回線落ちのアンカ

はるまき猫

第1話 バイオリンと不思議な夢

 もうだいぶ涼しくなってきた秋の夜。満月の淡い光が、ところせましと並んだ家々の屋根を優しく見下ろしている。そんな街のどこからか、今日も綺麗な音色が流れていた。


「……やめやめ。全然わかんない。なんなの―、これ」


 アンカは疲れて後ろのソファーに倒れこんだ。そのときに危うくバイオリンを床に打ち付けそうになったが、寸前でソファーに引き上げてなんとか軟着陸させた。


「大先生の選曲いっつも合わないんだよなぁ……」


 そう言いながら器用に腕を伸ばしてローテーブルの上にある楽譜を掴み、倒れこんだ状態のまま顔の真上に持ち上げて、題名を恨みがましく見つめた。

 その曲というのは、バイオリン教室の演奏会の課題曲のことだ。いつも、「大先生」と呼ばれるあまり指導に来ない老齢のおじいさんが、それぞれの課題曲を割り振る。かなり権威のある方らしいが、生徒からの評判はすこぶる悪い。なんせ、生徒のことをほとんど知らないのだから、選曲が壊滅的に合わない。騒がしい男子に、清らかな乙女をテーマとした曲を弾かせたり、上手な先輩に初心者向けの曲を指定したりと、枚挙にいとまがない。特に、初めての演奏会を楽しみにしている子達が拍子抜けしたような表情を見せるのは毎度のことだ。さすがに初心者の小学生にプロ向けの楽譜を渡そうとしたときは他の先生が止めていたが、だいたいはそのままその曲を練習することになる。偉い人に口出ししたくないのはわかるが、毎年他の先生にはがっかりしてしまう。親友のカナの言葉を借りれば、まさに、「大人って信用できないわ」だ。


「……まあ、今回は良い方だけど……、よくわかんないしなぁ」


 アンカの曲は、女性がある男性に片思いをする恋の曲だ。しかし、相手には婚約者がいて、結局恋は叶わず終わってしまう。そこで女性は悲しみのあまり、川に身を投げてしまうのだ。ただ問題は、アンカがまったくその曲に共感できないことだった。


「死んじゃうってどーゆーことよ。また新しい人を見つければいいのに。理解できないなぁ。なんであの大先生は毎回毎回上手にその人に合わない曲を見つけてくるのかな」


 一応ひととおり弾けるようになったが、いつも指導してもらっている先生からは、気持ちがこもってない、とダメ出しを受けた。

(……そりゃそうだ)

 アンカはふわぁっとあくびをすると、バイオリンをローテーブルに置いて、部屋着のワンピース姿で横になった。壁掛けの時計は、もう十時を指している。


「まあ、ゆっくり考えればいいよね」


 初めのうちはそのまま曲のイメージを考えていたが、眠気がピークに達してしまい、いつの間にか眠ってしまった。


                  ***


「ううっ……」


 なんだか右の頬が痛い。いや、右肩と右足も痛い。昨日、右半身を使い過ぎたのだろうか。しかもなんだか少し肌寒い気がする。

 アンカはゆっくりと目を開けた。


「え……」


 さっきまで夢見心地であったが、一瞬で頭が冴えた。

 だって、そこは家ではなく、きらきらとした遊園地だったから。

 空は黒く、真っ赤な月が出ている。目の前の大きなメリーゴーランドに、奥の方の大きな観覧車。コーヒーカップもあれば、ところどころにポップコーンの売店もあって、多くの人で賑わっていた。


「かわいい! え、すごいすごい。いつの間に来たんだろう?」


 アンカはどうやらコンクリートの道に倒れていたようで、体を起こすと皮膚にぼこぼこした跡がついてしまっていた。右半身が痛かったのは、横向きで右側を向いて倒れていたかららしい。


「でも……、どこだここ」


 アンカは立ち上がりながら、後ろを振り返った。そこには大きな白いゲートがあって、アンナはその内側にいるみたいだ。

 ゲートの奥は暗い森が見える。あんまり近づきたくない感じだったが、アンナはそこに見覚えのあるワイン色の物体が転がっているのが見えた。


「バイオリン……!」


 直ぐに駆け寄って両手で拾い上げた。さきほど見えたのはバイオリンのケースの方であったが、チャックを開けるとやはりつるつるとしたバイオリンが見えた。

(でもなんでここに? そういえば、私は寝ていたはずなのに……。そうなるとこれは夢?)

 アンカが不思議そうな顔でケースのチャックを閉めると、


「あの」

「えっ」


 急に声をかけられて振り返ると、そこにはスーツ姿のお兄さんがにこやかに立っていた。


「お客様はこれから入園なさる方でしょうか?」

「あ、なんというか、気付いたらここにいたんですけど。ここはどこですか」

「ここは、夢の中です。そしてこちらは、永遠に夢の中にいられる遊園地でございます」

「……?」


 何かの冗談だろうか。

 でも、お兄さんの顔は冗談を言っているようには見えないし、夢の中ならここにいる辻褄があう。


「えっと、アンカというのですが、あの……」

「かしこまりました」


 そう言うなり、お兄さんは胸ポケットから取り出した高級そうな手帳を確認し始めた。

 いきなりどうしたんだろう。

 会話が大分不自然だが、マイペースな人なんだろうか。

 しばらくしてお兄さんは手帳をしまうと、


「はい……、確認が取れました。どうぞご入場ください」

「いやいやいや、待ってください! ちがいます、私は目覚めたいんです」

「……目覚めたい?」


 急にお兄さんはとても驚いた顔をした。


「そういうお客様ははじめてです。そうなると……、困りました。これは、マニュアルになかった……」


 マニュアル、ということはもしかしてバイトの人なんだろうか。

 お兄さんはしばらく考えていたが、やがてポンと手を打って、


「とりあえずわたくしにはわかりかねますので、支配人に会いにいってもらえますでしょうか?」

「支配人?」

「はい、一番奥の事務所にいますので、お手数をおかけしますが、そちらまで足を運んでいただけますか」

「あ……、わかりました」

「すいません」


 申し訳なさそうな顔で謝られて、行くしかなくなってくる。

 アンカはためいきをついて軽く会釈すると、ゲートをくぐって遊園地の中に入って行った。

 アンカがゲートをくぐったあと、ゲートとお兄さんはみるみるうちに消えて行き、月だけがその異様な光景を目撃していた。

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