれば、突然脱獄囚の名前を出されたのだから無理もない。改めて身分を明かそうとしたときだ。どこかでなにかがキリキリ音を立てていることに気がついて、尚之介はハッと耳を澄ました。

 かすかだがたしかに聞こえる。ぴんと張った糸が、さらに張り詰めていくような音―――。そんな不穏な音が、物であふれかえった作業場のどこかから聞こえてくる。なにかがおかしい。だが、なにがおかしいかはわからない。

「何の音だ?」

 そう言って睨みつけたときだった。百軒の背後から迫りくる物体に気づいて、尚之介はハッと身構えた。直後、物体は目にも止まらぬ速さで、耳もとを掠めて過ぎ去った。それが矢であることに気づいたのは、背後の分厚い木板に突き刺さっている一尺ほどの木製の矢を目にしたあとである。

「いったい何を……⁉」

 尚之介は刀の柄に手を伸ばした。が、百軒は怯まなかった。むしろ、頬は興奮で上気し、目は異様な輝きを帯びていた。

「役人が久松先生の居所を探りに来おったか⁉ だが、生憎だな若造、久松先生の居所など、こっちが聞きたいくらいだ。それに、たとえ知っていたとしてもやすやすと口を割るような百軒ではない!」それから、「はっはっは」と豪快に高笑いし、こうつづけた。「ちょうどよい、この百軒の傑作からくり『諸葛童子しょかつどうじ』の餌食にしてくれるわ!」

「それは誤解だ―――」

「問答無用! 物腰もしゃべり方も役人に違いないではないか!」

「たしかに昔はそうだったが、いまはただの浪人だ!」

「そんな出まかせでわしを誤魔化せると思うてか! 行け、諸葛童子。幕府の犬めを追い返してやれ!」

「クソ、なんて爺さんだ!」

 覚悟を決めて、尚之介が脇差を抜くと、麻衣の悲壮な声が背後から聞こえた。

「矢を叩き落とすなんて無理ですよ! それより逃げたほうが……!」

「無駄だ。背を見せたとたんに的にされるぞ!」

 尚之介は糸を巻く音から、すでに逃げる時間はないと判断していた。

「ただの役人にしてはなかなか良い判断だ! 試し打ちの相手として不足なし、一騎打ちじゃ!」

「来る―――!」

 尚之介は刀を正眼よりも少し高く構え、見えない敵に目を凝らした。が、そのとき、キリキリと限界まで緊張した音が、なんの前触れもなくふっと途絶えた。

「…………え?」

 静まり返った店内に三人の声が同時に響く。矢が発射されたと思しき棚のあたりを見つめたまま耳を澄ました。

 百軒がこちらに背を向け、その棚に歩み寄っていったのはしばしの沈黙のあとだった。台座から一尺半ほどの童人形を取り上げると、ためつすがめつしながら、なにやらぶつぶつとひとり言をこぼしはじめた。

「こりゃあいかんわい、糸が切れよったか……? やはり連続二射はまだ不完全なようだな……。仕方ない、わしの負けじゃ。奉行所にでも獄にでもどこにでも連れていけ。だが、さっきも言ったように久松先生の居場所などわしは知らん」

 ひと息にまくしたてると、居直ったように腕を組んで座りこんだ。

 尚之介はホッと吐息をつくと、ゆっくりと諭すように言った。

「俺は時右衛門殿から麻衣をここへ届けるようにと頼まれてきただけだ。怪しい者ではない」

 百軒は怪訝な視線を尚之介の背後に向けたが、その表情が変わることはなかった。麻衣のことも心当たりがないようだ。

 ふり返ると、麻衣は入り口で腰をぬかしていた。尚之介に腕をひっぱり上げられ、やっとのことで立ちあがると、おずおずと框まで進み、懐から書状を取り出した。

「時右衛門様が百軒様に渡せと……」

「こ、この字は……!」

 百軒の顔色が変わったのはそのときだった。腰を浮かして書状を取り上げるや、紙を広げる手ももどかしげに、文面を読み上げていく。

 そこになにが書かれているのか尚之介にはわからないが、百軒のようすを見るかぎり、深刻な内容だということはまちがいない。

 百軒は文面を二度読み返してから顔を上げた。麻衣の顔を呆然と見つめ、やがて尚之介に向き直ると、打って変わって神妙な面持ちで口を開いた。

「事情はだいたいわかりました。無礼の数々お許しくだされ。ですが、あなたのことはひと言も書かれていなかった。浪人だとおっしゃいましたが、久松先生とはどういった関係でしょう?」

