南の島(12)
あれ以来マヤはいつもヤシの実とパイナップルを持ってきてくれたので、それを飲みながら聖書を読むのが、最近のムラコフの日課になっていた。
その日も二人は浜辺で静かに昼下がりの一時を過ごしていたが、やがてマヤがこのように尋ねた。
「その本は、そんなに面白いの?」
「え?」
突然そう聞かれて、ムラコフは顔を上げた。
「だって、いつも読んでるじゃない。私だったらそんなにずっと同じ本ばかり読んでいたら、飽きちゃうけどな」
「うーん。そうは言っても、聖書を読むのが仕事だからな……」
ムラコフはそう答えたが、別にマヤ相手に見栄を張る必要もないかと思って、このように言葉を付け足した。
「まあ本当のところは、俺も正直ちょっと飽きてるけどさ」
「なんだ、あはは」
ムラコフの返答を聞くと、マヤは安心したように笑った。
「ねえ、それじゃあ今日の読書はもう終わりにして、これから一緒に遊びに行こうよ。面白い場所があるの」
「面白い場所?」
「うん、ついてきて!」
マヤが酋長の屋敷とは逆の方向に走り出したので、慌てて聖書をたたんでその後を追う。
しばらくそのまま海岸線沿いに進んだところで、マヤは島の内陸へと続くジャングルを指差した。
「こっちだよ!」
この島の海辺には白いサラサラの砂浜が広がっているが、そのすぐ後ろには、緑深いジャングルが迫っている。
実際ムラコフが寝起きしている東の小屋も、海側は大きく開けているが、その後ろ側には鬱蒼とした木々が生い繁っていた。
「大丈夫なのか?」
「うん、平気だよ。もう何回も行ってるもん」
マヤが気にせずジャングルの中に入って行ったので、ムラコフもその後に続いた。
中は、思ったよりは歩きやすかった。生い繁った木々がどれも地表近くではなくてっぺんに葉をつけているので、天然の傘のような役割を果たしている。そのためか空気がひんやりとしていて、思わず深呼吸をしたくなるような心地良さだった。
「一瞬で別世界だな」
「でしょ?」
「これって、どこまで続いてるんだ?」
「ふふっ、行ってみる?」
マヤがジャングルの奥に向かって歩き始めたのでムラコフもそれに続いたが、道なりに生えている珍しい植物についつい目を奪われてしまう。どれも大陸では見たことがない、熱帯特有の珍しい植物ばかりだ。
それから二人は、ジャングルの中をしばらく歩き続けた。
ムラコフはその後も珍しい蝶やら昆虫やらを見つける度に立ち止まっていたが、その度にマヤを待たせるのが申し訳ない気分になり、それからはなるべく立ち止まらないで歩き続けるようにした。
とはいえ初めて見る植物に出くわすと、やはりついつい目がいってしまう。
「植物、好きなの?」
「ああ、薬に使えるからな」
「ふーん」
マヤは思い出すような顔付きで言った。
「そういえば、最初に会った時も怪我を手当てしてくれたよね。あの時のは何?」
「あれは、セージをすりつぶして溶かした物。抗菌作用がある」
「詳しいのね」
「教会学校で、衛生係だったからな」
そんな風に植物に気を取られながら歩いていると、奥の方からガサッという草ずれの音が聞こえた。注意してよく聞いてみると、その音は次第に近付いてくるようだった。
次の瞬間、突然目の前に茶色い物体が飛び出してきた。
「!?」
ムラコフは驚いたが、マヤは何でもないような顔をしている。
「リスよ」
「リス?」
ムラコフは確認しようとしたが、いきなり人間に出会って驚いたのか、そのリスはすでに逃げ去ってしまっていた。
「そうか、リスか。しかし、ずいぶんと大きかったな」
「もっと大きいのも、たくさんいるわよ」
「へえー」
何だか、少し嬉しくなってきた。
いつも生活している東の小屋からほとんど離れていない場所で、こんな風に野生のリスに出会えるとは。
ムラコフは基本的に、動植物の類が好きだった。
「野生のリスって、初めて見た」
「そう? サルもいるわよ」
「サルも?」
ムラコフが聞き返すと、マヤはおかしそうに笑い出した。
「どうしたんだ?」
「だって、ちょっと意外で。ムラコフ君って普段はすごく落ち着いてるから、リスが出たくらいでそんなに興奮するなんて、まさか思わなかった」
「う、そうか?」
そんな風に言われると、何だか妙に気恥ずかしい。
自分ではそれほど興奮したつもりはないのだが、マヤの目からはそんな風に見えたんだろうか?
