入内
梅花が王宮に入内するまで、半年を切り王宮と妓楼では、密かに準備が進められていた。
王宮では白桜と桜月、そして梅花の側仕えに女官として付く予定の蕾柚が集い、梅花を迎えるための算段が整えられていく。
その中で、年明け七日を過ぎた後に、梅花を白桜の正妻とし更に白桜が王に即位した暁には、梅花を王妃として据える旨を、
雪虫が飛び朝晩に薄く氷が張る時期になると、梅花は周りに気づかれないように、入内の準備を進めていた。
王宮と頻繁に連絡を取り休日、出かけることも多くなった。また、妓女らが客の相手をしている隙を見て、自室の自分の物を少しづつ片付けていく。
芽李花も華琳も、日に日に荷物が減り、出かける回数が多くなったことに、気づいているはずだが、何も聞いてこず平然を装っている。
白桜からは、時期が来るまで入内の件は、内密にするようにと言われている。
現在、妓楼内で梅花が入内することを知っているのは、梅花本人、芽李月そして楼主の三名のみである。
三名は白桜らが指示するまでもなく、他言無言で入内の件は、内密にしている。
この日の晩。梅花は王宮から届いた文に目を通していた。
まだ、火鉢が要る寒さではないが、それでも空気は冷たい。
文には、年明け七日を過ぎた後に、梅花を白桜の正妻とし更に白桜が王に即位した暁には、梅花を王妃として据える旨を、
王宮の行き来に輿を寄越すのは、道中梅花が危険に晒されないように、という配慮だろう。
文には追伸として、芽李月と楼主にも、同じ内容を認めた文を届けたことが、認められている。
文からゆっくり視線を外し、顔を上げ空虚を見る。
慣れ親しんだ“妓楼”という名の家。共に家族のように過ごした、芽李花と華琳。どちらにも、別れを告げる時が刻一刻と迫っている。
入内し王妃に即位をすれば、恐らく二度と
もう、身分を理由に後ろ指を差されることも、好いてもいない客の相手をする必要もない。なのに……。
念願の自由が目の前にあるのに、触れることを躊躇している自分がいる。
入内をしたくない訳でも、白桜への想いが無くなったわけでもない。
ただ、いくら王命だとしても、自分だけ自由を手に入れても良いものなのだろうか。罪悪感が胸に広がる。
後ろ髪を引かれる思いである。
梅花の罪悪感をよそに、季節は確実に進んでいく。
銀杏や紅葉が色鮮やかに、染まる季節が過ぎると、都ではぐっと寒さが厳しくなる。
身を切るような冷たい風が吹き、都では民が白い息を吐きながら、首を竦め歩いている。都の北部では、既に初雪が舞ったとも、耳にしている。今年は、年明け前に初雪が舞うかも知れない。
梅花は何度目かの話し合いの為に、王宮に参内していた。城門を警備する官吏とも顔なじみとなり、お互いにこやかに会釈をする。
話を終え、帰路に着く途中。梅花は白桜を肩を並べ、外廷を歩きつつ自分が抱く“罪悪感”について口にする。
白桜は足を止め、暫し思案すると口を開く。
「第一に、入内するのは決して悪いことをしてる訳ではない。故に、梅花が罪悪感を抱く必要はないはずだ。
それに、私が王に即位をする際には、妓女を卑しい存在だと自負する官吏は官位を剥奪するつもりだ」
吐く息が白い。
「ですが、それでは反発を受けるのではありませんか」
梅花は不安げに、白桜の顔を覗き込む。
梅花としては、何も自分から反発の火種を持ち込んで欲しくはない。例えそれが、梅花や他の妓女らの為であるとしても。
梅花の胸中とは裏腹に、白桜は穏やかな表情でふっと笑う。
