遺書 二
妻と出会ったのは四年前、マンションの敷地に植えられた木々が赤く色付いた頃。
私の一目惚れだった、と言えたら良かったが、彼女に惹かれたのは、いくつか枝の葉が枯れ落ちてからだ。
それまでの彼女はただの家政婦。今まで来てもらっていた人よりも年齢の若い、なんなら実年齢よりも若く見える女性だ、という認識しかなかった。こんなことを言っては女性に対して失礼かもしれないが、事実なのだから仕方ない。
用がなければ話すこともなく、普段の彼女は無表情で淡々と仕事をこなしてくれて、特別気に掛かるようなことは何もなかった。
けれどその認識があっさり変わり、還暦を目前に控えた私が、三十も年下の彼女に惹かれてしまったきっかけは、劇的なことなど微塵もない、あまりにもささやかなものだった。
「君、この文章を読み上げてくれないか?」
その日二杯目の珈琲を仕事部屋に持って来てもらった時に、白い紙に手早く文章を書き、彼女に渡してそう頼んだ。
「……っ」
見たことのない表情をされた。
彼女は小さく息を呑み、見開いた目は潤みだし、徐々に頬を赤く染めながら、じっと、私から受け取った紙を見つめる。
まるで、恋慕う相手から直接恋文を受け取った、少女のような反応だった。
「……」
「早く、読み上げてもらいたいのだが」
「……失礼、しました」
彼女はこほんと咳払いを一つして、やっと文章を読み上げてくれた。
「潰した蕾は元に戻らない。幼ければ仕方ないと言われるかもしれないが、私はとうの昔に成人している。蕾を潰すことは何よりの悪であることを知っているにも関わらず、私は潰すのをやめなかった」
少し震えてはいるものの、涼やかで聴き取りやすい声だった。
これで良いですかと目で訴えてきたので、黙って頷くと、安堵したように吐息を零し、
「新作ですか?」
と訊ねてきた。
彼女くらいの時にほんの気紛れに書いた物が、奇妙な縁で出版社の人間の目に触れたことで、今の私は小説家をやっている。特に隠す理由もないので、顔出しが必要な時には表に出るし、彼女の所属する組織にも職業は伝えてあるし、彼女には執筆中に何度も珈琲を運んでもらっているのだ、今の文章が小説に関わる物でないかと察するのは当然だろう。
「そうだとも。完成すれば、来年の二月くらいには日の目を見るだろうな」
「……そう、ですか」
僅かに口角を上げる様子は、色付いた頬と相まって喜んでいるようにも見えるが、ほんのりとどこか、悲しそうにも見えた。
その表情の意味など当時の私には知る由もなかった。
「……君は、」
初めて彼女に興味を抱いた私は、なんとも陳腐な質問をしてしまった。
「普段、小説を読むかね?」
「……っ。えぇ、もちろん」
旦那様の作品も読ませていただいてます。
そう答えると彼女は、随分昔に学生向けに書いた、懐かしいタイトルを口にし、右手にそっと頬を当てながら、こんな問い掛けをしてきた。
「私、とても気になっていたことがありまして」
「何かね?」
「主人公が飼っていたわんちゃん、パグでしたっけ? 挿し絵に描かれたしわくちゃの顔がとても可愛かったあの子。作中での描写に、肉球からポップコーンの匂いがする、とありましたが、あれって本当にそんな匂いがするのですか?」
早口気味に語られた疑問に、思わず少し笑ってしまった。
「恥ずかしながら、犬を飼っていた友人からそのような話を聞いただけで、本当にそうなのか未だに確かめていないんだ。すまない。それともう一つ些細なことだが、彼が飼っていたのはパグではなく、ブルドックだよ」
「存じてます、わざとです。失礼ながら、覚えているかどうか確かめさせてもらいました」
照れたような笑みを浮かべ、ごめんなさいと謝る姿は、いたずらが成功した子供のようで、
「……そう、か。間違えなくて、良かったよ」
何の感情も表に出さない普段とは、まるで違うその姿に、ここ数十年久しくなかった感情が、私の胸を占める。
──甘ったるくて胸焼けのするそれが何であるか、知らない私ではなかった。
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