洗車雨の下で。
赤阪 杏
洗車雨の下で。
7月7日に生まれたから奈々子。
メルヘンな母に「織姫」と名付けられそうだったところを、祖母と父がそれこそ命がけで止めたと言うのは、親族間ではとても有名な話だ。
織姫になり損ねた奈々子も、ついに明日30歳になる。
◇◆
母はここ5年ほど、誕生日が来るたびに
「織姫と名付けなかったから、彦星がいつまで経っても見つけてくれないのだ」
とご立腹だが、私は愛する人と年に一度しか会えない運命なんてまっぴらだ。
洗車雨。
7月6日に降る雨のことをそう呼ぶらしい。
織姫に会うために彦星が牛車を洗車するから雨が降るらしい。
天空で好き勝手にしてしてくれる分には構わないが、地上の人間には迷惑な話だ。
今年も明け方から洗車雨が降っている。
この後も一日中雨の予報だ。
「彦星ったら、今年はずいぶん張り切って洗車するのね。」
朝からキラキラした瞳で、胸焼けするようなフリルのエプロンをつけた母がはしゃいでいた。
雨の日の満員電車が一番キツイ。
少し早めに家を出たから、混雑は幾分かマシだったが、それでも不快な事に変わりはない。
ようやく辿り着いた職場の最寄駅。
早く新鮮な空気を吸いたくて、急ぎ足で改札を潜って地上に出る。
それでも雨の日の空気は湿っぽくて、胸いっぱいに吸い込む気にはならない。
信号待ちの間に、手元のスマホで天気を何度確認しても、向こう一週間、綺麗に傘マークが並んでいる。
ため息をついたその時だ。
私の後ろから「洗車雨の後は催涙雨か。勘弁してくれよ彦星。泣かすなよ。なぁ。」
と、何度も夢で見るくらい聞きたかった、低い声が聞こえた。
「あんた、いつからいたの?」
「奈々子が改札通るの待ってた」
そんなことを聞いてるんじゃない。
「そんな事聞いてるんじゃない。いつ日本に帰ってきたの?」
「数時間前?夜中?未明?なんかそんな頃」
「…連絡してよ」
「おー、わりぃわりぃ。奈々子の誕生日って事に気付いて、急いで飛行機に飛び乗ったからな。連絡する暇なかったわ」
国際線を山手線のように言わないで欲しい。駆け込み搭乗なんて聞いたことない。
でも。この人なら、やりそうだ。
最近は夢でもちっとも会えなかった笑顔を振りまきながら、私が落としかけた傘を左手に持って、右手で私を抱きしめる。
その顔は反則だ。
言いたい文句も不満も山ほどある。
もう今度こそ、会わないって決めたんだ。
この7年間、何度そう決意しても実行できなかったけれど、今度こそ絶対に終わりにするって決めたんだ。
そもそも私は、こんな人混みでラブシーンを披露する趣味はない。
外国かぶれはこれだから嫌だ。
ここは日本だ。
「Nanako Happy Birthday!!!!!愛してるぜー!!!」
どうしよう。傘の下にいるはずなのに、私の顔はずぶ濡れだ。
1時間前に完成させたばかりのメイクも、酷いことになっているだろう。
「叫ぶな。誕生日、明日だわ」
「あれ?日本はまだ6日?ま、いーじゃん。もしかしてお前、今から仕事?」
「当たり前でしょ。ど平日だよ。」
「このまま拉致したいところだけど。荷ほどきしてアトリエで待ってるわ。」
「行かないよ。どーせあんた、またすぐいなくなるじゃん」
「…ごめん。でも毎年、奈々子の誕生日には必ず会いにくるよ」
突然の、その優しい声も反則だ。
雨音が強くなる。
「私も明日30歳だよ。いつまでもあんたの勝手には付き合えないよ」
「じゃあさ、奈々子がついてくりゃいいんじゃね?」
「は?どこに?」
「俺が行くところ?」
「ん?」
言っている事がよく理解できない。
突然、身体が解放されて、更にどうしていいのか分からい私に、
「はい、誕生日プレゼント」
と差し出されたのは
ポケットから取り出したクシャクシャの紙。
開くと中から、立派な赤い宝石が鎮座する、華奢なゴールドの彫金の指輪が現れた。
「冬くらいかなー?ミャンマーで仲良くなった人がさ、アクセサリーの彫金師さんで。7月生まれの恋人がいるって言ったら作ってくれた。あ!これ、デザイン画描いたのは俺だから」
相槌を打たなかったんじゃなくて、相槌も打てなかった。
クシャクシャの紙に
この指輪のデザイン画と、私らしき女性のラフスケッチ、そして
Would you marry me?と書かれていたのを見つけたからかもしれない。
「そいつにさ。もっとリングを太くしろ!ケチ臭い!って散々言われたんだけど。奈々子の白くて細い指には、これくらい華奢なリングがしっくりくるんだよ。ほら、ルビーの大きさもちょうどいいだろう。ルビーがまるで指に埋め込まれてる感じにしたかったんだよな」
芸術家のセンスはよく分からない。
けれどその指輪は、試着して買った物のように、私の左手の薬指にぴったりだ。
何と返事していいか分からないまま
「8月末の銀座での個展が終わったらまた旅に出るつもりだから。それまでに準備しとけよ。じゃ、仕事頑張れ。」
と、私の手に傘を戻すと、雨の中を傘もささずに消えていった。
ねぇ、彦星。ちょっと張り切って牛車を洗いすぎじゃないだろうか。
1年ぶりに会えた愛しい人の後ろ姿が、もう見えなくなってしまったじゃないか。
メルヘンな母は、きっと大喜びするだろう。私が「彦」の文字を持った男性を選んだと知ったら。
藤田 篤彦 -Atsuhiko Fujita-
ワイドショーでも取り上げられるほど注目されている「最も高値で作品が売れる」日本人画家だ。
退職の手続きってどうするんだろう。
ビザは?パスポートだけでいいのかな。
私が出したい答えなんて、最初からずっと決まってる。
ああ、だけど。
仕事が終わったら、まず、これが夢じゃないかきちんと確認しに行かないと。
だって今日はまだ
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