「案ずるな。どちらにせよ、即位をすれば官吏の大部分を一新せねばならぬ。特に、母上を支持していた無月派の者は」
白桜はここで言葉を切ると、「それに……」と言葉を紡ぐ。
「梅花は入内する故、妓女ではなくなるが、他の妓女らはこれまで通り……。そのようなことは流石に酷であろう。
これは、身分に関わらず皆平等だという、私の信条の第一歩になる」
白桜から同意の視線を求められ、梅花は曖昧に頷く。
年が明けた。
昨年は、春玲らが斬首の刑に処されたことで、新年を祝う花火など祝賀は取り止めとなり、厳かな年越しであった。
民は皆、今年は平穏無事で過ごせるようにと願う。
梅花はひとり薄暗い自室で、膝を抱えている。
同室の芽李花と華琳に、都への探索に誘われたが、断り部屋に閉じこもっている。
年越しということもあり、都にある店は夜遅くまで営業している。
梅花の関心は、七日後に出される予定の檄の件である。
芽李花も華琳も、まさか梅花が白桜の妃として、入内するなど夢にも思っていないだろう。
後七日経つと、自分が置かれている状況が一転する。そう思案すると、年越しの高揚感も新年の厳かな雰囲気も、どこか他人事である。
年の瀬が迫った頃から、どこか落ち着かない。
新年を祝う宴が行われた日の晩。
都中を黒づくめの衣を着た男らが、紙束を手に小走りに駆けていく。男らは辺りを気にして目についた壁に、手にしている紙束から一枚抜き取り貼り付け足早にその場を去る。
幸い現在は子の刻(午前0時頃)。都中は寝静まり、黒い衣は暗夜に紛れることが出来る。この時刻に、煌々と灯が付いているのは、それこそ妓楼ぐらいのものである。
男らは桜月の命により動いている、王宮の
手にしているのは、他でもない梅花を白桜の妃として入内させ、更には白桜が王に即位した暁には、梅花を王妃に即位させる旨を認めた檄である。
官吏らは、夜明けまでに都中のいたる所の壁に、檄を張り付けていく。
夜が明け一日が始まる。
その日、都では異様な光景が広がっていた。
都のあらゆる場で、民が人だかりを作り、檄を我先に見ようと押し合い圧し合い、時には怒号も聞こえる。
一人が檄に見入っていると、後ろから「自分にも見せろ」と声が飛ぶ。
民の多くは、檄を一度読んだだけでは釈然とせず、二度三度と視線を往復させる。
「これはつまり、妓女が王妃になるってことだよな……」
檄を読んだ男性が、呆然と呟く。男性の声に、別の男性が「あぁ」と低い声で呟く。
「王様も退かれて、そのうえ妓女が王妃に即位したら、この国はどうなっていくのだろう……」
民の顔には、新しい時代を迎える期待と、己が知る国とは変化していくことへの不安、両方が垣間見える。
梅花が王妃に即位するという檄は、一日と経たず広まり、当然月花楼にも客から話が持ち込まれていた。
客が一人また一人と、檄の存在を妓女に伝える度に、妓女らの「えっ?」「嘘でしょう?」という内容について懐疑する声と、客の「国璽と玉璽が記してあったのだから、嘘じゃない」という弁解する会話が、幾度となく繰り返される。
客の弁解を聞いても尚、「梅花が王妃なんて、そんなこと……」と妓女らは釈然としないままである。
檄の件で幾ら懐疑の声を上げても、梅花に直接真意を尋ねてくる者はいない。
同室の芽李花と華琳を除いては。
檄が張られた翌日の晩。
奉公人から、指名の声が掛かる前に、芽李花が意を決して口を開く。
「梅花。檄の件は誠なの?