「関係と言われても困るが……」

 尚之介は時右衛門と出会った三日まえからの経緯を簡単に説明した。時右衛門の最期を語ったときには痛みに耐えるような表情で相槌を打っていた百軒だが、それ以外は顔色を変えることなく、終始冷静に話に耳を傾けていた。

 ひと通りの状況説明を終えると、尚之介は最後にこうつけ加えた。

「六年前まで目付の支配下で常御用を務めていた。時右衛門殿が私のことを知っていたのはそのせいだと思う」

「六年前……? 失礼ながら名前をお聞かせ願いたい」

「申し遅れた、私は木島尚之介という者だ」

「そういうことでしたか、あなたがあの……」

 感慨深げに尚之介の顔をまじまじと見つめながら言った。どうやら件の事件の詳細が、江戸の学者たちのあいだで共有されているというのはほんとうらしい。

 やがて納得したように頷くと、百軒は意を決したように顔を上げた。

「事情はわかりました。久松先生のご意向に従って、麻衣殿はこちらで預からせてもらいましょう」

「そうしてもらえると助かる」

 それまで大人しく成り行きを見守っていた麻衣が、そのときになって不服そうな顔をしたが、つぶさに連絡を取ることを約束して納得させた。

 話がまとまり、尚之介はすぐに立ち去ろうかとも思ったが、ふと気になって尋ねた。

「それはそうと、さきほどのカラクリだが……」

「諸葛童子のことでございますか?」

 百軒はいちど作業場に上がると、諸葛童子を持って戻ってきた。市松人形を思わせる顔の子供が変わった形の弓を水平に構えている。

「この弓はいったい……?」

 尚之介の疑問に、百軒の顔がほころんだ。

「これは女子供の力でもたやすく引けるように改良された諸葛弩しょかつどという弓なのですが、それを改良し、自動発射を可能としたのが、この『カラクリ諸葛童子しょかつどうじ』なのです。といっても、この人形はカラクリ全体の一部で、あの棚自体が本体なのですが……」

 百軒はそう言って、背後の棚を見やった。 

「たいしたもんだな。だが、なぜあんなところに隠すように置いてある? 危うく死ぬところだったぞ」

「はあ、実は……」と、百軒がバツの悪そうな表情を浮かべた。「数か月前、この店に賊が入りまして。そのときは金を渡して事なきを得たんですが、いつかまたああいった輩が来たときのために、あそこに狙いを定めて設置してあったというわけです」

「返り討ちにしようと思ったわけか。まったくとんでもない爺さんだな……」

「いやあ、かたじけない」百軒はぺたぺたと広い月代をたたいて、おどけてみせた。だが、すぐに真顔に戻ると、深いため息を吐きだし、こう言った。「しかし、この諸葛童子も久松先生に出会ったればこそ生まれた代物です」

「そう言えば、時右衛門殿とはどういう関係でしょう? 先生と呼んでいるようだが……?」

「久松先生はわしの師匠です。怪訝に思われるのも仕方がありません。わしが久松先生に弟子入りしたのは、十年前、先生が四十わしが五十八のときでしたからな。江戸一と呼ばれて浮かれていたわしは、あの方に会って目が覚め、恥も外聞も捨てて弟子入りを志願したのです。あの方こそ日の本一のカラクリ師。このようないざこざに巻き込まれたのも、天才が故に背負ってしまった業なのでしょう……」百軒は眼鏡を外して指先で眉間を揉んだ。そしてふたたび眼鏡をかけ直すと、尚之介を見上げて言った。「木島殿、幕府に一矢報いる気になったら、いつでもわしに相談くだされ。この百軒、身命を賭してあなたに協力いたしましょう」

 その真剣な眼差しに思わず苦笑してしまった。

 尚之介は返答に困ったあげく、「それはこころ強いことだ」などと誤魔化し、逃げるように猫屋をあとにしたのだった。

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