「まあでも、あれだな。こうして野生のリスに会ったからには、野生のサルにも是非会ってみたいな」
「そうね。サルはたくさんいるから、たとえイヤでも、この後必ず目に入ると思うわ」
「イヤでも? どうしてイヤなんだ?」
「だって、この時期のサルはちょっと……」
「ちょっと?」
「……ううん、何でもないよ」
マヤが言いにくそうに口ごもったので、ムラコフは意味がわからず首を傾げてしまったが、しばらくしてその理由がわかった。
「お、サル発見!」
そうこうしているうちに、マヤが先程言った通り、野生のサルに出くわした。
「――って、ん?」
二匹のサルが何やら取っ組み合いながら激しく動いているので、ムラコフは最初ケンカでもしているのかと思ったが、どうやら違う。
この時期のサルは、つまりは発情期なのだ。
(なるほど。それでマヤは、あんなに言いにくそうだったのか……)
サルの交尾を真剣に観察しながら、ムラコフは腕を組んだ。
「そ……そんなに真面目に見なくてもいいじゃない。早く先に行こうよ」
「いいや、これは重要なことだ。こういう生命の神秘には、神父志望者としておおいに関心がある」
ムラコフはその場に立ち止まって行為が終わるのを見守ったが、そこはやはり野生の動物。
サルの交尾は、どんなに多く見積もっても十秒足らずだった。
「うん。俺の方が勝ってるな」
勝ち負けの問題でもないような気がするが、とりあえずそんな感想を口に出してみる。
「……いいからもう、早く行こうよ」
「いやいや、しっかり見ておかないと。なんなら俺達も、サルに負けずに頑張るか?」
「……何それ、最低」
マヤがさっさとジャングルを先に進んで行ってしまったので、ムラコフは慌ててその後を追いかけた。
「おいおい、どうしたんだ? 俺達も負けていられないって前向きな発言をしたのに、どうして怒るんだよ?」
「……前向きさを発揮する方向性が、根本的におかしいと思う」
「いいじゃないか。さっきも言ったが生命の神秘だぞ、これは」
そうこうしているうちに道は登りになり、そのまま十五分も歩いていると疲れで息が切れてきた。
ムラコフはいったいどこまで行くのかマヤに尋ねようと思ったが、声をかけようとしたちょうどその瞬間、突然パッと視界が開けた。
「到着! 素敵な場所でしょう?」
そこはこの島の中で一番標高が高い地点らしく、見渡す限りどこまでも続く広大な海原が、二人の眼前に広がっていた。
「すごいな」
ムラコフは思わず感嘆のため息をこぼした。
いつもの浜辺からも水平線はもちろん見えるが、ここはより標高が高いせいか、さらに広く遠くまで見渡せる気がする。
ムラコフの様子を見ると、マヤは心の底から満足そうな顔をした。
「もし外から船が来たら、ここが一番にわかるでしょう? だから私、よくここに来るんだ。一時間もあれば一周できちゃうような小さな島とはいえ、この島にも探せばまだまだ冒険できる場所があるのよ。こんな風に」
「冒険、好きなんだな?」
「うん、大好き! 知らない場所に行ったり、知らないことを経験するのって、とってもワクワクするじゃない?」
「ああ、そうだな」
それなら知らないことの経験の一環として、先程の生命の神秘に二人で一緒に挑戦してみないか――と言おうかと思ったが、やめておいた。
たとえ冗談だとしても、あまりしつこく異性にこういう話をすると嫌われるだろう。
「よいしょ――っと」
マヤがその場に腰を下ろしたので、ムラコフもその隣りに座った。
しばらくの間、ゆっくりとこの景色を眺めていたい気分である。
「ねえねえ、ムラコフ君が住んでいた外の世界はとっても広くて、どこまでもずっと陸地が続いているんでしょう?」
「ああ」
「それで、すごくたくさん人がいるんだよね? とても全員は覚え切れないくらいに」
「そうだな」
「いいなぁ」
マヤは小さくため息をついた後、ポツリと小声でつぶやいた。
「私、いつかこの島を出られたらな――って思ってるんだ」
ムラコフが驚いてマヤの顔を見ると、彼女は弁解するように言葉を続けた。
「運命が最初から決まっているなんて、ひどくつまらないと思わない? 選択の余地が何もない人生なんて。毎日黙ってお祈りをして、しかるべき年齢になったら結婚して、子供を産まなきゃいけない。イヤでもイヤじゃなくっても、そうしなきゃいけないの。それはもう、生まれた時から決められているの――」
マヤはムラコフの目を見つめ、それから意を決したように口を開いた。
「ねえ、お願い。もしムラコフ君が乗っていた船がこの島に着いたら、私も乗せてくれないかな?」
「――……」
ムラコフが答えかねていると、マヤはさらに言葉を続けた。
「わかってる。それって、あなたがここで決められるようなことじゃないよね。でも、頼んでみてくれないかな? 乗れなくてもいい。頼んでくれるだけでいいから」
「……わかった」
実際そうできるかどうかはわからないが、こんなに必死なのをここで否定するのも酷だ。
ムラコフの答えを聞くと、マヤは小さく「ありがとう」と言って、それからムラコフの右手に自分の左手を重ねた。
「今言ったこと、誰にも言わないでね?」
ムラコフはどう反応していいかわからずそのまま無言でいたが、マヤはその沈黙を肯定と受け取ったらしく、つないだ手にギュッと力が入った。
「……」
もう少しその状況がそのまま続いたなら、ムラコフはきっと照れ隠しに「帰るか」とでも言って、立ち上がっていたに違いない。
しかしその直後にポツリと雨が降ってきたので、彼は雨宿りを言い訳に、そのままの体勢でしばらくの時間を過ごしたのだった。
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