本当に、
梅花を見つめる真剣な瞳。華琳も梅花の反応を注視している。
梅花はこくりと頷くと、二人は息を呑む。
暫しの沈黙の後、今度は華琳が口を開く。
「なんとなく、そうじゃないかって思ってた。
梅花姉さんこの所、休みの度に外出していたし、少しずつ荷物も片付けていたから……。近いうちに、ここを出るのかなって」
華琳は柔らかく微笑む。
「確かに、気づいてはいたけど……。
まさか、本当だなんて信じられなくて……」
芽李花の視線が下に落ちる。
芽李花の反応は当然である。
恐らく、梅花を含めこの場にいる者は誰も、彼女が入内し更には王妃に即位するなど、未だ実感のないことである。
「私だって、未だに信じられない。実感がないもの」
梅花は膝を抱え呟く。
梅花の反応に、芽李花と華琳は互いに顔を見合わせる。
恋焦がれる者の妻として入内するのだから、もっと嬉々としていると思っていた。
それ故、梅花の反応は想定外である。
梅花としては、入内することも王妃に即位することも、嫌な訳ではない。ただ、自身の胸中にあるこの感情がなんなのか、上手く言葉にできず口を閉ざす。
重い空気を祓うように、華琳が明るく「梅花姉さん」と声を掛ける。
華琳の声に、梅花は顔を上げる。視線を合わせた華琳は、にこりと微笑む。
「王宮に入ったら、どのような所か教えてね。どんな生活をしているのか、王子である白桜様はどのような方なのか……。梅花姉さんからの便り、楽しみにしてる」
華琳は明るく言うと、芽李花に賛同を求めるように視線を合わせる。華琳の視線を受け、芽李花は「そうね」と微笑む。
王子の正妻が王宮から妓女に文を出すことが出来るのか、梅花にはその知識はない。だが、白桜ならば梅花の希望を叶えようと、尽力してくれるはずである。
二人の言葉に、梅花は頷く。
梅花の頷きが合図だったかのように、襖の外から芽李花と華琳に指名を告げる声が届いた。
その声に、二人は立ち上がり部屋を後にする。
昨年、寒さが急に厳しくなったことから、年明け前に初雪が舞うのではないかと、囁かれていた。だが結局、そのようなことはなく年が明け二十日程経ってから、初雪が降り雪が、四寸(15㎝)程積もり、都を銀色に染め上げた。
火鉢に手をかざしながら、梅花は着々と入内するための準備を進めていく。
襦裙や簪といった、身に纏い着飾るものは王宮で用意する故、身一つで入内して欲しいと、伝えられているため、持っていた襦裙は気に入っているものを残し、他は妓楼内の妓女に譲るか、処分をするかどちらかである。
簪や歩揺も襦裙と同様に、準備を進めていく。
ふと手を止め、障子を開ける。雪はまだ深々と降っている。梅花は、冷たい風にぶるりと身震いをし、障子を閉める。
寒さが緩み寒梅の季節も去り、桜の花が五分咲きになり行き交う人々を楽しませている。
昨年は、桜の開花に合わせて花見の宴が行われたが、今年は喪中ということもあり、開催は見送られた。
明日、入内するという前夜。
梅花は自室で、芽李花と華琳に静かにこう切り出す。
「白桜様が君主に即位されたら、妓女の待遇は大きく変わると思う。
今よりもっと、生きやすくなる」
芽李花が「それは…梅花が入内するから?」と問う。問いに、梅花は頭を振る。
「いや。そうじゃない。
それが白桜様の信条だから“この国の民は皆平等”という信条。
そのような国造りを、目指していらっしゃる」
思えば、妓女は卑しい存在であるという風潮が、梅花と白桜の馴れ初めとなったのだ。
もしこの風潮がなく、妓女が生きやすい国だったのなら、白桜は梅花を助けるなどしなかったのではないか。
「今より、衣や簪が買いやすくなるの?」
華琳の問いに、梅花は「恐らく」と答える。
絶対とは言い切れない。全ては白桜が即位した後、どのように国政を進めるかに掛かっている。
「私も、そうなることを願っているし、そうなるように自分の務めを果たすつもり」
