第十幕 海填む蛙の談

 最早この町に知る者など居らんようになってしもうたが、わしには幼き頃、年の離れた兄がおった。やんちゃで腕っぷしの強い、乱暴だが頼り甲斐ある、自慢の兄上様よ。

 相撲を取りゃ、大人相手にも大立ち回り。波止場から船漕ぎゃ、必ず誰よりも早う、向こう港の岸へ着いた。快活で、真っ直ぐで、はっきりと物を申す。良く焼けた顔で笑むその様はまるで、夏の日の猛るおひ様じゃと、幼いわしはいつも羨ましく思うておった。

 ……しかして、何言われようといつまで刺す、夏のしつこいお日様とは違い、兄のその命の火が尽きるのは、存外に早かった。今宵と同じ、夏の口の頃。まだ十四の元服前の、生意気にも前髪を剃り、髷などを結い始めた時分のことじゃった。


「祥吉郎、老ノ山へ鬼見に行こうぞ。」


 さる黄昏時。兄は白い歯見せてわしにそう言った。

 老ノ山に鬼が棲むと言うのは、わしの爺様の頃よりもっと古く伝わる、昔話よ。源平の大戦の頃より言い伝わるその鬼は「ごんごう」ちゅう不気味な呼び名で伝え聞いた。


「はよ寝んと、ごんごうが来るぞう。」


 なぞと、幼き頃父に何度聞かされたことか。そしてその度、布団の中で隠れ震えた事か。

 ……兎も角、兄はその老ノ山のごんごう鬼を見に行こうと、まだ陽炎に揺れる夕の波止場で、わしに言うた。


「しかし兄様、勝手に船を出せば、父に叱られてしまいます。」


 わしは珍しくもその時、兄に口答えをした。……げに情けなきはこのわしよ。幼き祥吉郎は、乱暴な兄よりも、見た事も無い鬼を怖れていたのよ。


「おそれが。お前などよう知らん。」


 乱暴にわしの髪の毛を掴んで「父様には、決して言うなよ。」とだけ言い残し、兄の漕ぐ船が、海渡り、遠くなる。遠くなる。そして、しかと向こう岸。老ノ山の麓村まで辿り着いたのを見届けると、わしは急に怖くなり、父と母の許へと急ぎ帰った。


「善太郎は、まだ帰らぬか。まだ帰らぬか。」


 日の暮れてから、夕餉ゆうげを食い終うても、兄が家へ帰ってくることは、ありはせなんだ。


「きっと兄は何事も無く山を下り、町の悪い仲間らに、つまらぬ山登りの話でも聞かせておるのだ。」


 深々と、夜が深まり、しかし父と母は破れ行燈の灯りを絶やさぬ。わしも眠れず、只々自分にそう言い聞かせるしか、遣りよう無かった。

 結局のところ、一度たりとて、微睡の中に呑まれる事無く、わしら家族は朝を迎えた。

 ……兄の乗って行った舟だけが流れ帰ったは、もうとっくに日が昇り切ってからの事よ。



 ほそおもての蛙の兄が、家族と離れ、ひとりきり。向かい立つは、陽も途絶え、まっくらやみに呑まれた険しき山。兄蛙は怖じる事無く、獣道をぴょんこぴょんこと跳ねてゆく。そうして、なんとか、なんとかして、山の中ほど。せせらぐ川のほとりにある、不気味な岩屋へ辿り着いた。岩屋の主は声も姿を現さず、しかし確かに、蛙の兄を、不気味な風の音で呼んでいる。ひゅうひゅうと鳴る、息の切れたような音に導かれ、一匹の蛙が、岩屋の幽々に、そっと呑まれてゆく。いつの間にか、岩屋の入り口は大きなくちなわのようになり、蛙を呑んだその口が、ゆっくりとその顎を閉ざす。夢はその辺りで、途絶えた。乱暴にわき腹を小突かれ、目が覚めたのだ。

「こん馬鹿たれ……っ!起きんか……っ!」

「……あぁ、おはようさんです。どうも、すみません。夜はどうにも、ねむくって。親分のお話はもう、終わりましたでしょうか。」

 親分はこそこそと話す俺と次郎さんに気付くと、きつくねめつけて、えらく大袈裟な咳をした。やはり、倒れられたそばから、斯様な長話をしたから、すこしばかり喉に来たのやも知れぬ。

「そ、そんで、親分の兄上は……?」

「見つけ出した時にゃあ、そらあもう、見るに堪えぬ無残な姿よ。まともなとこなんて、何一つも残っちゃあおらなんだ……!とんでもなく大きな獣にやられたように、襤褸ぼろ切れになった兄の胸にゃあ、確かに……確かに忘れもせぬ、あの古びた大太刀が突き立っておったのよ……っ!」

「それであの箱は、老ノ山の鬼の仕業じゃと。……しかして何故、また今となって、その鬼が。」

「兄だけにない!立て続けに死んだ父も母も、きっと鬼に取り殺されたのよ!それが証にあの大太刀!何度遠く海へ投げ捨てようと、人亡く時に必ずやこの屋敷へ帰ってくる……!父の時も、母の時もそうじゃった……っ!鬼が!鬼がこの家の血を絶やそうとしておるのよ!」

「親分、落ち着いてくだせぇ……!」

 染み出た脂汗をなん粒も畳に落とし、親分は自分の胸を押さえ、うずくまった。その顔色が大根のように白いのは、照らす白灯のせいのみにはあるまい。次郎さんの心配も、いかほどかうかがい知れぬ。俺は、幼い頃母が良くそうしてくれたのと同じに、親分の背を、ごくごく軽くたたいてやった。

「……すまねぇなぁ次郎……っ!わしゃ、偉そうにしとっても、どれだけ銭を持っとっても、あの頃の、おそれの祥吉郎の頃より、少しも変わっちゃあいねぇのよ……!ごんごうが怖くて、しようがねぇのよ……!」

 息荒く、ともすれば涙をもこぼしてしまいそうな親分のその顔を、まともに見る事は出来なかった。それがどうしてかは、俺には分からぬ。しかし今の親分をみていると、まるで親を亡くし一人泣く、そんなわらべを見ているかのような、悲しき心持ちにさせられるのだ。どう見ても、大きなガマ蛙のくせに、このものの在り方は、まこと不可解と言える。

「すまねぇなぁ次郎、すまねぇなぁ、椿。」

 乞うように蹲り、そうとしか言わなくなった親分を見て、しかして、奇妙に思う事が一つだけあった。

 鬼とは地獄のしもべにある。罪人をいたぶる鬼が、寝屋に立ち入ったそのわらべと、その親兄弟まで死なせてしまうというのは、何だか腑に落ちぬところがあるのだ。

 俺はむつかしい話を聞かされて、再び重くなってきたまぶたを閉じる。その裏には、赤口ひらき、この屋敷の主を呑まんとするごんごう鬼の姿が浮かんだ。が、やはりどうにも、その鬼のことわりを分かる事はないのであった。

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