梅花は二人に視線を向け微笑む。
王宮に入内する日を迎え、見送りの為に同室の芽李花と華琳は勿論、楼主に芽李月、更には他の妓女も玄関に集まっていた。
入内を祝福するように、雲一つない金春色の空に、時折桜の花びらが舞っている。
梅花は芽李月らと向かい合わせとなり、最後のひと時を過ごしていた。数え十八年、過ごして来た妓楼と別れの時は、刻一刻と迫っている。
梅花は、一重梅色の風呂敷を抱えており、中には数着の襦裙と両手で数える程もない飾り物、それに白桜と交わした文が収められた文筥が収まっている。
「梅花姉さん」玄関で、輿の到着を待ってる梅花に、華琳が声を掛ける。
「便り楽しみにしてる。それと、身体に気を付けて」
華琳の言葉に大きく頷く。
「梅花」芽李花が柔らかく名を呼んだかと思うと、腕を伸ばしふわりと梅花の身体を抱きしめる。彼女がいつも焚き染めている、甘い香の香りが鼻腔に届く。
突然のことに、梅花は視線を忙しなく動かす。
「元気で。たまには、
芽李花の思わぬ言葉に、梅花の視界が微かにぼやける。
家である月花楼と家族でもある芽李花らのことを、忘れるなどある訳がない。
芽李花が身体を離すと、梅花は潤んだ目で彼女を見つめる。
「忘れる訳ありません。
ここで過ごした日々も、芽李花姉さんや皆のことも」
そして、二人で肩を揺らす。
二人の肩の揺れが納まると、芽李月が口を開く。
「貴女にとっては、これからが正念場になるでしょう。これは、終わりではなく貴女にとって、始まりに過ぎないのです。
ですが、貴女を想っているのは白桜様だけではないことを、どうかお忘れなく」
芽李月にそう諭され、梅花は「はい」と答える。
「承知しております。
それと……芽李月さん。ありがとうございました。
恐らく、芽李月さんがいなければ、わたくしはとうにここを追い出され、物乞いをしていたでしょう。
芽李月さんにご尽力して頂いたお陰で、わたくしは今日この日を迎えることが出来安堵しております」
梅花は芽李月に、感謝の意を伝える。
芽李月が梅花と白桜の関係を知った後、裏方として働くことを提案していなかったら、梅花は今頃妓楼を出、今よりもより過酷な生活を強いられていただろう。
芽李月が尽力し、王宮との橋渡しをしてくれていたからこそ、王宮に入内することが出来る。
皆であれやこれや、思い出話に花を咲かせていると、外から数人の足音が聞こえる。
梅花が振り返ると、数人の内官と兵部の官吏らが、妓楼の門を潜り真っ直ぐ歩みを進めている。内官の中には、桃苑の姿も見える。
桃苑は、玄関の引き戸を開け梅花の姿を認めると、すぐさま膝まづき視線を下に落とす。他の内官もそれにならう。
「お迎えに上がりました。梅花殿」
桃苑の澄んだ声。
梅花は頷くと、再度芽李花らに視線を移し、感謝・寂しさ・期待…様々な感情が混ざり合った揖礼を捧げる。
「行って参ります」顔を上げ、笑みを浮かべる。
沓を履き外へ出る、梅花の後ろを桃苑をはじめとした内官と、兵部の官吏が付いて歩く。
妓楼の門まであと半分といったことろで、梅花はふと足を止める。梅花は、振り返り、改めて自分が十八年間過ごした、月花楼をじっと見つめる。
「どうかなさいましたか」桃苑が静かに問う。
「最後に目に焼き付けておきたいのです。
恐らく、ここには二度と来ることもないでしょうから」
梅花は桃苑に寂しげに微笑む。
今日、妓楼を出ればもう二度とここに帰ってくることはない。そして、芽李花らとは今生の別れになるだろうと、予想している。
これから、梅花の家は王宮の内廷にある宮である。
妓楼の門を潜ると、用意をされた輿に乗りこむ。輿には、梅と桜が寄り添うように描かれている。
一、二、三の掛け声で、輿が揺れ王宮へと向かう。
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